第7話 処置室の扉は、開ける前から臭う
塔の奥へ進むほど、空気が重くなる。
祈祷文が増える。
彫り込みが深くなる。
文字の密度が、壁の肌を覆い隠すほどだ。
そして――匂いが変わった。
香の匂いじゃない。
薬草でもない。
鉄の匂い。
洗っても消えない、古い血の匂い。
俺の喉が鳴った。
首の銀鎖が、かすかに温かい。
昨日の“馴染むぬるさ”とは違う。
……喜んでいるみたいな温かさ。
護衛の兵が左右に並び、
俺とリナを挟むように歩く。
逃げ道はない。
逃げたら“危険”判定は確定する。
小司祭は前を歩きながら、
まるで散歩みたいな口調で言った。
「安心してください。処置は恐ろしくありません」
恐ろしくないなら、
そう言い聞かせる必要がない。
リナが低い声で言う。
「……あなたの言う処置は、何をするんです」
小司祭は振り返らずに答えた。
「候補を候補でなくします」
昨日と同じ言い回し。
今度は、少しだけ具体が混ざる。
「勇者候補は“火種”です。
背教は火種を踏み潰す。
教会は火種を“火”にするか“灰”にする」
灰。
それは、もう燃えない。
リナが足を止めた。
護衛の兵が警戒して剣に触れる。
「……灰にする、って」
小司祭はようやく振り向いた。
笑顔のまま、声だけを少し冷やす。
「リナ。君は護衛だ。
これ以上の質問は“異議”と記録される」
異議。
記録。
それは、処置の対象が一人増える合図にも聞こえた。
リナは唇を噛み、
それ以上何も言わなかった。
ただ、俺の手首を握る指だけが、
ほんの少し強くなった。
*
突き当たりの扉は、黒かった。
塔の中で初めて見る色。
白い石の廊下に、黒い扉。
それだけで、ここが“別の場所”だと分かる。
扉の前に、札があった。
文字は読めない。
でも意味だけが、胸に落ちる。
――処置室。
小司祭が指を鳴らすと、
扉の両側に立つ司祭が、同時に祈りを唱え始めた。
低い声。
同じ抑揚。
同じ間。
祈りじゃない。
鍵だ。
扉が、ゆっくり開いた。
臭いが溢れた。
鉄と、薬と、
そして――濡れた布の匂い。
中は広い。
白い床。白い壁。
中央に円形の台。
天井から吊られる銀の輪。
……また輪。
だが今までと違う。
この輪は、内側に棘がある。
棘は細く、規則正しく並び、
まるで――喉を締めるための装置みたいだった。
俺の首の銀鎖が、熱くなる。
――逃げろ。
胸の奥の声が、はっきり言葉になった。
銀鎖があるのに、聞こえた。
つまり――銀鎖の“許可”が出ている。
許可?
何のために?
小司祭は俺を見て、優しく言う。
「堀口健太殿。
この部屋では、あなたの“異物”を取り除きます」
異物。
それは俺の中の声のことか。
それとも――俺の名前か。
リナが口を開く。
「……彼は、まだ何もしていない」
小司祭は淡々と返す。
「昨夜、裂け目が出た。
それだけで十分だ」
裂け目。
俺の脳裏に、駅の匂いがよぎる。
アスファルト。
曇天の裂け。
そして刺された腹の、熱。
俺の指先が震えた。
怖いのに、どこか懐かしい。
この“儀式”を知っている気がする。
小司祭が合図を送る。
護衛の兵が俺の腕を掴んだ。
「やめろ!」
リナが叫び、剣を抜いた。
鋼が鳴る。
部屋の空気が一瞬で張り詰める。
小司祭は溜息をついた。
「リナ。君がここで剣を抜くなら、
君は背教と同じになる」
背教。
その名が出た瞬間、
部屋の隅の影が僅かに揺れた。
影に、誰かがいる。
司祭でも兵でもない。
黒いローブ。
舟の紋章。
いつの間に。
背教が、ここまで入り込んでいる。
背教の男が、笑う。
笑い声は出さない。
でも口元が笑っている。
――今夜、消す。
その合図だ。
俺の頭が真っ白になる。
教会は俺を“灰”にする。
背教は勇者候補を“消す”。
どちらも、結果は同じだ。
俺は消える。
その瞬間、
胸の奥の声が、初めて名を名乗った。
――アーク・ファン・エイルだ。
銀鎖が、燃えるように熱くなった。
喉が焼け、涙が滲む。
なのに――声は止まらない。
――今は思い出すな。
だが、殺されるくらいなら……。
俺の視界が揺れ、
部屋の輪が“別の輪”に見えた。
天井の棘の輪の向こうに、
巨大な黒い輪が重なって見える。
ウルボロス。
名を言えないはずなのに、
輪を見ただけで全身が理解した。
背教の男が、短剣を抜いた。
狙いは俺じゃない。
リナだ。
勇者候補狩り。
背教にとって勇者候補は“俺”じゃない。
剣を抜いた少女騎士――
今この瞬間、勇者の火種になったリナ。
短剣が闇から飛ぶ。
「リナ!」
俺は叫んだ。
叫べた。銀鎖が許した。
なぜだ。
リナは反応する。
だが間に合わない。
――裂けろ。
胸の奥が命令する。
俺の前の空間が、薄い紙みたいに見えた。
ピシッ。
小さな音。
空気に細い線が走る。
短剣の先が、線に触れた瞬間、
刃が“曲がる”のではなく、
“別の場所へ落ちた”。
床に、音もなく突き刺さる。
背教の男の動きが止まった。
初めて、その目に恐怖が宿る。
「……お前、やっぱり……」
言いかけた言葉が、途切れる。
小司祭が、静かに笑った。
「素晴らしい」
その笑みは、
今までの優しい笑みじゃない。
研究者が成果を見た笑み。
「これで確定しました。
堀口健太殿。あなたは――」
彼は言葉を区切り、
背教の男へ目を向ける。
「背教が欲しがるものだ」
背教の男が舌打ちする。
そして、扉の影へ溶けるように下がった。
逃げる?
違う。
これは合図だ。
外に仲間がいる。
この塔のどこかで、同時に動く。
小司祭が兵に命じた。
「リナを拘束しなさい。
彼女は今、危険な火種だ」
リナの目が見開かれる。
「……っ、何を!」
兵が彼女の腕を掴む。
リナは剣を振り払おうとするが、
人数差で押さえ込まれる。
俺は叫んだ。
「やめろ! 背教がいるのに!」
小司祭は冷たく言った。
「だからです。
背教がいるからこそ、
勇者候補は“灰”にしておくべきだ」
狂っている。
でも彼の論理は、“教会の秩序”として完成している。
だから止まらない。
俺の首の銀鎖が、再び熱くなる。
今度は許可じゃない。
封じる熱だ。
言葉が焼ける。
声が出なくなる。
リナが兵に押さえられながら、
俺を見て叫ぶ。
「堀口健太!
その名前を離さないで!」
その言葉が、胸の奥を強く叩いた。
俺は歯を食いしばる。
声が出ないなら、
せめて頭の中で繰り返せ。
堀口健太。
堀口健太。
堀口健太。
小司祭が、円形の台座を指差した。
「座らせなさい」
兵が俺を台座へ引きずる。
足が床を擦る。
輪が頭上で鳴る。
その時――
部屋の壁の祈祷文の隙間から、
黒い点が一斉にこちらを向いた。
眼だ。
眼が、笑っている。
そして、
扉の外の廊下で鐘が鳴った。
カン、カン。
合図。
背教の動き出す合図。
教会の処置を進める合図。
世界が俺を挟んで、
同時に歯車を回し始めた。
俺は台座に押し倒されながら、
最後に一つだけ確信した。
この処置室は、
候補を救う場所じゃない。
候補を“消す”場所だ。




