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第8話 処置開始――灰になる前に裂け

冷たい石の台座に背中を押しつけられた瞬間、

 俺の呼吸は一拍遅れて、ようやく“恐怖”に追いついた。


 天井の輪が、きぃ、と鳴る。

 棘が内側へ向いた銀の輪。

 あれは飾りじゃない。


 喉を締めるための形だ。


 兵の手が俺の手首を固定し、

 膝の上に革のベルトが落ちてくる。


 リナが押さえつけられたまま叫んだ。


「やめろ! 彼はまだ――!」


 小司祭は、淡々と手袋をはめた。

 白い布。清潔。

 だからこそ、手術の前みたいに見える。


「まだ、ですか。

 リナ、君は優しい」


 優しい、という言葉が

 ここでは罰みたいに響く。


 小司祭は銀の鉢を持ち上げ、

 聖水を台座の縁へ落とした。


 ぽたり。


 落ちた液体は円を描き、

 床の文字を浮かび上がらせる。


 “忘却”

 “選別”

 “導き”


 俺の首の銀鎖が熱い。

 声を出そうとすると、喉が焼ける。


(堀口健太)


 頭の中で何度も繰り返す。

 名前だけが、最後の杭だ。


 小司祭が俺の胸元――聖痕の上へ指を置いた。

 触れた瞬間、肌がひくりと跳ねる。


 痛いのではない。

 “中身を探られる”感覚だ。


「いい反応です」

 小司祭はうっとりしたように言った。

「あなたの中には二つの流れがある」


 二つ。

 光と闇の聖痕。

 憑依者の異常。


 そして――

 俺の中の声。


 小司祭が囁く。


「異物の名を吐きなさい。

 吐けば、楽になります」


 吐く。

 吐かされる。


 その瞬間、天井の輪がゆっくり降りてきた。

 棘の先が、俺の首元のすぐ上で止まる。


 銀鎖と、棘の輪。

 二重の首輪。


 リナが兵に押さえられながら、

 歯を食いしばる音が聞こえた。


「……あなたたち、正気じゃない」


 小司祭は薄く笑った。


「正気です。

 だからこそ、秩序は保たれる」


 秩序。

 その秩序の中で、

 俺の人生は“処置”される。


 小司祭が合図を送る。

 兵が棘の輪の機構へ手を伸ばす。


 カチリ。


 輪が、ほんの僅かに内側へ締まった。


 苦しくない。

 でも、喉の奥の“言葉の形”が潰される。

 話すための筋肉じゃない。

 思い出すための回路が締まっていく。


 視界の端が、白く滲んだ。


 ――アスファルト。

 ――雨。

 ――刃。


 地球の記憶が浮かぶ。

 刺された瞬間の熱。

 そして、あの空の裂け目。


(だめだ)


 胸の奥の声が、低く唸った。

 今までで一番、はっきりした怒り。


 ――まだだ。

 ――ここで名を吐いたら、終わる。


 小司祭が満足げに頷く。


「良い。抵抗は“反応”だ」


 抵抗が、評価になる。

 狂っている。


 その時――

 処置室の外、遠くの廊下で鐘が鳴った。


 カン、カン、カン。


 昨夜までの二打じゃない。

 三打。

 短く、切るような鳴り方。


 合図が変わった。


 小司祭の眉が僅かに動く。

 彼の後ろにいた司祭が、耳を澄ませた。


 そして――

 塔のどこかで、悲鳴が上がった。


「侵入者だ!」


 次に、鉄がぶつかる音。

 剣戟。

 ガラスが割れる音。


 背教。

 同時襲撃。


 リナが顔を上げた。

 その目に、迷いが消える。


「……来た」


 小司祭は舌打ちしない。

 慌てもしない。

 ただ、楽しそうに息を吐いた。


「背教は仕事が早い」


 仕事。

 襲撃を“仕事”と言った。

 その瞬間、俺は確信した。


 教会は、背教の侵入を想定していた。

 いや――

 起こる前提で進めている。


 小司祭が兵に命じる。


「処置を続行。

 混乱の中で“消える”のが一番いい」


 混乱に紛れて。

 事故にして。

 名簿に書き、終わらせる。


 リナが低く言った。


「……そういうことか」


 兵が棘の輪をもう一段締めようとした瞬間、

 リナが――剣を抜いた。


 ギィン、と鋼が鳴った。


 彼女は押さえつける兵の腕を斬ったわけじゃない。

 刃を“鎖”へ当てた。

 拘束具の留め金だけを正確に切った。


 兵の手が緩む。

 一瞬の隙。


 リナは跳ね起き、

 俺の喉元の棘の輪へ斬りかかった。


 刃が輪の棘に弾かれ、火花が散る。


「くっ……!」


 小司祭が静かに言った。


「リナ。君は証人ではなく、共犯になった」


 リナは答えない。

 答える代わりに、俺の首元の銀鎖を掴んだ。


「堀口健太。聞いて」


 近い。

 彼女の息が、頬に触れる。


「今から私が言う言葉だけ信じて」


 彼女は、俺の目を見た。

 視線が揺れない。


「――走れる?」


 俺は頷く。

 喉は焼けているのに、頷けた。

 それだけで涙が出そうだった。


 その瞬間、処置室の扉が爆ぜた。


 ドン!


 黒いローブが雪崩れ込む。

 舟の紋章。

 背教。


 先頭の男が叫ぶ。


「勇者候補を消せ!

 塔ごと燃やせ!」


 背教の狙いは“勇者候補”。

 教会の兵と背教の刺客が交錯する。


 刃が飛ぶ。

 血が床に落ちる。

 白い床に、赤い点が増えていく。


 小司祭はその混乱の中心で、

 祈るように両手を広げた。


「神よ。導きを」


 その祈りに反応するように、

 壁の祈祷文の隙間の“眼”が一斉に動いた。


 眼が開く。

 眼が回る。


 ――輪みたいに。


 空気が薄くなる。

 俺の視界がぐらりと傾く。


 床の円が光り、

 処置室の中心に“線”が走った。


 ピシッ。


 裂け目。


 小司祭が笑う。


「ほら。混乱は便利だ」


 背教の刺客の短剣が、俺へ飛ぶ。

 狙いは首。

 棘の輪の隙間へ刺し込む角度。


 リナが弾く。

 火花。


 でも背教は多い。

 教会も多い。

 この部屋は戦場だ。


 そして俺は、台座の上。

 逃げられない。


(裂けろ)


 胸の奥の声が言った。

 その声は、もう“異物”じゃない。

 俺の骨の中の命令だった。


 俺の目の前の空間が、紙みたいに薄く見える。

 裂け目の“線”が、そこにも引ける気がした。


 怖い。

 でも――ここで灰になるよりは。


 俺は息を吸い、

 頭の中で名前を叫んだ。


(堀口健太!)


 その瞬間、銀鎖が一度だけ緩んだ。

 ほんの一瞬。

 許可ではなく、

 “揺らぎ”だ。


 俺は手を伸ばし、

 見えない線を引くように空を掻いた。


 ピシッ。


 空気が裂けた。

 短剣の先が、線に触れた瞬間、

 刃が“どこか”へ落ちる。


 床に音もなく突き刺さり、

 背教の男が目を見開いた。


「……やっぱり創り主か!」


 創り主。

 その言葉で、頭の奥が割れる。


 ――暗い空。

 ――悪魔の群れ。

 ――そして、俺の手のひら。


 血まみれの手で、

 “裂け目”を作っていた記憶。


 俺は吐きそうになりながら、

 リナへ叫ぼうとした。


 でも声が出ない。


 代わりに、リナが俺の腕を掴んだ。


「今!」


 彼女は俺を引きずり起こし、

 台座から引き剥がす。


 棘の輪が、ぎち、と鳴った。

 俺の首が抜ける寸前、

 銀鎖が引っかかった。


 小司祭が笑う。


「逃げられると思うな」


 銀鎖が、床の円と繋がっている。

 細い光の線が走り、

 俺の首を“塔”へ縫い付けているみたいに。


 リナが歯を食いしばる。


「……鎖が、繋がってる!」


 背教の刺客が叫ぶ。


「それごと切れ!

 憑依者ごと消せ!」


 刃が飛ぶ。

 教会の兵が盾になる。

 血が跳ねる。


 俺は、リナの手の中で震えながら、

 もう一度だけ確信した。


 ここで負けたら、

 堀口健太は“候補”として灰になる。


 そして、俺は二度と

 自分の名前に戻れない。


 胸の奥の声が、静かに言った。


 ――選べ。

 ――裂け目を使え。

 ――代償は、あとで払え。


 代償。


 その言葉の重さに、

 俺は一瞬だけ躊躇した。


 だが、次の瞬間――

 小司祭の名簿が開かれ、

 そこに俺の名が指でなぞられた。


 “堀口健太”

 “処置:完了”


 完了。


 それを見た瞬間、

 躊躇は消えた。


 俺は空間へ手を伸ばす。

 裂け目の線を、今度は“扉”にする。


 ピシッ――バリッ。


 目の前が、薄く割れた。

 向こうから風が吹く。


 アスファルトの匂い。

 駅の匂い。

 地球の匂い。


 リナが目を見開く。


「……これ、は」


 俺は声にならない声で、彼女に伝えた。


(飛べ)


 リナは迷わなかった。

 俺の腕を掴み、裂け目へ跳ぶ。


 その直前、

 小司祭の声が背中を刺した。


「戻ってきなさい。堀口健太殿。

 あなたは――教会の“秩序”だ」


 裂け目が俺たちを飲み込み、

 処置室の光が遠ざかる。


 最後に見えたのは、

 床の円の中で笑う“眼”と、

 天井の棘の輪の向こうに重なる、

 巨大な黒い輪だった。


 ウルボロス。


 名はまだ言えない。

 でも、見えた。


 そしてそれだけで、

 十分に――背筋が凍った。

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