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第43話 王都地下の無観測域――免疫が黙る場所

 王都の地下へ降りる入口は、思ったより普通だった。

 石畳の裏通り。壊れた井戸。

 背教修道士が井戸の縁を軽く叩くと、底が沈む。


 ――階段が現れた。


「驚くな。王都は“穴”だらけだ」

 背教修道士は淡々と言い、先に降りていく。


 俺の足元の仮拘束の線が、ぬるりと伸びた。

 優しい紐の顔をした鎖。

 抵抗すれば、締まる。


 司祭二人が左右に付く。

 一定の距離。

 逃げさせる気がある距離。


 ――逃げた瞬間、同意が完成する。


 階段は深かった。

 湿った匂いが増え、香の匂いが濃くなる。

 教会の香。背教の香。

 そしてその下に、鉄の腐った匂い。


 胸の鍵が、冷たく鳴った。


(来る)


 だが――その直後。

 いつも耳の奥に居座る淡々とした気配が、消えた。


 免疫。

 あいつの観測が、薄くなるどころか――黙った。


 背教修道士が振り返り、薄く笑う。


「ここから先は、“無観測域”だ」


 無観測域。

 免疫の目が届かない場所。

 世界の治癒が追いつかない場所。


 言い換えれば――

 嘘が嘘のまま生き残れる場所。

 処置が、処置のまま完成する場所。


 俺は喉の奥が焼けた。

 助かるはずがない。

 でも、ここに“原型”がある。


 背教修道士が低い声で言った。


「お前は運がいい。

 免疫の目がなければ、余計な徴収もない」


 違う。

 徴収がないのは、優しさじゃない。

 “削る必要がない”ほど、こちらが弱い場所だ。


 階段を降り切ると、鉄の扉。

 古いのに鍵穴が新しい。

 地球の手続き室で見たのと同じ癖。


 扉が開く。


 中は、広い。

 礼拝堂じゃない。

 工房でもない。


 ――研究所だ。


 床に幾重もの輪。

 透明な輪、銀の輪、黒い輪。

 それらが重なり、擦れて、ところどころ欠けている。


 欠けた輪を見るだけで、胸の鍵が疼く。

 俺が一ミリ擦った“あのズレ”と同じ傷。


 背教修道士が言った。


「これが“裂け目の原型”だ」


 原型。

 俺が作ったはずのもの。

 なのに――形が違う。


 俺の裂け目は、嘘を壊すための空白だった。

 ここにある輪は、嘘を固めるための空白だ。


 空白を“器”にしている。

 誰かの魂を入れる器に。


 室内の奥で、何かが微かに蠢いた。


 透明な筒。

 液体。

 その中に、人が浮いている。


 若い。

 十代。

 髪が濡れ、目は閉じたまま。


 胸に、薄い刻印。

 舟の刻印――背教。


 背教修道士が淡々と言った。


「勇者候補の“発芽”だ」


 発芽。

 人を植物みたいに扱う言葉。


「背教は勇者候補を狩る。

 だが殺すためじゃない。

 “熟す前”に摘むためだ」


 摘む。

 持っていく。

 育て直す。


 俺は吐き気をこらえた。


 筒が一つ、二つではない。

 壁沿いに並ぶ。

 中に浮いているのは、王都の少年、少女、老人。

 身分も種族もバラバラ。


 共通点は一つ。

 胸の刻印が薄く光っている。

 勇者候補の芽。


 背教修道士が俺を見て言う。


「これが“成果”だ。

 お前が狩るべき背教は、ここを荒らした裏切り者だ」


 裏切り者。

 背教の中の背教。

 便利な悪役。


 ――罠だ。


 本当の目的は、俺に“実績”を作らせること。

 狩ったという手続き。

 同意の代わりの鎖。


 だが、それより――もっと嫌なものが目に入った。


 研究所の中央。

 一段高い台座。

 その上に、透明な棺。


 棺の周囲に輪が幾重にも重なる。

 輪の配置が、地球の手続き室の輪と同じだ。

 完全に同じ。


 胸の鍵が、今までで一番強く鳴った。


 棺の中に浮いているのは――

 十二歳くらいの少年。


 白い肌。

 黒髪。

 閉じた瞼。


 そして首元。

 銀鎖がない。


 代わりに――

 首の下に、見覚えのある古い傷。


 俺の視界が揺れた。

 足元の仮拘束の線が、急に冷たく感じる。


(……俺?)


 顔が、似ている。

 堀口健太に似ている。

 ブレードにも似ている。


 でも決定的に違う。

 表情が、俺よりずっと“静か”だ。


 背教修道士が、嬉しそうでもなく言った。


「見覚えがあるか」


 喉が焼ける。

 言葉が出そうになる。

 でもここで声を出すのは危険だ。

 無観測域は、言葉が“そのまま”鎖になる。


 背教修道士が続けた。


「これは“空白の核”。

 椅子に献上する前の、未熟な供物」


 供物。

 ウルボロスの椅子に座るための材料。


 俺の胸の奥で、アークが低く唸った。


 ――……それは、お前の“置き去り”だ。

 ――お前が捨てた肉体だ。


 頭の中で何かが裂ける。

 記憶の底に、白い部屋。

 自分の身体を横たえる感覚。

 目を閉じたままの自分。


 ……俺は、ここにいた。

 最初から。


 背教修道士が、棺に手を置いた。


「この子が目覚めれば、

 “真名”が自然に浮かぶ」


 真名。

 アーク・ファン・エイル。

 サド。


 教主が言いかけて、椅子に止められた言葉。

 それを、ここで引きずり出す気だ。


 俺は台帳を抱え直した。

 地球側の証拠。

 そして――この棺の存在。


 これが繋がれば、

 教会と背教の仕組みの骨格が見える。


 背教修道士が俺を見る。

 目が冷たい。


「さて。

 課題をやるか?」


 また来た。

 “はい”を言わせる問い。


 俺は答えない。

 沈黙は保留。

 保留は期限。


 背教修道士が小さく笑い、指を鳴らした。


 棺の輪が、淡く光る。

 中の少年が、ほんの少しだけ指を動かした。


 眠ったまま。

 でも確かに動いた。


 背教修道士が囁く。


「拒否するなら、

 この子が目覚めるだけだ」


 脅し。

 そして最悪の脅し。

 “俺自身”を人質にする。


 胸の鍵が、冷たく鳴った。

 怒りが、薄い感情の底から浮いてくる。


(……ここで折れたら、終わる)


 俺は背教修道士を見て、

 奪われた音を避けながら、ゆっくり言った。


「……見せろ」


 背教修道士が眉を上げる。


「何を」


 俺は台帳の角で床の輪を、ほんの一ミリ指した。

 輪の欠け。

 原型の傷。


「……原型の“核”」


 背教修道士の笑みが、消えた。

 その反応だけで分かる。


 核はある。

 触れられたくない核が。


 そして核の近くには、

 俺が知らない“裂け目の使い方”がある。


 免疫が黙る場所で、

 俺は初めて自由に嘘を疑える。


 背教修道士が低く言った。


「いいだろう。

 ただし――」


 彼が一歩近づいた。

 喉元へ指を伸ばす。

 銀鎖の下じゃない。

 もっと奥。


「その代わり、

 君の“真名の欠片”を一つ預かる」


 預かる。

 奪うより優しい言葉。

 でも同じだ。


 そして、その瞬間。

 棺の中の少年が、目を開けた。


 黒い瞳。

 俺と同じ瞳。


 目が合った。


 少年の口が、開いた。

 音のない口の形が作る言葉は、

 俺が一番聞きたくないやつだった。


 ――「アーク」。


 声は出ていないのに、

 胸の奥に直接響いた。

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