第40話 受領:教主席――椅子は“人”より偉い
落ちた。
裂け目の向こう側は、土と香と鉄の匂い。
エイル。
俺が逃げたはずの世界。
俺が帰るはずだった世界。
なのに――空が低い。
息が重い。
まるで世界そのものが、俺を嫌っている。
足元は石。
薄暗い回廊。
壁には聖句。
そして同じ形の円。
地球の“手続き室”で見た透明な輪と、
礼拝堂で見た処置の円が、
同じ癖で描かれている。
同じ手だ。
片方だけじゃ扉は開かない。
手続き係の言葉が、喉の奥で冷たく残る。
俺の首の銀鎖が、ぎち、と鳴った。
自分で口にした“同意”。
それがまだ生きている。
視界の端で影が遅れて揺れ、
免疫が淡々と囁いた。
「観測:回収完了」
完了。
俺は“回収された”。
捕まったのと同じだ。
――いや、違う。
捕まったより、悪い。
捕まったなら抵抗できる。
でも俺は“同意”している。
首輪を自分で締めた。
回廊の先で扉が開いた。
白いローブの司祭が二人。
顔が見えない。
影が顔を隠している。
司祭が静かに言った。
「第三候補ブレード・ファン・エイル。
受領先へ案内する」
ブレード。
その名が鳴るたび、銀鎖が熱を持つ。
命令が通る。
反論が弱くなる。
俺は唇を噛み、心の中で杭を打とうとした。
(堀口……)
音が欠ける。
地球で奪われた音が、まだ戻っていない。
戻っていないのに、ここでは通用しない。
胸が冷える。
セラ。
リナ。
二人の顔を思い浮かべようとして、
輪郭が薄い。
大事なはずなのに、胸が反応しない。
――徴収:別れ。
世界は、繋がりを削った。
戻りたい気持ちを削った。
俺が折れやすくなるように。
怖い。
血や痛みより、ずっと怖い。
司祭が淡々と付け足した。
「同意済み。
処置は軽微で済む」
軽微。
その言葉の軽さが、吐き気を呼ぶ。
扉の先は、広い部屋だった。
礼拝堂じゃない。
処置室でもない。
中央に――椅子がある。
黒い椅子。
背が高く、肘掛けが太い。
椅子の脚は床に刺さっているみたいに動かない。
椅子の周囲に、透明な輪が幾重にも描かれている。
地球の輪と、エイルの輪が重なっている。
この椅子が“接続点”。
この椅子が“窓口”。
司祭が一斉に膝をついた。
「教主席。
受領を報告します」
椅子は空っぽだ。
なのに空気が沈む。
誰かが座っているみたいに。
椅子の背から、声がした。
「……いい子だ」
声は男とも女とも言えない。
優しい音で、芯がない。
芯がないのに、逆らえない。
俺の銀鎖が、勝手に鳴った。
椅子が“命令”している。
人じゃない。
椅子が上位。
教主席の声が続く。
「地球側の手続きは、よく働く。
同意も取れた。
これで“予定”は綺麗になる」
綺麗。
削って整える時の言葉。
俺は歯を食いしばる。
台帳。
セラが投げてくれた証拠。
あれがある限り、俺はただの獲物じゃない。
俺は台帳を抱え直した。
瞬間――椅子の声が、ほんの少しだけ硬くなる。
「それは?」
司祭が青ざめ、俺の腕へ手を伸ばす。
奪う気だ。
俺は一歩引いた。
同意で縛られているのに、身体は動いた。
ブレードの肉体が生きている。
椅子が、優しく言った。
「渡しなさい。
渡せば、君は“楽”になる」
楽。
またその言葉。
楽になるのは俺じゃない。
楽になるのは、教主側の処置だ。
俺は台帳を胸に当て、声を出さずに唇だけ動かした。
「……いやだ」
司祭が目を見開く。
椅子の声が、少し笑う。
「拒否できるのか。
鍵を取り返したね」
鍵。
死の核。
空白の主導権。
教主席は、俺の胸の位置を見ている。
見えている。
触れていないのに、鍵の在処を嗅いでいる。
――気持ち悪い。
椅子が言った。
「ブレード。
君は“同意”した。
だから君の拒否は、拒否にならない」
意味が分からないはずなのに、分かる。
制度の言葉。
同意した時点で、拒否の権利が細くなる。
椅子が続ける。
「拒否したいなら、取消を申請しなさい」
取消。
申請。
地球と同じ言い方。
制度が同じ匂いをしている。
申請すれば、その瞬間に“同意の再確認”が発生する。
つまり罠。
俺は台帳の角を握り、意志を固める。
(申請しない)
(椅子に言葉を渡さない)
免疫が淡々と囁いた。
「観測:拒否形態確定」
確定。
世界が俺の拒否の形を固定した。
固定されると、逆に利用される。
椅子が、まるで褒めるように言った。
「よい。
では“処置”で君の拒否を整えよう」
整える。
やっぱり処置だ。
司祭が黒い手帳を開いた。
礼拝堂で見たやつと同じ。
ページが勝手にめくれる。
『処置:受領者固定』
固定。
俺を“教主席の所有物”にする。
その瞬間、俺の物語は終わる。
俺は息を吸い、
奪われた音を避けながら、
ひとつだけ言える言葉を選んだ。
「……奉納する」
司祭たちが固まる。
椅子の空気が、一拍止まる。
「誰へ?」
教主席の声が、低くなる。
俺は答えた。
「……椅子へ」
その瞬間、部屋の温度が落ちた。
司祭の顔色が青くなる。
奉納は、世界へ投げる技。
でも俺は今、“椅子”へ投げた。
椅子が制度の中心なら、
椅子へ奉納すれば、制度が一瞬だけズレる。
免疫が淡々と呟いた。
「観測:制度干渉」
椅子の輪が、僅かに乱れる。
手帳の文字が、滲む。
『受領者固定』が、
一瞬だけ『受領者……未定』に変わった。
未定。
予定が割れる瞬間。
椅子の声が、初めて“苛立ち”を含む。
「……生意気」
司祭が動揺したまま、手帳を押さえ込む。
だが椅子の輪が乱れているせいで、処置が噛み合わない。
その隙に、俺は台帳を床へ滑らせた。
輪の外。
司祭が拾えない位置。
椅子が笑わずに言った。
「証拠など、いくらでも書き換えられる」
その言葉が、背筋を凍らせた。
台帳は証拠じゃない。
証拠を“証拠にする観測”が必要だ。
椅子が続ける。
「だが君は面白い。
鍵を持ち、同意を持ち、拒否を持つ」
椅子の背が、ゆっくりときしんだ。
誰も座っていないのに。
“何か”が座り直したみたいに。
そして声が、囁く。
「ウルボロス様は、君を好む」
悪神の名。
この部屋で初めて、正式に出た。
司祭たちが一斉に額を床へつける。
信仰が、部屋の空気を濃くする。
椅子が言う。
「次の処置は、教主が直々に行う」
直々。
つまり――中間ボスの登場。
ここから先は、逃げ道が細い。
扉が、勝手に開いた。
廊下の奥から足音。
ひとつ。
ゆっくり。
でも重い。
そして、甘い香の中に、
腐った鉄の匂いが混じった。
教主が来る。
俺の胸の奥でアークが低く言う。
――思い出せ。
――お前は元々、この椅子の外側に立っていた。
思い出せ。
でも徴収で、感情が薄い。
薄いのに、怒りだけは残る。
教主の足音が止まり、
扉の影に、人の輪郭が立った。
その瞬間、免疫が淡々と告げた。
「観測:主権移譲」
主権。
世界の手綱が、椅子から“教主”へ渡る。
最悪だ。
教主の声が、静かに笑った。
「おかえり、ブレード。
“地球の味”はどうだった?」




