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第4話 黒い名簿と、特別保護の本当の意味

窓の外は、もう静かだった。

 割れたガラスの向こうに広がる夜が、

 さっきまでの騒ぎが嘘みたいに冷えている。


 震えている神官見習いは、

 部屋の隅で膝を抱えていた。


 リナは剣を鞘に戻していない。

 俺の方を、まっすぐ見ている。

 問いかける目だ。


「あなた、今……」


 俺が答えられないまま、

 小司祭が一歩、部屋の中心へ出た。


 彼は割れた窓も、刺客の逃げた方向も、

 ほとんど見ていない。


 視線は最初から最後まで――俺に固定されている。


「今夜の件は“事故”です」

 小司祭は穏やかな声で言った。


 事故。

 刺客が侵入して、勇者候補を殺しに来て、

 俺がよく分からない何かを起こしたのが、事故。


 リナの眉が動く。


「事故、ですか」


「ええ。背教の襲撃など、教会の権威に傷がつきます」

 小司祭は微笑む。

「伯爵家にも、あなたにも、よくない」


 つまり――揉み消す。


 彼は黒い名簿を抱え直し、

 神官見習いへ視線を投げた。


「君はよく耐えた。勇者候補としての資質は十分だ」


 その言葉に、神官見習いの顔がさらに青ざめた。

 勇者候補と認められることが、

 褒美ではなく“確定宣告”だとでも言うみたいに。


 俺の背中を冷たい汗が伝う。


 小司祭は続ける。


「今夜の襲撃は“外部の不審者”によるもの。

 君は恐怖で錯乱し、窓を割って逃げようとした」


「……え?」

 神官見習いが震える声を漏らす。


「理解してくれ。これが最善だ」

 小司祭はやさしい声音のまま、

 やさしくないことを言った。


 そして、名簿を閉じる。


 その閉じる音が、

 やけに重く聞こえた。


 リナが俺の隣に半歩寄る。

 護衛としての位置取り。

 でも、どこか迷っている。


「……ブレード殿を、どうするつもりですか」


 小司祭の笑みが薄くなる。


「“特別保護対象”ですから、当然――移送します」


 移送。

 伯爵家の屋敷から、教会の管理施設へ。

 保護という名の檻へ。


 俺は、できるだけ子どもらしく言った。


「僕、ここにいたい。家に」


 小司祭は首をかしげる。

 まるで聞き分けのない子を諭すみたいに。


「それは無理です。今夜、あなたは“見られた”」


 その言葉で、胸の奥が嫌にざわついた。


 見られた。

 背教に。

 そして――教会に。


 小司祭は名簿を再び開いた。


「リナ。ブレード殿の印をもう一度確認しなさい」


 リナの手が僅かに止まる。

 命令だ。逆らえない。


 彼女は小さく息を吸い、

 俺の襟元へ手を伸ばす。


 指先が肌に触れた瞬間、

 リナの表情がほんのわずか揺れた。


「……熱い」


「え?」

 俺は思わず聞き返す。


「印が……熱を持っています」


 小司祭は満足げに頷いた。


「やはり。今夜の反応で“起動”した」


 起動。

 人間に使う言葉じゃない。


 俺の喉が乾く。


「……何が、起動したの」


 小司祭は答えない。

 答えない代わりに、名簿のページをめくる。


 紙の擦れる音。

 その音だけで、胃が冷えていく。


 そして、彼は“あるページ”で止めた。


 そこには名前がずらりと並んでいた。

 欄が二つ。


 左に「候補」。

 右に「処置」。


 処置。


 その単語に、視界が少し暗くなった。


 小司祭は、そこへ指を置いた。


「堀口健太」


 俺の呼吸が止まった。


 リナが、目を見開く。


「……今、なんて」


 小司祭は、何でもないように続けた。


「あなたの“こちら側の名”です。

 ブレード殿」


 俺は言葉を失った。


 なぜ、それを知っている。

 いや、知っている人間がいること自体が異常だ。


 俺は咄嗟に言い返した。


「……違う。僕はブレードだ」


 小司祭は笑った。


「ええ。今はね」


 その“今は”が、刃みたいに刺さった。


 リナが小司祭へ詰め寄る。

 声が震えている。


「教会は……何を把握しているんですか。

 あなたは、彼を……」


 小司祭はリナの言葉を遮り、

 優しい調子で命令を上書きした。


「リナ。君は護衛だ。

 質問ではなく任務を果たしなさい」


 リナは唇を噛み、

 それでも一歩引いた。


 俺の中で、

 何かが静かに笑った気がした。


 ――ほら。

 守るって言いながら、首輪をつける。


 小司祭は名簿を閉じ、

 銀の小箱を取り出した。


 箱を開くと、

 中に細い銀鎖が収まっている。


 首輪ではない。

 でも、首輪に見えた。


「安心してください。これは封印具。

 あなたを傷つけるものではない」


 その“安心”という言葉が、

 一番信用できなかった。


 俺は一歩後ずさる。


 リナが反射的に前へ出た。

 俺を守るためか、俺を逃がさないためか、

 その動きだけでは分からない。


 小司祭が息を吐いた。


「ブレード殿。

 今夜の現象――裂け目の兆候は極めて危険です」


 裂け目。

 その単語が出た瞬間、

 胸の聖痕が、きゅっと縮む感覚がした。


 小司祭は静かに言った。


「背教は勇者候補を狩る。

 教会は勇者候補を“管理する”。」


「そして、あなたは――

 どちらの枠にも入らない」


 その言葉は、

 保護ではなく、孤立の宣告だった。


 小司祭が銀鎖を持ち上げる。


「今から教会へ。

 あなたの“特別”を、教会が預かります」


 リナが、かすかに首を振った。

 ほんの僅か。

 誰にも見えない程度に。


 それでも俺には、見えた。


 彼女は迷っている。

 俺を檻に入れる側か、

 檻を壊す側か。


 その瞬間、

 廊下の奥で鐘が鳴った。


 カン、カン。


 まるで合図のように。


 小司祭の背後の闇が、

 ほんの少し“歪んだ”気がした。


 誰かが、いる。

 背教ではない。

 教会でもない。


 もっと別の――

 輪の気配。


 俺は確信した。


 今夜、殺されるはずだったのは

 神官見習いだけじゃない。


 “俺の名前”も、消される。


 堀口健太という存在ごと、

 この世界に溶かされる。


 だからこそ、俺は

 この名だけは手放してはいけない。


 小司祭が言った。


「さあ。行きましょう、堀口健太殿」


 俺は、初めて反抗の言葉を選んだ。


「……僕の名前は、堀口健太だ」


 それを言った瞬間、

 胸の奥で何かが、ほんの少しだけ目を開けた。


 ――そうだ。忘れるな。


 誰の声か分からない。

 でも、その声は

 怖いくらい“帰ってきた感じ”がした。

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