第41話 教主の指は優しい――だから一番折れる
「おかえり、ブレード。
“地球の味”はどうだった?」
扉の影から出てきた男は、
司祭みたいな飾りを何一つ付けていなかった。
白い服でも黒いローブでもない。
ただの深い紺の上着。
ただの革靴。
それが逆に怖い。
“制度の外側”に立つ者の服。
教主は笑っていないのに、声だけが笑っている。
優しい音。
芯のない音。
俺の首の銀鎖が、ぎち、と鳴った。
同意が反応する。
命令が通りやすい距離。
椅子――教主席の椅子が、きし、と微かに鳴った。
教主が来たことで、椅子が“譲った”のが分かる。
免疫が淡々と囁く。
「観測:主権移譲完了」
完了。
この部屋の主は、椅子ではなく教主になった。
教主は俺の手元を見た。
台帳は床の輪の外へ滑らせた。
彼の視線が一瞬だけ止まる。
「それ、地球の帳面だね」
淡々と、でも確信している声。
見えないはずの位置を、見えている。
教主は床に膝をつかない。
司祭たちは床に額をつけたまま。
上下関係がはっきりしすぎて、吐き気がする。
教主が近づく。
足音が静かで、重い。
そして俺の顎に指を当てた。
優しい。
でも皮膚の下の骨まで触るみたいな指。
「名前を言って」
来た。
名。
拒否の形を整えるための一番簡単な刃。
俺は唇を噛む。
“堀口健太”の音は欠けている。
“ブレード”は言える。
言えば鎖が締まる。
教主は囁く。
「ほら。
君のためだよ」
その“君のため”が最悪だ。
優しさの形をした命令。
免疫が淡々と言った気配。
「観測:自発誘導」
自分から言わせる。
自発に見せれば、同意の鎖が太くなる。
教主の指が、ほんの少しだけ強く顎を持ち上げた。
俺の視線が椅子へ向く。
椅子は空っぽなのに、
椅子の背に“何か”が座っているように見えた。
気配。
悪神の気配。
教主が笑う。
声だけが。
「ウルボロス様はね、
“名のすき間”が好きなんだ」
名のすき間。
奪われた音。
欠けた名。
そこに、何かを入れられる。
偽記憶。
偽誓約。
偽の罪。
俺の胸の鍵が、冷たく鳴った。
危険。
教主は指先を、俺の喉元へ滑らせた。
銀鎖の真下。
命令の結び目。
「君、よく頑張った」
褒める。
褒めて、折る。
「器の健太を落とした。
地球側の窓口も露出させた。
そして最後は――
自分から同意した」
俺の背中が冷える。
全部見られている。
手続き係の上。
椅子の上。
教主が続ける。
「君は賢い。
賢い子はね、
自分で首輪を締めるのが上手い」
吐き気がした。
笑えない。
リナとセラの顔が浮かぶ。
でも輪郭が薄い。
徴収で“別れ”が削られている。
焦りが弱い。
怒りが薄い。
それが怖い。
自分が自分じゃなくなる。
教主が言った。
「君の“戻りたい”は、今は小さい。
素敵だね。
処置がよく効いてる」
俺は歯を食いしばった。
処置。
世界の徴収と教会の処置が、同じ方向を向いている。
教主は指を離し、
床の輪の外の台帳へ目を向けた。
「それ、拾って」
司祭が動こうとする。
だが教主が手を上げて止めた。
「君が」
俺に拾わせる。
命令に従わせる。
従った瞬間、拒否の形が壊れる。
俺は動かない。
動けば負ける。
でも動かないと、何かが徴収される。
教主は静かに言った。
「動かないなら、
代わりに“誰か”が痛む」
脅し。
でも教主の脅しは、いつも具体的だ。
教主が指を鳴らす。
パチン。
空気が薄くなる。
免疫が反応する。
「観測:代替徴収」
代替。
俺が拒む分、別が削られる。
次の瞬間、俺の胸の奥が引き攣れた。
リナの顔が、さらに薄くなる。
セラの声が、遠くなる。
記憶が削られていく感覚。
繋がりが切れていく感覚。
教主が優しく言う。
「ほら。
君が頑固だと、君が損する」
損。
制度の言葉。
最悪の現実感。
俺は台帳を見る。
拾えば命令に従ったことになる。
拾わなければ、繋がりが死ぬ。
俺は選ぶ。
世界に選ばせない。
教主に選ばせない。
俺が決める。
俺はゆっくり膝をつき、
台帳の方へ手を伸ばした。
教主の気配が甘くなる。
勝ったと思っている。
――ここで、ズラす。
俺は台帳を拾うと見せかけて、
台帳の“角”で床の輪の線を擦った。
ほんの一ミリ。
輪の線を、欠けさせる。
署名代替の線と同じ。
接続点を一ミリだけズラす。
免疫が淡々と呟いた。
「観測:処置円 微損傷」
微損傷。
世界は傷を嫌う。
だから反射的に治そうとする。
治すために、輪の観測が一瞬だけ“そっち”へ向く。
その一瞬が必要だった。
俺は台帳を拾い上げ、
教主に渡さず、胸へ抱えた。
教主の目が細くなる。
初めて感情が見える。
「……渡しなさい」
命令の声。
優しさが消えた声。
俺は言った。
奪われた音を避けて、
でも意味が伝わる言葉で。
「……奉納した。椅子へ」
教主の眉が僅かに動く。
椅子。
制度の中心。
教主の座る場所。
俺は続けた。
「椅子のものは、椅子へ」
屁理屈。
でも制度は屁理屈に弱い。
制度は“手続き”で縛るから、
手続きの穴でズレる。
免疫が淡々と言った。
「観測:所有権 競合」
競合。
椅子と教主の所有がぶつかる。
ぶつかった瞬間、処置が噛み合わない。
教主の笑顔が消えた。
声が低くなる。
「……面倒な子だ」
司祭が震え、手帳を抱える。
輪が乱れている。
処置の文字が滲む。
教主は俺の喉元へ指を当て、
今度は優しくない触れ方で言った。
「じゃあ、“君の原型”を見せてあげる」
原型。
ブレードでも堀口健太でもない。
アーク。
サド。
元の名。
俺の胸の奥でアークが低く唸る。
――来る。
――真名を引きずり出される。
教主が囁いた。
「君の本当の名前は――」
その瞬間、
椅子が、きし、と大きく鳴った。
椅子が割り込んだ。
空っぽなのに。
椅子の背から、別の声。
冷たい声。
蛇が擦れるような声。
「……やめろ」
教主が一拍止まる。
司祭が一斉に震える。
免疫が淡々と告げた。
「観測:上位介入」
上位。
悪神ウルボロスの介入。
椅子の声が言った。
「真名は、最後の味だ。
今、噛むな」
教主が歯を食いしばる。
従っている。
教主ですら、椅子に逆らえない。
つまり――
教主は中間ボス。
椅子が本体の窓。
そしてその向こうに、ウルボロス。
椅子の声が続ける。
「ブレード。
君は面白い。
だから“課題”をやるといい」
課題。
制度の言葉。
また地球の匂い。
椅子が言う。
「背教を一つ潰せ。
教主の犬を一匹殺せ」
背教。
追従者。
教主の中ボスの配下。
椅子が囁いた。
「できたら、
君の“奪われた音”を一つ返してやる」
返す。
徴収の逆。
報酬。
俺は喉が焼けるのを感じた。
“健太”の音。
それを返すと言った。
教主が静かに笑う。
声だけ。
「ほら。
君は選ぶ」
選ぶ。
選ばせる。
それ自体が鎖。
でも――今は。
今は、生き残るために。
情報を持って戻るために。
俺は台帳を抱え、
椅子と教主を睨んだ。
心の中で杭を打つ。
音が欠けても、意志は残る。
(八年で終わらせる)
免疫が淡々と呟いた。
「観測:課題受諾 未確定」
未確定。
まだ答えていない。
答えた瞬間、同意が太くなる。
教主が最後に優しく言った。
「返事は今じゃなくていい。
でもね、ブレード。
君は必ず“はい”と言う」
その確信が、背筋を凍らせた。




