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第46話 背教修道士の影――“声”を切り離すには、名ではなく傷が要る

暗い通路へ転がり出た瞬間、湿気が肺に刺さった。

 王都地下の研究所へ戻った。

 無観測域。免疫が黙る場所。


 台帳は胸にある。

 喉の奥には、取り返した一音が残っている。


 ――けん。


 その一音が、薄くなっていた感情を呼び戻す。

 セラ。リナ。堀口健太。

 輪郭が痛いほど鮮明だ。


 痛みは、鎖じゃない。

 今は刃だ。


 背後で、足音。

 規律のある足音じゃない。

 ズル、と擦れる足音。


 背教修道士の影が、壁に伸びている。

 影が遅れて揺れる。

 無観測域の癖。


 振り返らなくても分かる。

 あいつは“走って”いない。

 それなのに距離が縮む。


 制度じゃない。

 力だ。


 蛇が擦れる声が、闇の中で笑った。


「戻ったね、ブレード」


 ブレード。

 その名を呼ばれると銀鎖が熱を持つ。

 でも今は、少しだけ違う。


 喉の奥の“けん”が、

 名の結び目に小さな棘を刺している。


 背教修道士が闇から現れた。

 黒い法衣。

 胸の舟の刻印。


 だが、目が違う。

 瞳孔の縁が、細く輪になっている。

 蛇の輪。


 背教修道士の口が笑う。

 声が椅子に似ている。


「核を投げ捨てたのは偉い。

 でもね――捨てたなら、もう君のものじゃない」


 俺は台帳を抱え直し、息を整えた。

 喉が焼ける。

 言葉は慎重に選ぶ。

 同意の形を作らないために。


 背教修道士の影が、俺の足元へ伸びる。

 仮拘束の線が、影と絡む。

 縄と影が一緒になる。


 逃げ道が狭くなる。


 背教修道士が一歩踏み出した。

 足音が、べちゃ、と濡れている。


 彼の足首に、黒い液体が巻き付いていた。

 血じゃない。

 影が濃くなったみたいな液体。


 ――ウルボロスの“舌”。


 棺の中の少年が言っていた。

 起こすな。

 起きたら戻れない。


 その意味が今、少し分かる。

 悪神は“声”で入ってくる。

 声は器を選ぶ。

 器が呼ばれた名に反応する。


 だから名で戦うのは危険だ。

 名は入口になる。


 じゃあ何で切る。


 ――傷だ。


 制度の傷。

 輪の欠け。

 一ミリのズレ。

 あれが“繋がり”を乱した。


 つまり、声と器の接続にも傷がある。

 そこを裂けば、切り離せる。


 背教修道士が手を伸ばす。

 指先が黒い。

 触れたら、名が抜かれる。


「台帳を渡せ」


 渡さない。

 これは地球側の窓口の証拠。

 教主の席と繋がる糸。


 俺は背教修道士の指先を見て、

 わざと一歩だけ近づいた。


 背教修道士が笑う。

「いい子だ」


 その瞬間、俺は台帳を“落とした”。

 胸から落とす。

 床へ滑らせる。

 輪の線の上へ。


 カサ、と紙の音。


 背教修道士の視線が、反射で台帳へ落ちる。

 証拠を見たい。

 奪いたい。


 その一拍。


 俺は自分の喉元へ指を当てた。

 銀鎖の結び目じゃない。

 もっと奥。

 名の空白がある場所。


 そして、取り返した一音を、

 “傷”として使う。


(けん)


 口には出さない。

 音を“喉の内側”で鳴らす。

 声にせず、振動だけを作る。


 その振動が、銀鎖の命令の結び目を一瞬だけズラす。

 カチ。

 微かなズレ。


 背教修道士の目が揺れた。


「……何をした」


 効いた。

 名じゃない。

 欠けた音の振動が、接続の継ぎ目を刺激した。


 背教修道士は苛立ち、影を伸ばす。

 影が俺の足首に絡む。

 冷たい。

 引っ張られる。


 俺は逆に、その影へ足を踏み込んだ。

 逃げるんじゃない。

 “影の根元”を探る。


 影の根元は、背教修道士の胸の刻印――舟の印へ繋がっている。

 そこが接続点だ。

 教主の犬の証。

 声の入口。


 俺は床の輪の欠けへ視線を走らせた。

 この通路にも輪がある。

 研究所の床は輪だらけ。

 欠けもある。


 欠けを使う。

 制度の傷で、接続を裂く。


 俺は台帳を拾い上げ、

 その角で床の輪の欠けを“なぞった”。


 一ミリ。

 擦る。

 傷を広げる。


 輪が、ギチ、と鳴る。

 空気が薄くなる。

 でも免疫は黙っている。

 誰も治してくれない。


 だから傷が、残る。

 残った傷は、刃になる。


 背教修道士の胸の舟の刻印が、ピクリと光った。

 影が一瞬だけ、引っかかる。


 接続がズレた。


 俺はその瞬間に、床の欠けへ台帳の角を突き立てた。


 バチ、と乾いた音。


 輪が、ほんの少しだけ裂けた。

 紙が裂けるみたいに。

 世界の布が裂けるみたいに。


 背教修道士が、初めて呻いた。


「……っ」


 影が細く震え、背教修道士の胸から“糸”が見えた。

 目に見えないはずの糸。

 声と器を繋ぐ糸。

 椅子へ繋がる糸。


 俺は手を伸ばした。

 名じゃない。

 糸を掴む。


 背教修道士が笑う。

 でもその笑いは、少し壊れていた。


「触るな。

 それは君には耐えられない」


 耐えられない?

 なら、触る価値がある。


 俺は糸を掴んだ。


 瞬間、視界に“円”が重なった。

 地球の手続き室。

 教主席の椅子。

 白い部屋。

 そして――背教修道士の喉。


 ウルボロスの舌が、そこに巻き付いている。


 吐き気。

 でも手は離さない。


 俺は糸を、床の裂け目へ叩きつけた。

 傷に触れさせる。

 傷は接続を嫌う。

 傷は嘘を固定できない。


 背教修道士の身体が、ぐらりと揺れた。

 目の輪が歪む。

 蛇の輪が欠ける。


「……おい」


 声が椅子の声じゃなくなった。

 背教修道士自身の声。

 弱い人間の声。


 切れかけている。


 だが、まだ足りない。

 糸は太い。

 椅子の側から押さえられている。


 背教修道士が膝をつき、喉を掴む。

 息が、ひゅう、と漏れる。


「……助け……」


 その言葉が胸に刺さりかけて、

 俺はすぐに切り捨てた。


 同情は鎖になる。

 優しさは、ここでは一番折れる。


 背教修道士の背後で、筒が一つ割れた。

 ガラスの音。

 液体の音。


 発芽の候補が床へ落ちる。

 眠ったまま。

 でも胸の刻印が強く光る。


 背教修道士の喉から、蛇の声がまた滲む。


「……やめろ」


 戻ってきた。

 椅子が糸を引っ張っている。

 このままじゃ、奪われる。


 俺は決めた。

 糸を切る。

 完全に切る。


 方法は一つ。

 糸の“結び目”を裂く。


 結び目は、背教修道士の胸の舟の刻印。

 そこに、欠けた音の棘を刺す。


 俺は喉の内側で、もう一度“けん”を鳴らす。

 今度は少し強く。

 声にしない。振動だけ。


 カチ。


 銀鎖の結び目がズレる。

 同時に、胸の鍵が冷たく鳴る。


 俺はその振動を、拳に乗せて背教の刻印へ叩き込んだ。


 ドン。


 鈍い衝撃。

 刻印が、ひび割れた。

 舟の形が崩れ、黒い液体が噴き出す。


 背教修道士が叫ぶ――声は出ない。

 でも喉が裂けそうな形を作った。


 そして、糸が――


 プツン、と切れた。


 切れた瞬間、研究所の空気が一気に軽くなる。

 臭いが薄くなる。

 蛇の匂いが消える。


 背教修道士の瞳から、輪が消えた。

 ただの人間の目になる。


 彼は床に倒れ、荒い息をした。


「……おれ……は……」


 俺は返事をしない。

 同意を作らない。

 助けるとも言わない。


 ただ、台帳を拾い、通路の奥へ視線を走らせる。

 今の音と衝撃で、必ず誰かが来る。

 教主側も、背教側も。


 背教修道士が、かすれた声で言った。


「……核……は……椅子が……」


 椅子が。

 何だ。

 言え。


 だが彼の言葉は途中で詰まり、

 喉の奥で“何か”がまだ残っているように震えた。


 完全には切れていない。

 切れたのは“声の糸”だけ。

 器の中に残滓が残っている。


 その残滓が、薄く笑った。


「……上手だね、ブレード」


 椅子の声。

 遠い。

 でも確かに聞こえる。


「でも“切る”だけじゃ足りない。

 次は――回収しに行きなさい」


 回収。

 核の回収。

 そして俺の置き去りの回収。


 椅子は、俺を働かせる。

 はいを言わずに。

 だが“状況”で同意させる。


 俺は歯を食いしばり、台帳を胸へ抱えた。


 喉の奥の一音が熱い。

 それが俺の刃だ。


 通路の奥で、靴音。

 複数。

 規律のある足音。


 背教じゃない。

 教会側の足音。


 俺は走った。

 次の反転が来る前に、

 核の行方を掴むために。

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