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第45話 核の帰属――裂け目は逃走路じゃなく“帰巣”

輪の中へ踏み込んだ瞬間、足裏が消えた。

 落ちる感覚じゃない。

 “戻される”感覚だ。


 核は手の中で脈打ち、俺の胸の鍵と噛み合う。

 カチ。

 カチ、カチ。


 輪の欠けが、勝手に埋まっていく。

 俺が走った跡を、床が修復していく。

 無観測域のはずなのに。


 背後で、背教修道士――いや、背教修道士の皮を着た“声”が笑った。


「逃げる?

 逃げるんじゃない。帰るんだ」


 蛇が擦れる声。

 ウルボロスの匂い。


 俺は核を握りしめた。

 指が痛い。

 でも離したら終わる。


 輪が光る。

 光は眩しくない。

 冷たいだけ。


 景色が剥がれた。

 研究所の壁が、筒が、棺が、薄い紙みたいにめくれる。

 その下に出てきたのは――白い部屋。


 最初の記憶。

 自分の身体を横たえた部屋。


 床は白。

 天井も白。

 空気だけが黒い。


 白い床の中央に、俺の“置き去り”がある。

 棺じゃない。

 もっと素直な形の寝台。


 そしてその上に、十二歳の俺。

 目を開けている。


 棺の中で目を開けた少年と同じ顔。

 同じ瞳。

 同じ静けさ。


 少年は、俺を見て笑った。

 笑顔じゃない。

 “理解した者の顔”だ。


 ――核、持ってきた。


 声は出ない。

 でも胸の奥へ直接刺さる。


 俺は喉が焼けるのを感じながら、問い返そうとした。

 何のために。

 誰のために。


 その瞬間、輪が白い床に浮かび上がった。

 研究所の輪より正確で、嫌なほど整っている。


 輪の上に文字。

 読めるのに、読み方が分からない。

 音が抜けている。


 だが意味だけは、容赦なく理解できた。


『受領:教主席』

『保管:空白核』

『移送:同意済み』


 冷たい。

 全部“手続き”だ。

 俺の置き去りは、保管物だった。

 核は、その保管物を“正しく受領”するための鍵。


 俺は背筋が凍る。


(裂け目は逃げ道じゃない)

(回収路だ)


 背後で蛇の声が、くすくす笑う。


「そう。

 君が作った裂け目は、君の帰巣本能だ」


 帰巣。

 帰る場所がある者を、必ず帰らせる仕組み。


 ――つまり。

 俺が核を掴んだ時点で、

 俺は椅子の“受領台”へ自分で歩いた。


 胃がひっくり返る感覚。


 少年が寝台の上で、ゆっくり首を傾げた。


 ――ブレード。

 ――堀口。

 ――どっちも仮。


 少年の指が、俺の喉元を指す。

 銀鎖の結び目じゃない。

 もっと奥。

 “名の空白”がある場所。


 輪が薄く鳴った。

 カン。


 その音と同時に、俺の口から勝手に息が漏れた。

 言葉になりかける。

 “はい”じゃない。

 もっと悪い。


 ――真名の最初の一音。


 俺は唇を噛み、血の味で止めた。


 蛇の声が、苛立ちを含んで言う。


「出せ。

 真名は“味”だ。

 欠けた音で誤作動を起こすなら、

 本物で上書きすればいい」


 誤作動。

 さっき俺が背教修道士に掴ませた“欠けた音”が、

 輪を乱した。


 つまり――効いている。


 効いているなら、

 次はもっと強く使える。


 俺は核を胸に引き寄せた。

 鍵と核を、同じ場所に重ねる。


 胸の奥で、カチ。

 嫌なほど綺麗に噛み合う。


 少年が微かに目を細める。


 ――やめろ。

 ――それは“受領”になる。


 分かっている。

 だから、受領の形を“逆”にする。


 俺は核を輪の中心へ投げるのではなく、

 輪の“外側の欠け”へ叩きつけた。


 欠け。

 埋まりかけた穴へ、もう一度傷を入れる。

 制度が嫌う傷。


 カチッ――ではなく。

 バキ、と鈍い音。


 輪の光が一瞬だけ乱れ、白い床がひび割れた。

 ひびの向こうに、黒い空洞。


 そこから、冷たい風。

 エイルの風じゃない。

 地球の雨の匂いでもない。


 “どこでもない”匂い。

 裂け目の本来の匂い。


 免疫がいない場所で、

 裂け目は初めて自由に口を開ける。


 蛇の声が低く唸る。


「……良い。

 その傷は良い」


 褒めるな。

 褒めるのは、奪うためだ。


 白い部屋の壁が、ざわりと揺れた。

 椅子の気配が、遠くから近づく。

 椅子はここにない。

 でも“受領”の規則はここにある。


 少年が寝台の上で、俺を真っ直ぐ見た。

 さっきより必死な目。


 ――ブレード。

 ――起こすな。

 ――俺を起こせば、君は“戻る”しかなくなる。


 戻るしかなくなる。

 受領される。

 椅子の所有物になる。


 俺は少年の視線を振り切り、

 ひび割れた裂け目へ手を突っ込んだ。


 手が冷える。

 骨まで冷える。


 その瞬間、

 俺の喉の奥で、欠けた音が一つだけ弾けた。


 ――け、ん……


 息の形。

 名前の最初の欠片。


 椅子が約束した“返却”じゃない。

 俺が奪い返した音。


 その一音を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなる。

 薄くなっていた“別れ”の感情が、針みたいに戻ってくる。


 セラ。

 リナ。

 堀口健太。


 輪郭が、戻る。

 痛いほど、戻る。


 蛇の声が笑った。


「いいね。

 感情が戻ると、縛りやすい」


 違う。

 感情は鎖にもなる。

 でも今は――刃にもなる。


 俺は裂け目を“引いた”。

 開けるんじゃない。

 引き裂く。


 白い床が、もう一度ひび割れる。

 裂け目が広がり、向こう側に暗い通路が見えた。

 研究所の地下通路。

 あの無観測域へ戻れる。


 戻れれば、台帳を持って脱出できる。

 背教修道士の身体を借りた“声”を切り離せる。


 ――その直前。


 椅子の声が、白い部屋の上から落ちてきた。


「やめろ」


 冷たい命令。

 教主より上。


 白い部屋の輪が、勝手に整い始める。

 ひびが縫われる。

 傷が消される。

 制度が治る。


 治る前に出ないと、終わる。


 俺は裂け目へ身体を投げた。


 少年の思考が、最後に胸へ刺さる。


 ――ブレード。

 ――核は“俺”だ。

 ――俺を持ったまま逃げるな。


 持ったまま逃げるな。

 核を持って出れば、受領に繋がる。


 なら――捨てる?

 核を?

 俺の置き去りを?


 息が詰まった。

 でも選ぶ。

 世界に選ばせない。


 俺は裂け目の縁で、核を握り直し、

 ひび割れた輪の“外”へ投げ捨てた。


 核が床に落ち、鈍く鳴る。


 同時に、椅子の声がほんの少しだけ苛立つ。


「……返せ」


 返すわけがない。

 俺は裂け目へ落ち、暗い通路へ転がり出た。


 背後で白い部屋が閉じる。

 輪が整い、傷が消える。

 そして最後に、蛇の声が笑った。


「捨てた?

 いいね。

 捨てたものほど、追いかけたくなる」


 暗闇の中で、俺は息を吐いた。

 喉の奥に残った一音が、まだ熱い。


 ――けん。


 まだ全部じゃない。

 でも、戻せる。

 取り返せる。


 俺は台帳を抱え、闇の奥へ走った。

 背教修道士の身体の向こうにいる“声”より先に。

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