邂逅の章 第1節
竜として認められるために、僕とシスカは行くしかなかった。
ミズガルド大陸。その北西に広がる海、怪魚の家臣達の縄張りへ。
その海を越えるためには、奴らの巡視船の眼を掻い潜り、七日七晩の飛行を余儀なくされる。
所謂”海越え”と呼ばれる、世界を巡る旅の中で最も過酷な行路。
この旅の定められた順路だった。
幾度も危険な場面がありながらも、命からがら海を渡ることができた。
ずっと飛び通しだった僕等の疲労は、もはや限界だった。
海沿いの崖の人気のない洞窟に降り立ち、そのまま泥のように眠った。
起きてからは貝や魚を採り、洞窟内に溜まった雨水で喉の渇きを潤した。
国外にある食べ物はどれも栄養価が低く、腐敗も速い。人の目を避けながらの食糧確保は、この旅の悩みの種だった。
旅に出る前と比べ、ふたりとも随分やせ細ってしまっていた。
ヘルハイムまでもうひとっ飛びだ。
この旅も、もうじき終わりを迎える。
前日から降りやまぬ雨を眺めながら、雨がやみ次第出立しようと話をしていた。
潮の匂いが満ちて、崖に打ち付ける波しぶきの音が響いている。
さすがのシスカも疲労が抜け切っていないのか、ここ数日の間ずっと口数が少なかった。
「ねえ、洞窟の奥でも探検してみようか?」
少しでも気分転換になればと、シスカを誘ってみた。
「ああ、いや……」
いつでも快活な物言いをする彼女には珍しく、言い淀んでいた。
陰ることを知らない燃え盛る赤い瞳も、惑いに揺れていた。
僕の眼から逃げるように、自らの鼻先を僕の首元にすりよせてきた。
彼女の頭に自分の頭をもたれかからせて、彼女の角に鼻先を優しく触れさせる。
「どうしたの、シスカ」
「……ずっと、言えなかったことがある」
その次に続いた言葉が、未だ僕の内側にこびりついている。
「あたし、あたしさ――」
彼女の言葉に、応えてあげられていたなら。
今もなお、僕等はふたりでいられたのだろうか。
――邂逅の章 第1節――
ドスン、という衝撃と共に、頭に鈍い痛みが走った。
瞼を開くと、奇妙な色の空がえらく低い位置に広がっている。
「おい、にいちゃん。大丈夫か?」
やつれた老人が御者台からこちらを覗き込んでいた。ぼんやりしていた頭が、徐々に意識がはっきりし始める。
眼前にあるのは、つぎはぎだらけの布で出来た天井だ。
ヘルハイムの国境を越えて放浪していた僕を、行商人の彼――テオが拾ってくれたのだった。
どうやらうたた寝をして、そのまま倒れ込んでしまっていたらしい。
それにしても不甲斐ない。出奔してからろくに眠れていないとはいえ、ここのところ気を抜くと眠ってしまう。
馬車に揺られながら、軋む床に座り直した。
「平気、ちょっと寝ちゃってたみたい」
ぶつけた頭もまだ痛むが、それ以上に折れた翼側の肩甲骨が酷く痛んだ。
人間と竜では身体構造が大きく異なるためか、骨折こそしていないが、負傷自体は残るようだった。
この痛みが続く限り、竜の姿に戻ったとしても、空を飛ぶのは難しいだろう。
荷台からずるずると体を引きずり、御者台へ近寄る。
車体の振動に注意を払いつつ、手綱を握るテオのすぐ隣に腰かけた。
「ずっと歩き詰めだったんだろ。もう少しで町に着くから、休んどきな」
「ありがとう。でも目が覚めちゃった。ここにいてもいいかな」
「そりゃ構わんけどもよ。居眠りこいて、落ちなさんなよ」
荒野の土を巻き上げながら、老いた栗毛の馬に引かれ、馬車は進んでいく。
風が乾いた土の匂いを運び、疎らに生えた木々が葉をそよがせている。
いくつかの村を通り過ぎる。
畑を耕していた人間達が手を挙げ、テオもそれに応える。
さらに進んでいくと、羊の群れを犬が追い立てていた。
遠く離れた丘の上、ぽつねんと立つ丸太の家がある。その家の前で男が指を口に咥え、ピィッと甲高い音を何度も鳴らす。
その音に合わせて、犬は動きを変えて羊たちをまとめあげていく。
空を見上げると、流れる雲と鳥が何匹か飛び交うだけだ。飛竜の一体さえ、見当たらない。
ヘルハイムから出て、およそ3日。
かつて竜の翼でもって駆けた世界は、人の足では途方もない広大さだ。
世界は存外狭いのだと思ったものだが、道が異なればこうも見え方が違うものなのか。
ただ道だけが続いているように見え、どこにもたどり着けない心地だった。
「ところであんた、変わった眼の色してるなあ。紫の眼なんてぇのは初めて見た」
「ここからずっと遠くの出身だからね」
「物珍しいのかね。うちの老いぼれ馬も、珍しく騒ぎたてるもんで」
こちらの相槌を聞いているのかもわからないまま、話が勝手に進んでいく。
彼は自分が話しかけた時に大方の目的を終えているらしく、こちらの返事に構わず、話を続けるきらいがあるようだった。
もっとも、今の僕にとっては都合がよかった。どこからやってきたのかと聞かれても、うまく返事をする自信がない。
これから多くの人と出会うのだ。言葉や振る舞いには、十分注意を払わなければ。
気を引き締め直す傍らで、テオの声は止まらない。
この辺りの暮らしや、故郷の村、若いころのこと等。しゃがれた声でひたすら喋り続けていた。
喉が渇いたのか、腰元に吊り下げた革製の水筒をあおる。
話が途切れた隙に、ずっと尋ねたかった質問を投げかけた。
「ねえ、探しているりゅ……ひとがいるんだ。物知りが集まるのはどこだろう?」
ごくりと飲み下し、手慰みに無精ひげの生えた顎を触りながら考えている。
「物知りか。そうさな、酒場にでもいってはどうかね。大体の情報はそこに集まる」
「さかば……酒場だね。ありがとう」
酒場といえば、とテオがまた語りだした。またしばらく続くであろう話に耳を傾けながら、過ぎ去る景色をただ眺めていた。
踏み固めただけの道が、徐々に砂利も少ない整備された道に変わり始める。それとともに旅人や商人、武装した者達が増え始めた。
小高い丘を迂回し、緩やかな曲線を描く道をゆく。ややもすると、丘の向こう側の景色が開かれる。
「見えてきたぞ。ステウレグだ」
石が積まれて出来た塀と、その更に周囲を水の堀に囲まれている。
ヘルハイムに隣接するラグナル神聖公国。その東部に位置する町ステウレグ。
シスカとの旅では、この国の南にある”ヨエルの塔”を目標に飛んでいたので、ただ飛び越えただけの町だ。
どんな在り様なのか、見当もつかない。
「町に入るときは、巡礼者とでもいえばいい。ヨエルの塔への道すがら立ち寄ったって言えば、中に入れてくれるだろうとも」
「わかった」
「ワシらはこのまま隣町へ向かう。兄ちゃんとはここでお別れだな」
「ありがとう、本当に助かったよ」
「お安い御用だとも。息子と共に商いをした時を思い出して、ワシもうれしかったよ。達者でな」
馬車を降り、テオと僕は互いの手を握りしめた。握手という、人が友好の意を示す所作なのだそうだ。
自分を忘れるな、とばかりにヒヒンと嘶く声が聞こえた。
「君にも、世話になったね。僕を見つけてくれてありがとう」
ずっと馬車を引いてくれていた、年老いた馬のたてがみを撫でる。
嬉しげに鼻を鳴らし、深々と頭を垂れた。
テオに手を振られ、見様見真似で手を振り返した。
「ひとつ言い忘れとった! この町で夜に出歩かん方が身のためだぞ」
ガラガラと音を立てて、馬車は行ってしまった。
町の門の前には、ずらりと行列が並んでいた。どうやら町に入るには手続きが必要であるらしい。
旅人だけの列と、荷物をのせた馬車だけの列との2列が並んでいた。馬車側の列では、荷物の確認に何人もの門番の手が取られている。
やっと僕の番が来る頃には、陽が暮れ始めていた。
鎧を纏った男は、横柄な態度で「身分証はあるか」と問いかけてきた。
テオに言われた通り自らを巡礼者だと説明すると、何事か手元の書類に書き込んだ後、すんなり許可してくれた。忌々しそうに顔を歪ませていたが。
「ちょっと待って。酒場に行きたいんだけど、どの辺りにあるか教えてもらえないかな」
苛立った顔つきで、門番はむんずと僕の胸倉を掴み上げた。
「穀潰しの巡礼者さんよ、見てわからねえか? 忙しいんだよ。歩いて探しゃ見つかるだろうさ!」
それだけ言い放つと、他の旅人の手続きに取り掛かってしまった。
後ろの行列に並ぶ者達からぎろりと睨みつけられ、仕方なくその場を後にした。
門をくぐり抜け、両隣に建物が並ぶ大通りを歩く。石造の頑丈そうな建物もあれば、丸太で作られた建物もある。
町の外とは比べ物にならないほどの人の数に、すっかり圧倒されていた。
老若男女の人々の声、混じりあう匂い。
肩が触れるほどの距離に、平然と人間がいることに未だ違和感が拭えない。
視界の低さにも慣れず、雑踏の中で何度も人とぶつかってしまった。
空の旅と、陸の旅。同じ旅路であるのに、全く異なる旅だった。
歩いていくうちに、いくつも意匠が掲げられた建物があることに気づいた。
ただの居住地らしき建物には見当たらないことを見ると、おそらく何らかの店を表しているのだろう。
文字が読めない僕にとって、手当たり次第に店の中を確認していくより他なかった。
いくつか建物を覗いていると、他よりも賑わっている場所に辿り着いた。
賑々しい雰囲気で、多くの人間達が飲み食いしながら語らっている。
おそらくここが酒場だろう。
外よりも一層匂いが充満している上に、騒がしい。用がなければ、一刻も早く出ていきたいところだ。
店内を見回すと、何人かの酔客たちと視線が交差する。深くかぶったフードの隙間から、こちらを見ている者もいた。
けれども皆、すぐに興味を失ったようにカップへ口をつける。
店内であくせく走り回っている女性が、扉の前で佇んでいる僕に声をかけてくれた。
「ようこそ”腕組み穴熊亭”へ。こちらのカウンターへどうぞ」
その女性の頭の上で、黄土色の毛並の両耳がぴこぴこと動いている。
獣の民だ。
遠目から見たことだけはあった。
毛むくじゃらの耳や尾が生えている点を除けば、見かけはただの人間と大差ない。
ただ通常の獣と同じく、五感に優れた者が多いくらいだ。
促されるがままに着席すると、カウンターの向こう側で小太りの男がこちらを一瞥した。
「こんにちは。ひとつ尋ねたいんだけど、このあたりで赤い鱗の竜をみたことはない?」
その問いかけに応えることなく、男はむくれっつらで「注文は」とだけ返す。
「おなかは減ってないから大丈夫だよ。ねえ、ちょっとした噂でもいいんだ。もし心当たりがあれば教えてほしい」
頭からつま先まで嘗め回すようにみた後、主人はひどく苛立った様子でカウンターにこぶしを叩きつけた。
「注文はっつってんだ、この野郎! 注文もしねえ輩に応える義務はねえぞ」
「そういうものか、ごめん。じゃあ何か果物を1つもらえる?」
「3オーレだ。うちは前払い制なもんでね」
ずい、と手を差し出される。握手かと思い、その手に自らの手を重ねてみた。
するとすぐさま手を払われ、「寝ぼけてんのかクソガキ!」と怒鳴られてしまった。
この町に来てから、どうにも怒られてばかりだ。
「カネだよ、カ・ネ! 文無しにゃ用はねえ、さっさと出ていきやがれ!」
今にもカウンターから乗り出してきそうな勢いだった。
顔を真っ赤にして怒りながら、親指と人差し指を輪にしたサインを僕につきつけてきた。
そのサインを見て、ふとオーウェンの言葉を思い出す。
様々な価値観や環境のもとで、人間どもは生きてる。
資源も有限、資産の分配も偏りがある。我がヘルハイムとはちがってな。
統一された単位での取引が、合理的だったってわけだ。
そこで使われてるのが、こいつってわけ。
オーウェンが爪を折りたたんで示したサインは、主人のサインと同一だった。
「ああ、貨幣のことだね! 生憎持っていないんだ……代わりにこれでどうかな」
腰袋の中を漁り、周囲の目に留まらないようにそっと手渡した。
「こ、こりゃ……なんだ」
「金塊だよ、見たことないかな? 君たちにとっては、それなりの価値になると思うんだけど」
辺りがほんの一瞬どよめいたが、すぐに嘲笑へと変わった。
主人も同じく束の間瞠目したものの、次の瞬間には冷ややかにせせら笑っていた。
「命知らずなこって。こんな偽物で俺をだまそうったってそうはいかねえ」
手中にある金塊を一瞥し、僕の目の前でこれ見よがしに手を離した。
そのままカウンターへ叩きつけられそうになるも、横から伸びてきた手が主人の手首を掴んだ。
「まあ待ちなよ。私が確かめてやろう」
僕と主人の間に、フードを目深に被った人物が割り込んできた。
身の丈ほどある巨大な斧を背負っている。異様な風体に圧倒されているのか、周りは一様にその人物の動向を観察していた。
どうやら自分は疑われているらしい。
「確かめるもなにも、本物だよ」
「あんたは黙ってな」
僕の手から金塊をするりと取り去ったフードの人物は、懐から取り出したものをカウンターに並べて何やら作業し始めた。
黒漆色の小さな石板に、僕の金塊を遠慮なしに擦りつける。石板に残った擦り痕の上に、小瓶に入った何かの液体を数滴垂らす。
その液体を少し広げた後、垂らした痕をまじまじと見つめている。
「ありゃなんだ?」
「試金石だ。あれで本物の金かどうかを確かめられる」
「あのデカい斧……たしか……」
周囲の野次馬達が、口々に何事か話し合っていた。
フードの人物がおもむろに顔を上げると、主人の手に金塊を返した。
「こいつは本物だ。見ろ、痕が消えてない。質も相当良い。しばらく遊んで暮らせるぞ」
周囲から驚きの声が上がる。「最初からそう言ってるんだけど……」という僕の呟きは、誰の耳にも届かなかった。
宿屋の主人は即座に懐へしまい込んだ。本物を拝ませろと寄ってきた傍観者たちに、歯をむき出しにして威嚇している。
一方僕に対しては、張り付けたような笑みを浮かべながら、ぺこぺこと背を折っている。
「おお、坊ちゃん! 飛んだご無礼を申し訳ございません! 何せこんな代物、お目にかかるのは初めてなもんでして! こんな貧相なところで恐縮ではございますが、誠心誠意おもてなしさせていただきます」
「あ、ありがとう」
主人の態度の変わり様に、心が追いつかない。
呆れている僕の耳元で、フードの人物が囁いた。
「あまりひけらかさない方が身のためよ、紫眼の坊や。身に余る富はいらぬ厄介事を呼び寄せる……もう遅いかもしれないけど」
口調からして、どうやら女性らしかった。僕よりひと回り大きい背丈の彼女の腰元には、短剣や革袋、小さな荷袋も携えている。
纏う外套の汚れを見るに、彼女もまた旅人なのだろうか。
「忠告ありがとう。僕も、こんな目立つつもりじゃなかったんだけど」
「護衛が必要? 多少の火の粉は払ってあげられるわよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
金塊が本物であると証明してくれたとはいえど、素性も分からない彼女に護衛を頼めるほど、信頼できるとも思えなかった。
「あらそう。後で泣きついてきても知らないからね」
そう言い残して、さっさと酒場から出て行ってしまった。
彼女が去った瞬間、室内の者達が一斉に僕の方へ近づいてきた。
「あんた、名の知れたお貴族様のご子息とかかい?」
「どうしてここにきたんだい」
「さっきのやつとは、知り合いか?」
間近で口々に話しかけられ、彼等自身の匂いに鼻が曲がりそうだった。
きっとろくに水浴びもしていないに違いない。とまで思考してから、はたと思い当たる。
そういえば、ここのところ水浴びした覚えがない。
もしかして、僕もこんな匂いを放ってるのか?
愕然としていると、腰元を何かに触られている感覚がした。
思わずバッと手で押さえると、何者かの手をバチンと叩くことになった。
驚いて背後を振り向くと、僕の腰袋をまさぐろうとしていた手の主と目があった。
男はごまかすようにへらへらと笑って、人波に紛れて消えてしまった。
この喧騒に紛れて、盗みを働かれるところだった。
先ほどの申し出を受けなかったことを、さっそく後悔することになるなんて。
単なる酔っ払いの悪ふざけから、悪意と欺瞞に満ちた空間に様変わりした。
周囲の人間達も、この騒がしさに乗じた盗人ではないだろうか?
一度そう感じてしまうと、まるで甘い蜜に群がる蟲に見えた。
酒臭い息を吐き出し、ざわざわと距離を詰めてくる。舐めるような視線が、肌を這う。
あまりのおぞましさに、吐き気を催しそうだった。
疲労も溜まっている上に、充満する匂いと重なる無数の声に、いい加減我慢も限界だった。
「もうたくさんだ、僕から離れてくれ!」
精一杯の叫びも届くことなく、酔っ払いたちは笑いながら、なお近づいてこようとする。
本能的な恐怖を覚えた僕は、背後に手を回して掌に風を呼び起こそうとした。
「この酔っ払いども、大人しくしねえか!坊ちゃんが怖がってるだろうが。 おい、ナンファ! こいつらに一杯くれてやれ。出血大サービスだ」
ナンファと呼ばれた獣人の女の子が、しっぽを揺らしながら新しいカップを山ほど両手に抱えてくる。
「ほら、並んだ並んだ」
カウンター付近の大樽にナンファが立つと、酔っ払いたちは「ケチのルーカスが、気前いいじゃねえか!」と、今度は大樽に群がっていった。
男たちが酒に気を取られている間に、主人がそっと僕に耳打ちしてきた。
「坊ちゃん、もうじき日も暮れますから、今日のところはお休みなさってはいかがですか? うちは宿屋も営んでますのでね」
***
階段を上がってつきあたりの部屋の扉を開ける。
むわっとカビくさい匂いが鼻腔に飛び込んできた。
「ここがベッド、ここが衣装棚でございます。そちらの小部屋が厠でございます」
湿気ている部屋に、カビくさい寝台。煉瓦で組み立てられた半円型の下には、燃え尽きた炭が残っている。その炭がうっすら白くなるほど、埃が溜まっていた。
「では私は下に戻ります。後でお食事もお持ちしますよ」
「食事はいいや……それより、もう一度聞かせて。このあたりで、赤い鱗の竜をみたことはない?」
「ああ、先ほどお尋ねされてた件ですね。残念ながら、ここいらで見たことがございません」
手掛かりなしか、と肩を落とした。
海越え後、羽休めをした洞窟をまずは目指すべきだろうか。
ここに来るまでの間も、その考えは幾度も浮かんだ。
だがどうにも足を向ける気になれなかった。
あそこには、もうシスカはいない。理由はわからないが、そう感じる何かがあった。
僕が黙りこくってしまったので、主人は言葉をかけあぐねているようだった。
だがすぐに、「ああ!」と何か閃いたような声をあげる。
「明日、昼市にでも行ってみてはいかがです?」
「昼市?」
「ええ。他の町からの行商人も多く来ますから、いくらか払ってやれば話も聞けるでしょう。昼市という名ではありますが、朝から開いていますよ」
「ありがとう。明日行ってみる。もう今日は眠るとするよ」
「わかりました。鍵をかけときますので、誰が来ても、鍵を開けないように。用心のためですからね」
ぺこぺこと頭を何度も下げながら、扉を閉める。
ガチャリと金属音が聞こえた後、階下へ降りて行く足音が聞こえた。
荷物を下ろし、サンダルと外套も脱ぎ去って、寝台へ横になった。
ぶるりと寒気が走ったので、ボロ切れ同然の薄い布団をかぶって眼を瞑る。
竜の体内には、火袋と呼ばれる器官が備わっている。
可燃性ガスを生成できる器官で、体温が下がった時はガスを燃焼させて体温保持に用いるのだ。
火袋もない人間は、こんな布切れ一枚で寒さをしのぐしかない。――人間の体は、なんて不便なんだ。
静寂に包まれた空間で、天井をぼんやりと見つめる。
階下の喧騒が漏れ聞こえてくる。楽しそうな笑い声が、やけに耳についた。
その喧騒とは別に、床の軋む音が聞こえる。
ギシリ、ギシリ。
足音を潜め、何者かがこちらに近寄ってくる。
何者かは部屋の前で立ち止まり、扉にかかった鍵をガチャガチャと弄っているようだ。
簡単には開かないことを知ると、小さく舌打ちして、また静かに階下に戻って行った。
体の震えは、もはや寒さだけではなかった。
無意識のうちに、左手首にはめられた腕輪を固く握りしめていた。
割れた石を、指先で縁取る。脱出の最中でいつの間にか割れていた。
僕の身を守ってくれたエブラスカの闇は、今は現れる気配はない。
ヘルハイムを出て、まだ数日足らず。
全く違う国にやってきたのだと思い知らされる。
あの静謐な夜を恋しく思う日が来るなんて、夢にも思わなかった。
その日はひどく疲れ切っていたけれど、なかなか眠りにつけなかった。
あの酔っ払いどもの粘つく眼差しが、瞼の裏に焼き付いて離れなかったのだ。
ようやく眠りにつけた時には夜も更け、階下の喧騒もおさまってしまっていた。
暗闇の中に、浮かぶ2つの眼光。
気を失ったように眠る僕の姿を、窓の向こう遥か遠くからまっすぐに捉えていた。
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