第一録 時間の棺(三)
「念のため、無機物でも確かめておこう」
千堂がそう言うと、少女は「はい」と何の滞りもなく応答した。少女はボストンバッグを何とか持ち上げると、千堂の足元に寄せて置く。
「何をご所望でしょうか」
「文鎮はないか?」
「石のものならありました」
「それでいい」
少女が文鎮をかざして見せると、千堂は頷いた。
石を直方体の形に削った何の変哲もない文鎮に見える。
「合図で中に入れます」
「ああ、頼んだ」
少女は千堂の指示のもと、先ほどびわの乗った皿にしたのと同じように文鎮を冷蔵庫の中に入れた。そしてきっかり五分経ってから取り出す。
出てきたのは冷えただけの文鎮だった。
「千堂さま、普通です」
「想定内だ。対照実験は無意味なこととわかっていても、少しずつ条件を変えることに意味がある」
中学の時、理科の授業で同じようなことを教師が言っていた。
疋田がこのアンバランスな状況に居心地の悪さを感じていると、次はこれだと千堂が手に何かを持って掲げた。それは彼女が袂に入れていた懐中時計だ。
「これは機械式の懐中時計だ。一日に一回発条を回すことで時計として動く」
「入れてもいいのですか」
「本当はやりたくないが、この屋敷に機械時計があるとは思えない」
千堂がため息を吐く脇で、疋田は身をすくめた。
実験を勝手に始めたのは彼女なのに、なぜこちらが肩身の狭い思いをさせられているのだろう。存在感を消していたはずだが、千堂はこちらを振り返っていた。
疋田は慌てて口を塞ぐ。
うっかり余計なことを言ってしまっただろうか。
しかし彼女は疋田の背後を見ていた。振り返ると、そこには掛け時計があった。
「この時計、狂っていませんか?」
突然尋ねられ、疋田はたどたどしく頷く。
「あ……ええ、正常に動いてますけど」
「そうですか。ではこれを使いましょう」
対照実験は続く。
今回もまた、懐中時計を五分だけ冷蔵庫の中に放置して取り出した。結果として、針は一つも動かずに出てきた。
千堂は満足げに頷く。はじめから結果がわかっている実験など、する必要があるのだろうか。
気だるさが恐怖心を上回っていた。
早くこの実験を終わらせてほしい。
疋田が心の奥底でぼやいていると、千堂が「もし」と話しかけてきた。
「この家にデジタル時計はありますか?」
彼女の口からそんな風情のない横文字が飛び出そうとは思わなかった。疋田は少し理解に時間を要してから頷く。
「お借りしてもよろしいですか」
「……壊れませんか?」
「私の予想であれば。しかし保証はできません。問題があれば弁償いたします」
疋田は部屋を後に、しぶしぶ玄関口に置いてあるデジタル時計を取りに向かった。
居間からテレビの音とおもちゃで遊ぶ音が漏れ聞こえてくる。息子の存在を思いだして、疋田ははっとした。
いけない、母親としてしっかりしなくては。
疲れの出始めた顔を再び引き締めて、時計を片手に戻る。
疋田が戻ると、少女が冷蔵庫の扉を開けて待っていた。
疋田が千堂に時計を手渡すと、彼女はそれを全方向から目踏みするように眺めて口の端を持ち上げる。
「至って何の変哲もない時計だ。……匣」
「はい」
少女は慣れてきたのか、手際よくデジタル時計を冷蔵庫に入れて扉を閉めた。
三人でしばらく掛け時計の秒針に耳を傾けていると、少女がおもむろに口を開いた。
「……千堂さま、どうしてまた時計を入れたんですか?」
少女から会話を始めたのは初めてのことだった。
疋田は少しばかり驚いたが、千堂は懐中時計を手の中で弄びながら問い返した。
「この冷蔵庫の作用について考え直そう。匣、何だと思う?」
「やはり『中に入れた物の劣化を防ぐ』、でしょうか?」
少女の解答に千堂は小首を傾げる。そして疋田に目を向けた。
「疋田さんはどうです?」
「……さあ」
疋田は当たり障りなく、わからないふりをする。何と答えても間違っている気がした。
「そうですか」
千堂は味気なさそうに応答すると、びわの乗った皿の置かれた背の低い机へ手を伸ばした。断面が茶色く変色しかかっている一切れつまんで、口へ運ぶ。
しばらくして彼女は懐中時計の盤面へ気だるげに目を向け、顎で冷蔵庫を遣った。
「五分に設定したのは間違いだったな。匣、開けろ」
「わかりました」
もう見慣れた光景だ。少女は千堂の指示に従って、デジタル時計の入った冷蔵庫を開ける。
千堂の当初の仮説や少女の予想は「中に入れた物の劣化を防ぐ」だった。しかし彼女の反応からして、それは今の彼女の考えとは異なるのだろう。
疋田は自分の意思を持って、冷蔵庫の中に目を向けていた。
扉の隙間からデジタル時計を捉える。入れる前、時計は黒い液晶に白い文字が光っていた。
疋田はデジタル時計の文字盤を見た瞬間眉をひそめる。
液晶は電池を入れる前のように、闇を映していた。
しかし少女がデジタル時計を掴み、冷蔵庫から取り出した瞬間、画面に白い文字が浮かび上がる。それは今と変わらぬ時刻を表示していた。
電波時計なので当たり前だ、が。
「……つまり、どういうことですか?」
疋田が思わず質問を零すと、千堂はわずかに目を瞠ってから口角を持ち上げた。
「さあ、最後の実験だ」
千堂は壁から背中を浮かせると、冷蔵庫にまっすぐ歩み寄った。ぬるりとした赤い塗装を覗き込むと、手袋をはめ直した手を取っ手に引っ掛けて冷蔵庫の扉を開く。
「匣、入れ」
疋田は驚きの声をわずかに漏らした。
ぽっかりと空いた冷蔵庫の空間に目を遣る。小柄なこの少女であれば足を折りたためばすっぱり収まるだろう。
しかしそういう問題ではない。
「わたしなんかでよろしいのですか?」
非人道的な指示に唖然とする疋田を脇に、少女は淀みない足取りで冷蔵庫に近寄る。
「ああ。お前がちょうどいい」
「野良猫を使わなくてもいいのですか?」
「猫があの程度の知能で、私の指示に十分に応じられるとでも思うのか?」
「わかりました」
「ちょ──ちょっと待ってください!」
従順にも身を屈め、冷蔵庫の中に足を掛けようとする少女の腕を、疋田は慌てて掴んで引き留めた。
「冷蔵庫の中に人を入れるなんて……窒息してしまうかもしれないじゃないですか!」
「では貴方が代わりに入られますか?」
振り向いた千堂の眼光に、疋田は押し負けそうになる。
それは無理だ。
少女にも腕を引っ張られ、思わず顔をしかめた。
「あ、あなたもどうしてそんな、自分の身体を投げ出せるの」
疋田の問いかけに、少女はあたかも常識を突然尋ねられたかのように目を見開く。
「私は千堂さまに助けていただいた身ですので、千堂さまのお役に立てることならなんでもします」
この少女、騙されてはいないだろうか。
少女への呼び方からしても、千堂はまるで人ではないように扱っている。
「さて、気は済みましたか?」
千堂が手袋に包まれた手を叩くと、少女は一つ頷いてしゃがみ込んだ。そして少女が頭をぶつけてしまわないように頭上を確認した時、ぴたりと動きを止める。
「……千堂さま、せっかくいただいたお洋服が──」
「お前もくどい」
懸念を口にしかけたところで、千堂は冷蔵庫の扉を蹴り閉めた。
「ちょっと乱暴だけは」
「あの程度じゃ、《《あれ》》は《《壊れません》》よ」
疋田は千堂のその言葉に、絶対的な信頼感よりも憎しみを感じた。
どういうことかと尋ねたい気持ちはあったが、千堂のぴったりと閉じられた唇を見てはとても聞ける気がしない。
疋田は二人だけになってしまった静かな空間で、懐中時計の秒針に集中することに努めた。そうでもしないと、気まずさに押しつぶされそうだ。
「あと三十秒」
千堂のその言葉で、逃避しかけていた意識が引き戻された。その瞬間疋田は、中で少女が死んでいる可能性を想像して、顔から血の気が引く。
冷蔵庫の中からは一切の物音がしない。本当に息絶えていたら。
疋田が気を揉んでいる脇で、千堂は堂々とした足取りで冷蔵庫に近づいた。そして懐中時計をしばらく見つめると、取っ手に手をかけて勢いよく開く。
「──汚れませんか」
そのとき、少女の声が中から漏れ聞こえてきた。
まるで彼女が冷蔵庫の中にいた五分間が、そのままそっくり消えてしまったかのよう。彼女だけだ五分前の世界に取り残されているみたいだった。
しかし千堂は疋田の反応とは裏腹に、一切の動揺を見せない。
「出てこい」
「もう五分経ったんですか?」
少女は戸惑いを露わにしながら、冷蔵庫から這い出てきた。
──もしやこの冷蔵庫の中に入っている間は、老いずに済むのだろうか?
乱れた制服を整える少女を見つめながら、疋田は考える。心なしか少女の肌は艶やかになっているように思えた。
好きな時に外に出てくることができれば、一生老いずに済む。
そのとき、隣に立つ千堂が手袋に包まれた手を叩いた。
「これで、破壊方法の算段が付いた」
「え……本当に壊してしまうんですか?」
疋田は思わず訊き返す。
千堂は不可解そうな心情を露わにして眉を曲げた。
「今更なにを。こんな忌まわしいもの、残しておいてどうするんです?」
「で、でも冷蔵庫の中は時間が経過しないんでしょう? この子だって、生きて帰ってきたわけですし」
自分は何を必死に弁明しているのだろう。
疋田は脳の隅でそんなことを考えながらも、言わずにはいられなかった。
しかし千堂は見せつけるようにため息を吐くと、冷蔵庫の中を開いてみせた。
「……貴方、都合のいい《《物》》になりたいんですか?」
「え……?」
疋田は千堂の意図を汲み取れずにきょとんとする。
千堂は冷蔵庫の扉の内部を指さした。
「冷蔵庫の内側には勿論ノブがありません。冷蔵庫の本来の目的は人間を仕舞うことではないですから」
この中に入りたいなんて、いつ言っただろうか。
「この小柄な匣ですら窮屈なほどに内部は狭く、古い冷蔵庫なので磁石も強力です。そもそも、中にいる間は時間が経過していないので、中から開けるという動作自体が不可能だ」
千堂が一度扉を閉めて、もう一度開ける。それには大きな反動を必要としていた。
「貴方は外の人間に必要とされた時にしか取り出してもらえない、『物』になりたいんですか? 私からすればこんなもの、百害あって一利ない」
「そんな言い方……一応この冷蔵庫は私の祖母の形見なんですよ!」
百害あって一利ない。
その言葉に疋田はついカッとなって叫んだ。
あの冷蔵庫にはずっと桃が入っていた。あの桃は──信じがたいが──疋田が幼少の頃、祖母にプレゼントしたそのものに違いないのだ。
祖母は疋田からもらったものをずっと大切に保管していた。それを一利ないだなんて。
しかし千堂は至って冷静に頷いた。
「ええ、そうです」
疋田は頭に冷水を掛けられたような気がした。
初めから変わった人たちだと思っていたが、価値観の違う人たちに大切なものを明け渡す通りはない。
夫なら、私が若さを保つためだと言えば、毎朝冷蔵庫で眠る私を起こしてくれるかもしれないし、人生の半分くらい「物」の生活でも問題ない。
──だって冷蔵庫に入っている間の時間はないに等しいのだから。
「やっぱりやめます」
疋田はきっぱりと言い放った。
「では、ご依頼を取り下げると?」
「はい。形見を壊されるのも嫌ですし」
千堂は怪訝そうに眉を曲げるが、彼女に理解してもらわなくても構わない。
疋田は彼女らに帰宅を促すべく、洋室の扉のノブを掴んだ。




