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第一録 時間の棺(二)




 雨音を縫うように、どこかのコンビニエンスストアで耳にするメロディーと同じインターホンが家中に響き渡った時、疋田杏奈は逸る気持ちを抑えきれず玄関へ走った。


 夫は新聞の広告にあった「珍しいもの、高値で買い取ります」という売り文句に惹かれたのだろうが、疋田は金のことなどどうでもよかった。


 疋田はすっかり古くなって金属が軋む引き戸を力で押し開ける。


「お待ちしておりました……!」


 縋る思いで顔を上げると、そこに立っていたのは想像以上に若い容貌をした黒い着物姿の女性と、白いブラウスに紺のジャンパースカートというどこかの制服を身にまとった髪を肩口で切り揃えたの少女だった。少女はその体躯に見合わない大きなボストンバッグを手に持って、ぴんと背を伸ばして立っている。


「え……ええと」


 戸惑う疋田を前に、女性は黒の長髪を耳に掛けてにこりと目を細めて微笑むと、黒地に真っ赤な彼岸花の咲いた袂に手を差し込み、一枚の白い小さな紙を差し出してきた。


「ご依頼ありがとうございます。千堂骨董店、現店主の千堂(せんどう)(かなめ)です。本日はどうぞよろしくお願いいたします」


 白い紙の中央には清潔感のある明朝体で「千堂枢」と名が刻まれていた。


「貴女が千堂枢さんですか……」


「想像とは違いましたか」


 着物の女性は紅を差した目元を弓なりにさせると、じっとこちらを見つめてきた。


 不思議な人だ。すべて見透かされている。


 疋田は髪を指で梳いて、咄嗟に表情を隠した。


「え、ええ。てっきりおじいさんのような人がいらっしゃるかと」


「よく言われます」


 広報手段もその硬派な名前も、目の前の女性を見れば確かにぴったりだったが、当初予想していた人物像とは大きくかけ離れている。


「あ……すみません玄関口で。どうぞお上がりください」


 疋田は雨音に我に返ると、玄関を大きく開いて家の中へ招いた。


「お邪魔いたします」


「お邪魔します」


 千堂に続いて、制服を着た少女も後ろからついて上がる。少女は制服を着ていたが、小学生と間違われてもおかしくないほど小柄だった。


 少なくとも疋田にとって、この依頼に小さな子供が来るのは──着物の女性も大概だが──場違いに思えた。どうやって冷蔵庫を運び出すのだろう。


 疋田は悶々と考えた挙句、足を止めて振り返った。


「あの、そちらのお嬢さんは……?」


 失礼にならないよう、言葉を選んで尋ねると、千堂はまったく気にしていない様子で微笑んだ。


「私の助手ですよ。問題があれば捌けさせますが」


「助手……いえ、問題ありません。……例の冷蔵庫のある部屋へご案内します」


 助手なんて言葉、推理小説か大学でしか聞いたことがない。


 きちんとネットで評判を調べてから依頼するべきだったろうか。ふと疑心暗鬼になりかけたそのとき、背後から声をかけられた。


「それで疋田さん、冷蔵庫の件ですが」


 手紙に書いたことを思わず引きずり出されて、疋田の表情はこわばる。


 あの話はあれで終わりだと思ったのだが、よくよく考えてみれば状況を振り返ることは何らおかしなことではない。特に疋田は手紙で状況説明をしたので、本人の口から確かめたいこともあるだろう。


 疋田は手のひらを握り締めて、無理やり愛想笑いをした。


「え……ええ、おおむね手紙に書いた通りです。手紙に書いた通り祖母が先日亡くなりまして、ここには遺品整理のためにしばらく滞在しています。その最中にあの冷蔵庫を片付けることになって……」


「生前のお祖母さんの様子を伺っても?」


「生前祖母は足が悪くて、晩年はほとんど寝たきりでした」


 ベッドに横たわる彼女の最期がふと脳裏によみがえるが、悟らせないように答える。


「そんな彼女がうわ言のように『死後は冷蔵庫に入れてくれ』と言っていた、と」


「……はい。私はそんな祖母に嫌悪感を覚えていたはずです。ですが、あの桃を見て……」


「その桃は本当に廃棄されたのですか?」


 疋田は思わず足を止めた。


 疑われているのだろうか。


確かに疋田は手紙に、冷蔵庫に執着してしまっていることを書いた。そんな人間なら、あの桃を食べていてもおかしくはないかもしれない。


 疋田は自身の名誉のためにもはっきりと首を横に振った。


「は、はい、もちろん。いつ入れた物かもわからなかったので」


「貴重な実験結果が……」


「……はい?」


 予想外の呟きに、思わず聞き返す。


 しかし千堂は取り繕うように咳払いをした。


「失礼。……それで、冷蔵庫に魅入られるように?」


 聞き間違いだったかもしれない。


 疋田は問いかけに頷いた。


「あの冷蔵庫を使い始めてから、夫にも料理を褒められるようになって……もしかしていい冷蔵庫なんじゃないか、って思ったのがきっかけだったと思います」


「それで冷蔵庫に体をねじ込むなんて、随分と追い詰められていたんですね」


「そ、そうですね」


 振り返れば、精神を病む要素は充分にそろっていた。


 母が同居しているとはいえ、目の離せない年齢の息子がいて、祖母については役所のことに疎い母に変わって疋田がやっていたのだ。


「体の痣を見せていただいても?」


 少し慰められたような気がしてほっと気を緩めたとき、千堂がそう言った。


「……それは必要なことなのですか?」


 出来れば見せたくはない。


 自身の汚点は他人に容易に見せたくないものだ。


「いわくつきのもの、とお伺いしていますので」


 千堂は疋田の躊躇いを察してはくれないようだった。


 疋田は仕方なく袖を捲ってみせた。ちょうど肘の辺りに痣がある。時間が経過したことで、痣は青くなっていた。


「なるほど、ありがとうございます」


 袖を下ろすと、疋田は見えた洋室に駆け寄ってドアノブを回した。


 これでやっと、あの冷蔵庫と別れることができる。


「あの、部屋はこちらです。どうぞお入りください」


 扉を開けると、千堂は赤い冷蔵庫を一目見るなり躊躇いなく部屋へ足を踏み入れた。


 対して疋田は、無意識に粟立つ肌を何度もさすりながら部屋の隅に立つ。


 今は雨が降っていて薄暗くこそあるが真夜中ではない。しかしあの日の、冷蔵庫から漏れた青白い光がフラッシュバックしてたまらなかった。


 疋田は悪寒を鎮めるように何度も腕をさする。


 そのとき、冷蔵庫をまじまじと観察していた千堂が、おもむろに姿勢を正した。


(はこ)、触ってみろ」


 まるで記号か役割かのように名前を呼ばれた少女は、一切の戸惑いを見せず千堂の呼びかけに応じた。


 出来れば早く持って行ってほしかったが、こちらが頼んでいる以上急かすことは躊躇われた。疋田はじっと黙って彼女らの行動を見守る。


 匣と呼ばれた少女は、ぺたぺたと冷蔵庫の側面に手を這わせた。


「冷たいです」


「そうか。中は?」


 冷蔵庫の扉を開けると、冷気があふれ出す。冷やされた空気が解放され、梅雨のじめじめとした空気と混ざり合った。


洋室の全体が冷蔵庫に浸食されたような感じがして、疋田は思わず後ずさる。


 しかし少女は一切の怯えも見せず、冷蔵庫の中を覗き込み、内部も同じように手で触れた。


「同じく冷たいだけです、千堂さま」


 少女の報告を受けて、千堂は顎に手を添える。少し考えるそぶりを見せると、今度は少女が抱えて持ってきたボストンバッグへ、その白い光沢のある手袋に包まれた指先を向けた。


「匣、中にハンマーがあるはずだ」


 少女は短く反応すると、ボストンバッグの前にしゃがみ込み、チャックを開く。


 疋田は失礼だと理解しながらも、バッグの中へと目を向けた。中には無骨な工具から、何に使うのか不明なロープや、変わった形の定規などが無造作に押し込められている。


 少女はその中に手を入れ、何かを探り当てた。千堂の指示した通り、彼女の手にはごく普通の人の腕ほどの長さのあるハンマーが握られている。


それは、ごく普通の何の変哲もないハンマーに見えた。


「あ、あの、ハンマーでいったい何を……」


「ご心配なく。回収はきちんと致します」


 千堂は妖艶ににっこりと微笑むと、少女からハンマーを受け取った。


 鮮やかな着物に艶やかな化粧をした長い髪の美しい女性が、いかにも高そうな手袋ををした手にハンマーを握っている。あまりにちぐはぐ、奇妙な光景だった。


 先ほどの言動から、千堂枢が少々変わった人だということはわかっている。


そのため、彼女が握るのは工具の一つに他ならないが、疋田は自分の知る以外の方法で、それを使うのではないかと期待を寄せた。


「匣、冷蔵庫を抑えておけ」


「はい、千堂さま」


 少女は冷蔵庫に抱き着いた。全身を使って支えるということだ。しかし千堂はハンマーを両手で握ると、一切の躊躇いも見せず大きく振り被った。


「ひっ」


 骨にまで重い響くような金属音に、疋田は悲鳴を上げて身を強張らせる。


「まあ、ここまでは想定内だな」


あまりに冷静すぎる声に、無意識に瞑っていた目をうっすらと開くと、千堂がハンマーを片手に冷蔵庫の側面を指でなぞっていた。


 彼女は本当に冷蔵庫をハンマーで殴ったのだ。


「ご覧ください、この冷蔵庫。傷一つありません。非常に壊し甲斐がある」


 なにやら物騒な言葉を耳にした気もするが、疋田は千堂に促されるままそっと冷蔵庫へ近づいた。


 彼女の言う通り、その冷蔵庫には傷一つついていない。赤い塗装も一切剥げていなかった。


 この冷蔵庫は疋田が生まれる前から存在するものだ。もしかしたら祖母が今の疋田と変わらない年の頃からあるかもしれない。


 だというのに、ここまで頑丈なのはいくら何でもおかしいとさすがの疋田でもわかった。


 いわくつきなのは、疋田の身に起こったことだけではなかったのだ。そうわかった瞬間、背筋に悪寒が駆け上った。


「ひ……引き取ってくださるんですよね⁉」


「ええ、もちろん。それより……りんごのような酸化しやすい果物はありませんか?」


「できれば持ち帰ってからそういうことはしていただきたいんですけど」


 半ば叫ぶように訴えるが、全く意思が伝わっていないのか千堂は首を傾げる。


「ここにとても重要なサンプルがいらっしゃるのに、わざわざ帰って実験をするなんて、非合理的でしょう。……それで、酸化しやすい果物はありませんか?」


 早く実験を終わらせて帰っていただこう。


 疋田はそう決断し、台所へと足早に向かった。


 それに、「サンプル」という言葉も聞き捨てならない。


 台所に立ち入ると、焦る手付きで果物かごの中を漁った。


 そもそも彼女が所望するりんごは、この梅雨の時期にはまったく出回らない。当たり前だ。旬の時期ではないからだ。もう少し時期が過ぎれば、果物屋で見かけるようにはなるが。


 かごの中身をテーブルの上にひっくり返していると、びわを見つけた。先日庭に生っていたのを回収したまま、存在を忘れていたものだ。


 これならば、皮を剥いた直後からすぐに酸化して、鮮やかな橙黄色が茶色く変色する。


 疋田は枝についたままのびわを幾つかもぎ取ると、皿と果物ナイフと布巾を一緒に持って洋室へ戻った。


「持ってきました。あいにくりんごはなくて……うちの庭で採れたびわならあったんですけど」


「問題ありません。……匣、比較実験だ」


「はい」


 一式を恐る恐る差し出すと、千堂ではなく少女が背伸びをして受け取った。


 代わりに千堂は人差し指を立てる。


「まず、私は仮説を立てた。『この冷蔵庫は中に入れた物体の劣化を防ぐ、という異常性があるのではないか』」


 千堂の指がそのまま彼女の顎を滑った。


 疋田はその仮説に違和感を覚えて、思わず尋ねる。


「それだけですか?」


「『それだけ』とは?」


 千堂は軽く首を傾げて疋田を促した。疋田は彼女の捕食者のような目つきから目を逸らす。


「……例えば人を惹きつけるような作用があったりとか」


 おずおずと思ったことを絞り出すと、千堂は「ああ」と頷いて表情を緩めた。


「それは私の専門外です」


「専門があるんですか?」


「先ほども、ちらりと申し上げましたが、私は回収した物体を破壊することを目的としています。誘惑だなんだというのは、破壊する動機であって壊す方法には関与しません」


「じゃあ『サンプル』というのはなんだったんですか?」


 今度は疋田が首を傾げる。


てっきり乱心した張本人ということだと思ったのだが。


すると千堂も疋田の真似をするように首を傾げてみせた。


「おや、貴方は冷蔵庫に体を突っ込まれたのではありませんでしたか?」


「……」


「もしかしたら、貴方の体に……心ではありませんよ? 身体的な話です。そう、貴方の体に変化が起きているかもしれないでしょう?」


 千堂はにこにこと笑っている。


 疋田は千堂に思い起こさせられた悪寒を宥めるように腕をさすった。


 つくづく変な人だ。


「……わかりました。続けてください」


「そうさせていただきます」


 千堂は疋田に「気は済んだか」と言わんばかりにわざとらしく微笑みかけると、少女を振り向いた。


 なぜこちらがその対応をされなくてはいけないのか。理不尽だ。しかしこちらがお願いしていることも確かだった。


 疋田は文句を言いたくなる口を引き結んだ。


「匣」


「はい、千堂さま」


 突然の呼びかけにも少女は迅速に反応する。


「びわを一つ、真ん中で切り分けろ。片方のみを冷蔵庫に入れ、五分待つ」


「了解しました」


「時間は私の時計で測ろう。合図をしたら、お前は片方を冷蔵庫の中に入れて扉を閉めるんだ、いいな」


 千堂は何処からともなく懐中時計を取り出すと、チェーンを細い腕に掛けて、盤面を細めで見下ろす。秒針が時を刻む音が、室内に満ちる。


 緊張感で静まり返った室内で、疋田は息を飲んだ。


「十秒前だ」


 千堂の合図に少女は果物ナイフを握ると、びわに刃を入れた。皿に金属が擦れる音がやけに響く。


「五、四、三、二、一……」


 少女は張り詰めた空気のわりに緩慢な動作で、冷蔵庫の扉を開いた。半分に割れたびわの片方を皿から取り除いて、冷蔵庫の棚に皿を置く。


「零」


 そして、千堂の言葉と同時に扉を閉めた。


 冷蔵庫の扉に内蔵された磁石同士が引き合い、冷蔵庫と仲と外が確かに断絶される。


「さあ、私たちはこちらのびわの断面が虚しく変色していく様を見届けよう」


 千堂は怪しげに表情に笑みを湛えながら、壁にもたれかかり腕を組んだ。少女は千堂に皮が付いたままの片割れの断面を見せる。


 しかし千堂は顔から笑みをかき消し、首を捻った。


「ところでこのびわ」


「は、はい」


 びわに問題はないはずだ。この家の庭に生るびわは毎年食べているし、身体に問題もない。


 疋田は身構えた。


「とても美味しそうです。一ついただいても?」


 返ってきた言葉に拍子抜けして、疋田は少し遅れて頷く。


「ど……どうぞ。毎年食べきれず、近所におすそ分けしに行くんですが……今年は縁起が悪いかもと諦めていたんです」


「びわに罪はないからな。匣、剥いてくれ」


「はい」


 千堂は白い手袋の指先をつまむと、するりと脱いだ。意外にもその下から現れたのはただの白魚のような手だった。少女がせっせと剥いたびわを細い指が端からつまむ。


「下手な果物屋に置いてあるものよりずっと甘いな。……そろそろ五分が立ちそうだ」


 千堂は腕にかかったチェーンをしゃらりと鳴らして、冷蔵庫へ目を向けた。


 少女は千堂に布巾を手渡すと、冷蔵庫の取っ手に手を掛けた。


 千堂の左手には依然として、冷蔵庫に入れた物の片割れが鎮座している。たった五分しか経っていないのに、断面は茶色く酸化していた。


「五秒前だ」


 そして先ほどと同じように零の合図で少女は冷蔵庫を開ける。


 五分ぶりに口を開けた冷蔵庫からは冷気があふれ出した。少女はその冷たい空気の中に手を伸ばして皿を取る。


 皿に乗ったびわの断面を見て、疋田は顔を引きつらせざるを得なかった。


 しかし隣からくつくつと喉で笑う声が聞こえて、疋田は顔を上げる。そしてすぐに後ずさった。


 千堂は笑ってはいなかった。


「忌々しいな」


 まるで汚いものを見るように皿に乗ったびわを見下ろしていた。


 疋田は目を細めて、皿の上に視線を向ける。


 びわの断面は、たった今切ったように橙黄色のみずみずしさを保っている。それは疋田に、桃を見つけた時を思い起こさせた。

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