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第6話 観察――祈りの部屋に眼はある

朝は来た。

 けれど、朝の匂いがしない。


 窓は高い位置に一つだけ。

 光は入るのに、空が見えない。

 まるで、世界そのものが切り取られている。


 首の銀鎖は、眠っている間も外れなかった。

 肌に当たる部分が少し柔らかくなっていて、

 それが逆に気味が悪い。


 “馴染む”というのは、

 生き物が噛みつく前の準備に似ている。


 扉の外で、鍵が回った。


 ギィ――。


 小司祭が入ってくる。

 昨夜と同じ笑顔。

 同じ声色。

 同じ“正しさ”。


「おはようございます、堀口健太殿。

 よく眠れましたか」


 答えたくない。

 でも沈黙は“異常”と記録される。


「……少しだけ」


 小司祭は満足そうに頷いた。


「本日は観察の日です。

 あなたが危険かどうか、確認しましょう」


 危険かどうか。

 確認。

 それが“処置”の前段階だと、俺でも分かる。


 小司祭の後ろから、リナが現れた。

 鎧姿。髪はまとめられ、顔は引き締まっている。

 でも目の奥に、微かな疲れが見えた。


 昨夜から、眠れていないのかもしれない。


 小司祭が淡々と告げる。


「リナ。同行しなさい。

 あなたは護衛であり、証人です」


 証人。

 それは“俺が何をしたか”の証人ではなく、

 “教会が何をしたか”の証人だ。


 俺は歩かされ、廊下へ出た。


 塔の廊下は静かだ。

 静かすぎる。

 人の気配があるのに、足音がない。

 扉の向こうに誰かがいるはずなのに、呼吸が聞こえない。


 壁には祈祷文。

 床にも祈祷文。

 天井にすら、彫り込まれた小さな文字。


 祈りで埋め尽くされた塔。

 でもこれは、祈りじゃない。


 檻だ。


 廊下の曲がり角を曲がった瞬間、

 俺は“見られている”と確信した。


 視線。

 どこから?


 壁の祈祷文の隙間。

 彫り文字の影に、

 小さな黒い点が混じっている。


 虫じゃない。

 目だ。


 ……眼球?


 息が止まった。

 リナが俺の肩の動きに気づき、視線を追う。


 彼女の顔色が変わる。


「……まさか」


 小司祭は聞こえないふりをした。

 そして、穏やかに言う。


「安心してください。

 この塔は神の加護に満ちています」


 加護。

 監視。

 記録。


 俺は唾を飲み込んだ。


 歩いた先に、広い部屋があった。

 白い床。白い壁。

 中心に円形の台座。

 そして天井から下がる、銀色の輪。


 輪。


 また輪だ。

 この世界は輪が好きすぎる。

 その形を見るたび、胸の奥がざわつく。


 小司祭が言った。


「ここで簡単な適性確認を行います。

 “候補”の判定と、危険度の測定です」


 台座の縁には文字が刻まれている。

 読めない。

 なのに、意味だけが頭に入ってくる。


 “忘却”

 “選別”

 “導き”


 小司祭は銀の鉢を掲げ、

 指先で聖水を散らした。


 床に撒かれた聖水が、

 円を描いて光る。


 ――輪が増える。


 リナが小さく息を吐く。

 彼女は耐えている。

 俺のためか、教会のためか、分からない。


「台座の中心へ。

 名前を名乗ってください」


 小司祭の声は柔らかい。

 でも断れない圧がある。


 俺は台座へ立った。


 足の裏が、冷たい。

 冷たいのに、床が生きているみたいに脈打つ。


 小司祭が促す。


「名前を」


 俺は言った。


「……堀口健太」


 言えた。

 銀鎖があるのに、言えた。

 なぜ?


 その瞬間、天井の輪が鳴った。


 キィン――。


 金属の音じゃない。

 もっと乾いた、骨を擦る音。


 床の円が光り、

 俺の影だけが“遅れて動いた”。


 リナが息を呑む。


「影が……」


 小司祭は微笑んだ。

 まるで期待通りの反応を見たように。


「やはり。あなたは“憑依者”」


 憑依者。

 この世界で特別扱いされる言葉。


 俺は反射的に聞いた。


「憑依者って、何なんだ」


 小司祭は答えない。

 答えの代わりに、指を立てた。


「今から“思い出す”テストをします」


 思い出す。

 その単語だけで、首の銀鎖が熱を持つ。


 やめろ。


 胸の奥で声がする。

 でもその声は、銀鎖に削られて細くなる。


 小司祭が祈るように言った。


「あなたの中の“異物”を、呼び起こしましょう」


 異物。

 俺の中の何かを、異物扱い。


 床の円が強く光った。

 目が焼けるほどではない。

 でも、頭の奥が開けられる感覚がする。


 視界が揺れた。


 ――暗い空。

 ――血の匂い。

 ――無数の悪魔。


 記憶の断片が、無理矢理浮かび上がる。


 そして、巨大な輪。

 世界の上で回る、黒い輪。


 ウルボロス。


 その名が喉まで来た。

 でも銀鎖が、喉元で燃えた。


 言葉が焦げる。


「……っ」


 俺は膝をついた。

 床が冷たい。

 なのに頭の中は熱い。


 小司祭が静かに言った。


「あなたの中には、名前があります。

 こちらの世界の名ではない」


 俺は喘ぐように聞き返す。


「……何の、名だ」


 小司祭は笑った。


「それを吐けば、あなたは救われます」


 吐けば。

 吐かされる。


 リナが一歩前へ出た。


「……やりすぎです」


 小司祭の眉が僅かに上がる。


「リナ。これは教会の儀礼だ」


「彼は子どもです」


「候補は子どもから始まる。

 背教が狩るのも、子どもだ」


 小司祭は淡々と言い切った。

 そして、俺を見下ろす。


「堀口健太殿。

 あなたの“もう一つの名”を言いなさい」


 言えるわけがない。

 いや――言えない。

 銀鎖が拒む。


 なのに、口が勝手に動きかける。


 ア――


 その瞬間、床の円が一瞬だけ歪んだ。

 いや、歪んだのは床じゃない。


 空間だ。


 薄い線が走った。

 紙の裂け目みたいな線。


 裂け目。


 リナが叫ぶ。


「司祭! 止めて!」


 小司祭の目が、初めて興奮で光った。


「……出るぞ」


 出る。

 何が?


 裂け目が、ほんの少し開いた。

 そこから冷たい風が吹く。

 異世界の風じゃない。

 もっと乾いて、もっと人工的な匂い。


 アスファルトの匂い。

 駅の匂い。


 地球の匂い。


 俺の喉が震えた。

 小司祭が囁く。


「ほら、帰り道が見えるでしょう」


 帰り道。

 俺はそこへ吸い込まれそうになり、

 本能で台座の縁を掴んだ。


 その瞬間、

 胸の奥の声が、初めて“言葉”になった。


 ――やめろ。

 ――まだ、思い出すな。

 ――その名を出したら、終わる。


 声は低い。

 怖いほど落ち着いている。

 そして何より、

 俺自身より“俺”っぽい。


 リナが、俺の手首を掴んだ。


「……堀口健太。聞こえる?」


 呼び捨てじゃない。

 名を、まっすぐ呼んだ。


 その瞬間、銀鎖の熱が少し引いた。

 裂け目が、わずかに閉じる。


 小司祭の笑みが消えた。


「……リナ。余計なことを」


 リナは俺を引き上げ、

 剣の柄に手を置いたまま小司祭を睨む。


「あなたがやっているのは“観察”じゃない」

「……処置の準備だ」


 処置。


 その言葉が出た瞬間、

 周囲の壁の祈祷文の隙間から、

 黒い点が一斉にこちらを向いた。


 眼がある。

 この部屋は生きている。


 俺の背筋が凍る。


 小司祭は低い声で告げた。


「観察は終わりです。

 彼は“反応した”。」


 リナが叫ぶ。


「だからといって、処置室へ送るのか!」


 処置室。

 初めて出た具体的な場所。

 その響きだけで、頭が白くなる。


 小司祭は淡々と言った。


「背教は勇者候補を狩る。

 教会は候補を管理する。

 そして憑依者は――管理できない」


 だから、壊す。

 そう言っているのと同じだ。


 小司祭が合図を送ると、

 廊下の向こうから重い足音が近づいた。

 鎧の兵が数人。


「堀口健太殿。

 次は“導き”です」


 導き。

 救い。

 優しい言葉で包んだ刃。


 俺は息を吸った。

 怖い。

 でも、怖がっているだけじゃ終わる。


 リナの手が、俺の手首を強く掴む。

 逃げるのか、守るのか、迷いはまだある。


 けれど、彼女は小さく言った。


「……今は、黙ってついてきて」


 その声が、初めて“味方”に聞こえた。


 俺たちは兵に囲まれ、

 塔の奥へ歩き出す。


 廊下の祈祷文の影にある眼が、

 ずっと俺を追っていた。


 そして、

 その眼の奥で、輪が笑っている気がした。

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