邂逅の章 第2節
瞼を開けると、部屋には陽ざしが差し込んでいた。
外から聞こえる鳥の鳴き声が、朝だと告げている。
再び招かれざる客が来やしないかと気を張っていたが、いつの間にか眠ってしまったようだ。
室内へ押し入られる悪夢を見て、まるで眠った気がしない。
重い瞼を擦りつつ、気怠い体を起こす。
眠る前より増した黴の匂いに辛抱溜まらず、この部屋唯一の両開き窓を力いっぱい開けてみた。
黴臭さがすっと抜けていき、穏やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
窓の外からは、このステウレグの街並みが良く見える。
似たような造りの建物ばかり並んでいるが、街の中心部には一風変わった建物もあるようだ。
窓の下を見下ろすと、もう幾人もの人々が慌ただしく歩いていた。まだ陽も昇ったばかりというのに。
たくさんの人々が住むこの街で、今日こそシスカの手がかりを得なければ。
ふと窓の外に向けて手を伸ばし、掌に意識を集中させた。
手首から指先までを包むように、空気の奔流が渦巻く。
故郷で巻き起こせた風とは、比べ物にならないほど穏やかな風だった。
やはりだめだった。
かつて竜の巨体も弾いた風を、今は到底呼び起こせそうにない。
魔導とは。
自らの魔力を媒介に、世界のあちこちに流れる大いなる力の巡り――”霊脈”と接続し、魔力を行使するもの。
例えば大地の底、山脈、河川。
まるで血管のように、霊脈は至る所で流れている。
親しみなき土地で、うまく魔導は使えない。
無理やり起こそうとすると、その反動が自分の体に返ってきてしまう。
その土地で生み出された作物を食したり、水を飲んだり。ただその土地で過ごすだけでも良い。
そうすることで、その地に身体が馴染み、より高位の魔導を使えるのだ。
魔竜の魔力は鱗に宿る。この鱗なき姿では、随分力が制限されてしまうらしい。
世界を巡る旅は、この霊脈の接続試験を目的とする旅だった。
この姿では、ほとんど意味をなさなかったが。
階段を上がってくる音に、思考が遮断される。
ドスドスと重量感のある足音、おそらく宿屋の主人だろう。
「坊ちゃん、お目覚めでしょうか。入りますよ」
扉を叩いてすぐ、鍵を開けて主人が部屋に入ってきた。
予想通りの来訪者に、ほっと胸を撫でおろした。
「よくお眠りになられましたか? 朝食ができておりますので、下に降りてきてくださいませ」
――邂逅の章 第2節――
階下に降りていくと、店内は昨日とうって変わって静まり返っていた。
まだ朝も早いためか、店を開けていないようだ。
朝だというのに薄暗い店の中、カウンター回りだけランプがつけられている。
店の隅では、ナンファが眠そうな顔つきで床を磨いていた。
そんな中、一人だけ先客がいることに気づいた。
ひどくしかめ面で羽ペンを持ち、カウンターとにらめっこしている男がいた。耳を澄ますと、小さな呻き声が漏れ出ている。
見るからに、店員ではなさそうな風貌だ。
薄汚れてはいるが上等そうな絹の外套に、気取ったつば広帽、それから弦のある楽器を携えている。
「そいつはお気になさらず。さあ、こちらへ」
その男から一席開けて、腰かけた。男はこちらを見向きもせず、未だ呻き続けている。
目の前に次々と料理が並べられていく。
「さあ、どうぞ。塩漬け豚肉に、ひよこ豆のスープ。干しブドウに林檎、黒パンでございますよ」
見たことがない料理に、思わず涎を飲み込んだ。
スープからほのかに湯気が立ち昇り、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
腹の虫が、大声で空腹を訴える。
昨日の出来事がよほどこたえているのか、脳裏にちらついて離れない。
だが気を落としてはいられない。腹ごしらえをして、すぐに街に繰り出さねば。
「ありがとう、いただくね。でも……ごめん。獣の肉は食べないんだ」
「おお、なんということ!」
途端、すぐ傍でいた男が勢いよく顔を上げ、ぐっと距離を詰めてきた。
少し体を引いても、それ以上に近づいてくる。鼻先がくっつくほどの距離で、青々しい野原のような淡い緑の眼が爛爛と輝いている。
「肉を食べないと!? それは致し方あるまいね。このバルダー・ノルダーがいただくとしよう」
持っていた羽ペンは、つば広帽に無造作に刺し、空いた手で皿から肉をひょいと摘まみ上げた。
矢継ぎ早に話すその男は、僕の了解もなしにそのまま口に放り込んでしまった。
先程のしかめ面はどこへやら、口いっぱいに頬張る彼は心底幸せそうだ。
亜麻色の緩い巻き毛を揺らし、味わうように一口一口を噛みしめている。
「てめぇ勝手に何喰ってやがる! 金払え!」
「何を言う、彼がいらないものを処理しただけにすぎない。むしろ処理代をもらわなくてはいけないところだ。ね、君もそう思わないかい?」
ごくりと肉を飲み下した後、よく回る口でぺらぺらと喋り出す。
「よくもまあいけしゃあしゃあと、今すぐ出て行ってくれたっていいんだぜ」
「おっと、それは困る。わかったわかった、そう怒らないでくれ」
憤懣やるかたないと肩を怒らせていた主人だったが、近くの樽で何やら汲み始める。
「申し訳ございませんね、坊ちゃん。こいつをどうぞ、我が店自慢の”竜の血”ですよ」
木のカップに並々注がれた赤い液体が目の前に差し出される。
発酵臭がつんと鼻腔を刺す。ヘルハイムにあった”酔いどれツヅラ”と同じ匂いだ。
竜の血なんて身の毛のよだつ単語に、身構えつつも、舌で舐めるように飲んでみた。
「ン”ッ」
酸味が口いっぱいに広がり、もう顔がしわしわになるくらい力が入ってしまう。
発酵が進んだ酸味に加え、渋みもある。酸味と渋みが過ぎた後は、不思議とどこか水っぽいようにも感じた。
渋い表情の僕に、バルダー・ノルダーと名乗る男はにっこり微笑んだ。
「正直な少年だね、お口に合わないかい! ”竜の血”と、大層な名がついてはいるが、つまるところただ水で薄めた赤ワインってわけさ。よければそいつもいただこうか?」
華奢に見えるが、良く通る声だ。まるで普段から声を出し慣れているような。
饒舌なバルダー・ノルダーの頭に、主人による手刀がしたたかに入った。
勢いあまって、カウンターに額までぶつけていた。
「クソッタレ羽つき野郎が。営業妨害だ、でてけ!」
「周知の事実だろうとも! それに店が開くまで、静かな場所を貸してくれると言ったのは君だろう! 場所代として金も払っているというのに、でていけとは! このバルダー・ノルダーの新曲を、ファンたちが今か今かと待っているんだよ!」
「てめぇはまだ無名だろうが。偉そうな口きくんじゃねえ」
「この稀代の吟遊詩人を前にして、その言い草はなんだね!」
ぎゃあぎゃあと彼等が言いあっている間に、ナンファに市場までの道を聞き、そっと酒場を出ていった。
まだ石畳が朝露に濡れていても、行き交う人々は多い。だがどことなく、商売人が多いように見える。
外套のフードを被り、俯くようにしながら歩き始めた。
これ以上目立つわけにはいかない。
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