第5話 封印具は優しく締まる
銀鎖は冷たかった。
触れた瞬間、肌が粟立つほどの冷え――ではない。
むしろ、ぬるい。
気味が悪いほど“体温に馴染む”ぬるさ。
「痛みはありません」
小司祭は微笑んだまま、俺の首に銀鎖を回した。
「あなたを守るためです」
カチリ、と小さな音。
それで終わり。
……終わりのはずなのに、
胸の奥で“何か”が一瞬だけ暴れ、すぐに沈黙した。
(黙れ)
誰かの声が、飲み込まれる。
俺は思わず喉に手を当てた。
息はできる。苦しくない。
なのに――言葉の一部が、舌の上で溶けて消える感覚がある。
まるで、
喋ろうとする“単語”だけを選んで噛み砕くみたいに。
リナが俺の首元を見て、眉をひそめた。
「……それは封印じゃなくて、拘束です」
小司祭は肩をすくめる。
「呼び方の違いですよ、リナ。
危険なものは、まず箱に入れる。
箱が檻に見えるのは、外から見ているからだ」
外から見ているから。
つまり俺は、箱の中。
神官見習いは客間の隅で、まだ震えていた。
小司祭は彼を一瞥すると、
何でもない声で言い捨てた。
「君は伯爵家で“護衛中に事故に遭った”ことにする。
今日から別の施設へ移動だ」
「え……ぼ、僕は……」
「勇者候補は狩られる。
それが背教の流儀だ。
君が生きたいなら、教会の言う通りにしなさい」
生きたいなら。
その言葉の裏に、
“従わないなら死ぬ”が透けて見える。
俺は唇を噛み、視線を逸らした。
その瞬間、窓の割れた隙間から風が入る。
月の光が床に落ち、
さっき小司祭が撒いた聖水の跡が、薄い円を描いていた。
――輪。
その形を見るだけで、胃が冷えた。
*
移送はすぐだった。
伯爵家の馬車ではない。
教会の紋章が刻まれた、重い箱みたいな馬車。
外から見えないよう、窓がない。
代わりに、内側の壁に小さな祈祷文が彫られている。
俺は木の座席に座らされ、両側に護衛。
リナは正面にいた。
彼女だけが、俺を“物”として見ていない。
見ていないように努力している。
馬車が揺れるたび、銀鎖がかすかに鳴った。
その音が、やけに心臓の鼓動と重なる。
「……リナ」
俺は小さく呼んだ。
彼女が目を上げる。
「あなたは、教会の人間だよね」
「そう」
「じゃあ、教会は僕を守るの?」
リナは一瞬だけ言葉に詰まった。
そして、正直に答えた。
「……守る。
でも、教会が守りたいのは“あなた”じゃない」
俺の喉が鳴る。
「何を?」
リナは視線を伏せたまま言った。
「……秩序」
秩序。
それが本音だ。
個人ではなく、世界の仕組みを守る。
そのために俺が邪魔なら――。
馬車が、ふと止まった。
外で門が開く音。
金属が擦れる、嫌な音。
扉が開けられ、冷たい空気が流れ込む。
そこにあったのは、塔だった。
白い石造りの塔。
夜の中で、月光を吸って静かに立っている。
上の方には窓があるのに、
下の方には窓がない。
入った瞬間、鼻を刺す香の匂い。
床は磨かれているのに、
どこか病院みたいな気配がした。
案内役の司祭が言う。
「聖痕管理塔――導きの塔です。
特別保護対象は、ここで生活します」
生活。
その単語が嘘くさい。
俺は廊下を歩かされながら、
すれ違う扉を見た。
どの扉にも、札が貼られている。
番号。
そして小さな文字。
“候補”
“処置”
処置。
俺は背中がぞわりとした。
扉の向こうから、かすかな声が聞こえる。
泣き声。笑い声。
祈りの声。
そして――
笑っているのに、泣いている声。
俺の首の銀鎖が、微かに熱を持った。
(……来るな)
胸の奥の“何か”が、低く唸った。
けれど、その唸りすら、銀鎖に吸い込まれていく。
俺は耐え切れず、案内の司祭に聞いた。
「“処置”って、なに」
司祭は笑った。
優しい笑み。
でも答えは優しくなかった。
「候補が候補でなくなるための手順です」
背筋が凍る。
「候補でなくなるって……」
「安心してください。
導きです。救いです。
危険な芽は摘み、良い芽は育てる」
育てる。
摘む。
俺は“芽”扱いだった。
廊下の突き当たり。
重い扉が開けられる。
中は小さな部屋。
寝台、机、祈祷用の台。
窓は高い位置に一つだけ。
牢屋みたいに簡素。
でも清潔で、
だからこそ逃げ場がない。
「ここがあなたの部屋です、堀口健太殿」
その呼び方をされると、
胸の奥が少しだけ強くなる。
俺は言った。
「僕の名前を、消させない」
案内の司祭は不思議そうに首を傾げた。
「消す? そんなことはしませんよ」
その直後、
扉が閉まった。
ガチャリ。
鍵の音。
外から声がした。
「――今夜は“観察”だけだ」
観察。
俺は息を呑む。
部屋に一人になると、
銀鎖が妙に重く感じた。
首にぶら下がっているだけなのに、
身体の内側に食い込んでくるみたいに。
俺は祈祷台の前に立ち、
そこに置かれた小さな鏡を見た。
金色の瞳。
その中心に、薄い黒い輪。
そして、鏡の中の俺が――
今度は、確かに口を動かした。
声は聞こえない。
銀鎖があるから。
でも、唇の形だけで分かった。
『アーク』
その瞬間、頭が割れそうになった。
記憶の欠片が、無理矢理こじ開けられる。
暗い空。
血の匂い。
無数の悪魔。
そして巨大な輪が、世界の上で回っている。
俺は膝をついた。
(やめろ……今、思い出すな)
なのに、銀鎖が熱を持つ。
思い出そうとするたび、
記憶が喉元で焼けて、言葉にならない。
ふと、部屋の隅の祈祷文が目に入った。
壁に彫られた文字。
その中に、紛れている。
“堀口健太”
いや、違う。
彫られているのは、文字じゃない。
――名だ。
何度も削って、彫り直した痕跡。
上書きされたみたいに、名だけが深い。
俺は背中が冷たくなるのを感じた。
ここには、
俺と同じ名が、何度も来ている。
堀口健太は、
俺だけじゃない。
扉の向こうで、誰かが囁いた。
「……次は処置だ」
俺は息を止め、
必死に首の銀鎖を握った。
その時、銀鎖の内側で
小さな文字が一瞬だけ浮かび上がった。
『忘却』
――封印具は優しく締まる。
優しく、優しく、
名前から、世界から、俺を外していく。
俺は、歯を食いしばった。
堀口健太を、手放すな。
手放した瞬間、
“俺”はここで終わる。




