第3話 今夜、消す
夜が来た。
屋敷の灯りは必要最低限に落とされ、
廊下には見慣れない足音が増えていた。
聖光教会の護衛――という名の監視。
扉の外で金具が鳴り、
俺の部屋に二人の人影が入ってくる。
白い法衣の小司祭と、
銀の胸飾りをつけた少女騎士。
まだ若い。
なのに目だけは、刃みたいに澄んでいる。
「ブレード・ファン・エイル殿。
本日より護衛を務めます、リナ・ベルハルトです」
少女騎士は片膝をつき、礼をした。
形式は丁寧だ。
けれど“観察する視線”が一切揺れない。
小司祭が俺の部屋を見回し、
微笑んだまま言った。
「今夜は、何も起こりませんよ。
教会がいる限り、ね」
その言い方が、あまりに断言だった。
まるで、“起こす側”の口調。
俺は作り笑いで頷き、
心の中でだけ距離を取った。
リナの視線が俺の指先に落ちる。
無意識に、俺が“戦う構え”をしていたらしい。
「……剣を握ったことが?」
リナが小声で訊いた。
「ないよ。……たぶん」
たぶん、が余計だ。
彼女の眉がわずかに動いた。
「たぶん、ですか」
その瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
誰かが笑った気配がする。
――言うな。
俺の中の“何か”が、低く囁いた。
小司祭は用件だけ告げる。
「屋敷内の移動は禁止。
不安なら祈りなさい。神はあなたを見捨てない」
言い終えると、二人は扉の外へ下がった。
リナだけが一度だけ振り返り、俺を見る。
まるで、
“君がどちら側か見極める”みたいに。
扉が閉まった。
静寂。
――その静けさが、逆に怖い。
俺はベッドに腰かけ、息を整えた。
窓の外は月が薄く、庭の影が濃い。
背教は「今夜」と言った。
教会は「何も起きない」と言った。
その二つが同時に存在する時点で、
起きるのは“事件”じゃない。
儀式だ。
カン、カン。
鐘が鳴る。
近い。
そして――屋敷のどこかで、扉が軋んだ。
俺は立ち上がった。
禁じられている。
だからこそ、行かなければならない。
廊下へ出ると、空気が冷えていた。
壁の燭台の炎が、一斉に小さく震えている。
リナが廊下の先にいた。
俺を見るなり、顔色が変わる。
「外に出たら――」
「何かが来てる」
言い切った瞬間、
廊下の奥の闇が“ゆっくり裂けた”。
黒いローブ。
顔は見えない。
けれど胸元の舟の紋章が、月光で鈍く光る。
背教。
ローブの影から、もう一人。
刃を隠した短剣が、わずかに反射する。
リナが剣を抜いた。
鋼が鳴る。
「背教……!」
だが敵は、リナを無視して走った。
一直線に――屋敷の奥へ。
向かう先は、客間の方向。
「……まさか」
リナが歯噛みする。
「今夜の“対象”は……!」
俺の背中が冷たくなる。
屋敷の客間。
そこには今夜、伯爵の“来客”が泊まっている。
若い神官見習い。
昼間、司祭の後ろで名簿を抱えていた男だ。
俺は知らないはずなのに、
なぜか確信していた。
――あいつが勇者候補だ。
足が勝手に動く。
リナが追う。
遠くで、絹が裂けるような音。
客間の扉が、内側から破られた。
次の瞬間、男の悲鳴が響いた。
背教の刺客が、ベッドへ飛び込む。
短剣が下へ落ち――
「やめろ!」
声が出た。
リナの剣が刺客の腕を弾く。
火花が散った。
だが刺客は軽い。
床を蹴って距離を取り、
そのまま別の角度から再び突く。
狙いは神官見習いの喉。
リナの動きが一瞬遅れた。
守るべき相手が“後ろにいる”せいだ。
――間に合わない。
その瞬間、俺の手が
壁に立てかけられていた装飾剣を掴んだ。
重い。
鈍い。
十二歳の腕には過剰だ。
なのに――握った瞬間、
身体が“正しい重さ”に変換した。
剣が自分の一部みたいに馴染む。
――踏み込み。
誰かの声が頭の奥で指示する。
俺は言われるままに足を出し、
装飾剣で短剣の軌道を叩いた。
金属音。
刺客の刃が逸れた。
刺客がこちらを見た。
初めて、目だけが見えた。
暗いのに、異様に光る目。
「……憑依者」
声が、笑っていた。
「いるじゃないか。
神言の通りだ。勇者候補を守りに来る」
リナが眉をひそめる。
「神言……? 背教が?」
刺客はリナを見ずに続けた。
「勇者候補は今夜、消す。
それが“輪”の意思だ」
輪。
その単語を聞いた瞬間、
俺の胸の奥の聖痕が、静かに“鳴った”。
痛みはない。
ただ、空気が薄くなる。
刺客がもう一度跳ぶ。
今度は俺を刺す軌道。
避けようとした。
なのに間に合わない。
――なら、裂けろ。
また声。
俺のものじゃない。
でも、俺の中。
目の前の空間が、
紙みたいに“薄く”見えた。
そして――
刃が触れる直前、空気が細く割れた。
ピシッ。
音は小さいのに、全身が震えた。
短剣の先が、ありえない角度で消える。
消えたというより、
どこかへ“吸い込まれた”。
刺客の動きが止まった。
「……は?」
リナの目が、俺の前の“何もない場所”を見つめる。
彼女にも見えている。
見えちゃいけないものが。
刺客が一歩下がった。
その声から、さっきの余裕が消えている。
「裂け目……?」
――裂け目。
俺はその言葉を知っている。
なのに、知らない。
刺客が笑った。
でも、その笑いは恐怖で歪んでいた。
「……創り主か」
創り主。
その瞬間、背後から小司祭の声が響いた。
「リナ! 下がれ!」
廊下の先に、小司祭がいた。
手には銀の聖水鉢。
そして、黒い名簿。
彼の目は、刺客ではなく――俺を見ていた。
まるで今この瞬間を、
“待っていた”みたいに。
小司祭が聖水を床へ撒く。
液体が光り、床に円が描かれる。
刺客が舌打ちした。
「……今夜は収穫なし、か」
背教の刺客は窓へ飛び、
ガラスを割って夜へ消えた。
残されたのは、
震える神官見習いと、
剣を握ったまま固まるリナと、
――俺を見つめる小司祭。
小司祭は優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、ブレード殿。
あなたは“守られています”」
その優しさが、今は怖い。
俺は装飾剣を落としそうになりながら、
自分の胸元を押さえた。
聖痕が、静かにそこにある。
光と闇が交差する印。
そして俺の耳に、
最後の囁きが落ちてきた。
――見られた。もう戻れない。
リナが、かすれた声で言う。
「……あなた、今……何をしたの?」
俺は答えられなかった。
自分が何をしたか分からない。
ただ分かるのは、
教会は俺を檻に入れるつもりで、
背教は俺を“危険物”として見つけ、
そして俺は――
この世界の“裂け目”に、
触れてしまったということだけだった。




