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第48話 ユナの誓い――名を言わずに守る、という嘘

落下は短かった。

 闇が喉に流れ込む感覚だけが長い。


 裂け目は、逃走路じゃない。

 傷の道。

 制度の外へ落ちるための“欠け”だ。


 地面に叩きつけられ、息が抜けた。

 石。冷たい。

 鼻に湿った土の匂い。


 ここは地下のさらに奥。

 王都の下。

 回収路の裏よりもっと裏。


 背後で裂け目が、細く縫われる音。

 傷が治ろうとしている。

 免疫は黙っているのに、制度は自分で治る。


 俺は核を胸に押さえた。

 黒い脈動が掌を打つ。

 鍵がカチ、と鳴り続ける。


 ――危険。

 噛み合いすぎる。

 噛み合うほど、受領が近づく。


 隣で少女が咳き込んだ。

 ユナ。

 筒から落ちた“芽吹き”の少女。


「……っ、ここ……どこ……」


 震える声。

 怖さを隠せない声。

 でも目は、強い琥珀。


 恐怖に負けていない目。

 それが逆に危うい。

 強い子ほど、誓いを立てる。

 誓いは鎖になる。


 ユナは俺の袖を掴み、必死に言った。


「ねえ……ブレード……だよね?

 あなた、さっき……私を助けた……」


 助けた。

 その言葉が胸に刺さる。

 刺さると、縛られる。


 椅子の声が遠くで囁く。

 “二人”は縛りやすい。


 だから、先に縛りを切る。

 二人の間に“誓い”を作らせない。


 俺はユナの手首を軽く外し、

 目だけで言った。


(名前を言うな)

(誓うな)


 ユナは首をかしげた。

 理解できない。

 当然だ。


 彼女は息を吸い、言いかける。


「ありがとう……私、あなたの――」


 誓い。

 来る。


 俺は口を開いた。

 短く。

 同意の形を作らずに、方向だけ変える。


「……生きろ」


 ユナが固まった。

「え?」


 俺は繰り返した。

 優しくしない。

 優しい言葉は鎖になる。


「生きるのが先」


 ユナの眉が寄る。

 でも、頷いた。

 その頷きが怖い。

 頷きは“はい”の形だ。


 だから、頷かせないように次を急ぐ。


 この場所は安全じゃない。

 回収路から落ちてきた以上、追手は来る。

 受領の司は制度の脚で追う。

 司祭は数で追う。


 そして、核は椅子を呼ぶ。


 俺は周囲を見回した。

 狭い通路。

 壁に古い刻印。

 舟の刻印……背教。


 背教が掘った“逃げ穴”だ。

 逃げ穴の先に何があるかは分からない。

 でもここよりはマシ。


 ユナが震える声で言った。


「あなた、何者なの……?

 教会の人じゃないよね……」


 何者。

 名を問う。

 答えたら鎖。


 俺は答えない。

 代わりに、台帳を見せた。

 紙面を開き、受領の文字の癖を指でなぞる。


 ユナが覗き込み、目を見開く。


「……これ、書類……?

 でも、教会の文字じゃない……変……」


 変。

 そうだ。

 地球の癖だ。

 窓口の癖だ。


 ユナが、息を呑んで言った。


「あなた……外から来た……?」


 外来。

 その言葉は危険だ。

 世界が嫌う。

 免疫が黙っている今でも、制度が反応する。


 俺は首を振った。

 否定でも肯定でもない。

 “保留”。


 ユナは唇を噛み、次にこう言った。


「……分かった。

 じゃあ、私……誓う。

 あなたの秘密、誰にも――」


 来た。

 誓い。

 鎖を自分で作るタイプの子だ。


 俺はユナの口を手で塞いだ。

 乱暴に見えるくらいでいい。

 優しさは毒。


 ユナの目が驚きで揺れる。

 でもすぐに怒りが混じる。


「んーっ!」


 怒りはいい。

 怒りは誓いを止める。

 怒りは“はい”を言わせない。


 俺は手を離し、低く言った。


「誓うな」


 ユナが噛みつくように言う。


「なんで!

 私は助けられた!

 助けられたなら、返したい!」


 返す。

 返礼。

 その感情が鎖になる。


 椅子の声が、闇の向こうで笑う気配。

 “いい子”は返したがる。

 返す時に同意が生まれる。


 俺はユナの目を見て、言った。


「返すな」


 ユナが固まる。

「……え?」


 俺は台帳を閉じ、胸に押し当てた。

 核の脈動が、手のひらを叩く。

 喉の奥で、取り返した二音が熱い。


 ――けんた。

 まだ途中。

 でも、戻ってきた。


 俺は続ける。

 短く。

 感情を使わない。


「返すと、縛られる」


 ユナの眉が寄る。

「縛られるって……誰に……?」


 俺は壁の舟の刻印を指した。

 そして天井を指した。

 上。

 椅子の方向。


 ユナは、理解できないのに感じ取った。

 空気の圧。

 制度の匂い。


 その時だった。


 遠くで、規律の靴音。

 近い。

 早い。


 受領の司じゃない。

 司祭の集団。

 数の靴音。


 ユナが息を呑む。


「来た……?」


 俺は頷かない。

 頷きは“はい”。

 代わりに、手でユナの肩を押し、前を指す。


(走れ)


 ユナは走り出した。

 俺も続く。


 通路は曲がり、

 途中で小さな裂け目の痕があった。

 縫われた傷。

 古い傷。


 核が反応する。

 脈動が強くなる。

 椅子に近い。


 この先は危険。

 だが戻る道も危険。


 ユナが走りながら言った。


「ブレード!

 あなた、私を見捨てないよね!」


 見捨てない。

 言えば誓い。

 誓えば鎖。


 でも黙れば、ユナが折れる。

 折れたら、椅子の言う通り“縛りやすい”。


 だから、別の形で支える。

 言葉じゃない形で。


 俺はユナの手首を掴み、

 強く引いて速度を合わせた。


 答えの代わりに、握力で示す。

 「行く」。

 「生きる」。


 ユナが一瞬だけ泣きそうな顔をして、

 それから歯を食いしばった。


「……分かった。

 誓わない。

 でも――私、決めた」


 決めた。

 また危険な言葉。

 自分で鎖を作る合図。


 ユナが言う。


「私、あなたのそばにいる。

 あなたが逃げるなら、私も逃げる。

 あなたが戦うなら、私も――」


 来る。

 誓いの代わりの“同行宣言”。

 それも鎖になる。


 俺は足を止め、ユナを壁際へ引き寄せた。

 司祭の靴音が角を曲がる直前。


「黙れ」


 ユナの目が怒りで燃える。

 でも言葉が止まる。


 俺は耳を壁に当てた。

 薄い石の向こうに空洞。

 呼吸する匂い。


 ――抜け道。


 背教の研究所は、逃走路を何重にも用意している。

 背教自身が裏切るために。


 俺は台帳の角で壁を擦った。

 一ミリ。

 石の継ぎ目に傷を入れる。


 ギチ、と石が鳴る。

 壁が、ほんの少しだけ沈む。


 ユナが息を呑む。

「……何それ……」


 答えない。

 説明は鎖。


 壁が開き、狭い隙間。

 俺はユナを押し込む。


 その瞬間、角から司祭の声。


「そこだ!」


 白いローブが見えた。

 光が差す。

 輪の線が床に伸びる。

 拘束の準備。


 俺は核を胸で押さえ、

 喉の奥で“けんた”の欠片を鳴らした。

 振動だけ。


 銀鎖がズレる。

 身体が軽くなる。


 俺は最後に台帳を持ち上げ、

 司祭の視界にわざと見せた。


 証拠を見せる。

 制度の目を引く。

 追う理由を作る。


 司祭たちの目が台帳に吸い寄せられる。

 その一拍で、俺は隙間へ滑り込んだ。


 壁が閉じる。

 暗闇。


 ユナの息が近い。

 恐怖の匂い。

 でも彼女は声を出さない。


 ――偉い。

 でも褒めない。

 褒めたら鎖になる。


 闇の中で、ユナが小さく囁いた。


「……誓わない。

 でも、私は……」


 まだ言う。

 鎖を作りたがる。


 俺はユナの額に指を当て、軽く押した。

 “今は考えるな”の合図。


 そして自分の胸に触れる。

 核の脈動。

 鍵の共鳴。


 このままでは、椅子が近づく。

 核を持つ限り、帰巣が起きる。


 なら核を――

 “持つ”んじゃなく、“封じる”。


 闇の奥で、椅子の声が遠く囁いた。


「ユナは良い。

 誓いを立てたがる子は、育てやすい」


 育てる。

 勇者候補を育てるみたいに。


 俺は歯を食いしばった。

 ユナは駒じゃない。

 俺の鎖でもない。


 ――守る。

 言葉じゃなく、傷で。


 闇の先に、微かな光。

 出口がある。


 その光の方へ進みながら、

 喉の奥の“けんた”が、もう一音欲しがった。


 名前が戻るほど、

 俺は俺に戻れる。

 戻れば、椅子に奪われにくくなる。


 ユナが最後に、小さく言った。


「……ありがとうは、言っていい?」


 ありがとう。

 それも鎖になり得る。

 でも拒めば彼女は折れる。


 俺は一拍だけ迷い、

 そして条件を付けて許した。


「……一回だけ」


 ユナが小さく笑って、

 涙を飲み込む声で言った。


「……ありがとう」


 その言葉が鎖にならないように、

 俺はすぐに次の“傷”を探した。

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