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第44話 真名が呼ぶ――棺の中の“俺”は、俺を見て笑った

――「アーク」。


 声はない。

 なのに胸の奥へ直接届いた。


 棺の中の少年が、俺を見ていた。

 瞳が、黒い。

 静かすぎる黒。


 背教修道士が息を止めたのが分かった。

 無観測域なのに、空気が重くなる。


「……目覚めたか」


 彼は嬉しそうでもなく、淡々と呟いた。

 でも指先がわずかに震えている。

 怖いのは俺じゃない。

 “真名”の方だ。


 棺の中の少年は、口を動かした。

 音は出ない。

 それでも俺には分かる。


 ――戻れ。


 その口の形は、そう言っていた。


 俺の胸の鍵が、冷たく鳴る。

 記憶の底が引きずり出される。


 白い部屋。

 横たえた身体。

 閉じた瞼。

 自分を捨てる感覚。


(……俺は、ここに置いた)

(……置いて、地球へ行った)


 棺の中の少年が、また“思考”で言う。


 ――逃げるな。

 ――お前が作った裂け目だ。


 背教修道士が、俺の喉元へ指を伸ばした。

 銀鎖じゃない。

 もっと奥、骨の内側に触れる指。


「真名の欠片を預かる」


 預かる。

 丁寧な言葉で、根を抜く。


 彼の背後で筒が一つ、ぷく、と泡立った。

 勇者候補の“発芽”が反応する。

 真名の匂いに引っ張られている。


 背教修道士が低く笑う。


「ほら。

 君がここにいるだけで、芽が育つ」


 俺は歯を食いしばった。

 無観測域は、世界が黙る。

 だからこそ、処置が生で刺さる。


 棺の中の少年が、俺の目を見て“笑った”。

 笑顔じゃない。

 瞳の奥の温度だけが上がる、嫌な笑い。


 ――ブレード。

 ――いや、堀口。

 ――名前は仮面だ。


 その瞬間、胸の奥で何かが反発した。

 “堀口健太”の音。

 欠けた音が、喉を焼く。


(呼ぶな)

(その音は、奪われたままだ)


 背教修道士が言った。


「さあ。

 差し出せ」


 “はい”を言わせない別の形。

 差し出す行為そのものを同意に変える。


 俺は台帳を抱え直し、ゆっくり息を吐いた。

 感情は薄い。

 でも怒りだけは残っている。


 薄い怒りは、冷たい。

 冷たい怒りは、手が震えない。


「……預かりなら」


 背教修道士が目を細める。

 俺が返事をしたと思っている。

 でも違う。

 返事じゃない。条件の提示だ。


 俺は続けた。


「真名じゃない」


 背教修道士の笑みが消える。


「ふざけるな」


 棺の中の少年が、思考で囁いた。


 ――渡すな。

 ――欠片を渡せば、椅子が嗅ぐ。


 椅子。

 教主席。

 ウルボロスの窓。


 背教修道士が一歩詰める。

 指先が俺の喉に触れた瞬間――

 皮膚の下で“名”が引っ張られる感覚がした。


 抜かれる。

 真名の一部が、骨の間から抜ける。


 俺は咄嗟に、胸の鍵を握った。

 嘘を壊す。

 今この瞬間の“手続きの正当性”を壊す。


(預かり=同意)

(それは嘘だ)


 鍵が、カチ、と鳴った。

 背教修道士の指が一拍止まる。


 その一拍で、俺は“欠けた音”へ手を伸ばした。

 地球で徴収された、俺の名の一部。

 言えない音。

 呼べない音。


 だからこそ――“穴”だ。


 俺はその穴を、つかんだ。


 背教修道士が眉をひそめる。


「……何をした」


 俺は小さく答えた。


「……偽物を作った」


 偽物。

 でも制度は偽物に弱い。

 制度は“形”で動くから。


 俺は掌を開いた。

 そこにあるのは、音の欠片。

 目に見えない。

 でも背教修道士の目が、確かにそれを追った。


 背教修道士が喉を鳴らす。


「それが、真名の欠片?」


 俺は答えない。

 答えた瞬間、同意が完成する。


 代わりに、台帳の角で床の輪の欠けを一ミリ指した。

 原型の傷。

 制度の穴。


 そして、ゆっくり掌を差し出した。


 “預ける”動作に見える。

 でも俺は“渡す”と言っていない。


 背教修道士は、耐えられなかった。

 彼は自分から掴んだ。


 掴んだ瞬間――


 研究所の輪が、ギチ、と鳴った。

 透明な筒の液体が波打つ。

 発芽の刻印が一斉に光る。


 背教修道士の瞳が揺れた。


「……冷たい」


 当然だ。

 それは“真名”じゃない。

 “欠けた音”だ。

 名になれなかった穴だ。


 穴は埋めると腐る。

 腐りは、輪を乱す。


 背教修道士が膝をついた。

 指先が黒く変色し始める。

 呪いじゃない。

 “制度の誤作動”だ。


 彼は震えながら笑った。


「……お前……」


 棺の中の少年が、俺を見て思考で言う。


 ――今だ。

 ――核へ。


 核。

 原型の核。

 裂け目の心臓。


 俺は走った。

 仮拘束の線が伸びて足首を絡める。

 でも輪が乱れている。

 線の締まりが弱い。


 床の中央、台座の下。

 輪の重なりが一番濃い場所。


 そこに――小さな黒い石が埋まっていた。

 石なのに、呼吸しているみたいに脈打つ。

 触れた瞬間、胸の鍵が共鳴した。


(これが……原型の核)


 背教修道士が喉を鳴らし、叫びかける。

 声は出ない。

 無観測域のせいじゃない。

 彼の“言葉”が輪に食われている。


 彼は自分の喉を掴み、泡を吐いた。


 そして――笑った。

 さっきより深い笑い。

 人の笑いじゃない。


 椅子の声に似ている。


「……いい匂いだ」


 背教修道士の口から、別の声が出た。

 蛇が擦れる声。

 ウルボロスの匂い。


 棺の中の少年が、初めてはっきりと口を動かす。

 音は出ない。

 でも“意志”が刺さる。


 ――来る。


 俺は核を掴んだ。

 冷たい。熱い。

 地球の輪とエイルの輪が一瞬で重なる感覚。


 その瞬間、研究所の奥の筒が一斉に鳴った。

 発芽の刻印が“同時に”点灯する。


 背教修道士の身体が、ゆっくり立ち上がる。

 膝の向きが、人間の角度じゃない。


 彼の目が、俺を見る。

 そして椅子の声で言った。


「ブレード。

 核を持って来い」


 命令。

 でもここは無観測域。

 免疫が黙る場所。


 命令は、制度じゃなく“力”で来る。

 もっと直接で、もっと汚い。


 俺は核を握りしめた。

 胸の鍵が鳴る。

 嘘じゃない。

 これは戦いだ。


 棺の中の少年が、思考で最後に言った。


 ――俺を、起こすな。

 ――起きたら、お前は戻れない。


 俺は歯を食いしばる。

 戻れない?

 戻るって何だ。

 地球か。

 エイルか。

 それとも――俺自身か。


 背教修道士の影が伸びた。

 輪が、俺の足元で再び整い始める。


 制度が治りかけている。

 穴が埋まり始めている。


 時間がない。


 俺は核を抱え、裂け目の原型の輪へ踏み込んだ。

 はいを言わずに、首輪を外すために。

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