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第38話 同意の罠――「はい」は首輪になる

旧連絡路の倉庫は、息が腐る匂いがした。

 蛍光灯がちらつき、影が一拍遅れて揺れる。


 鉄扉の向こうから、足音が止まった。

 静かな規律。

 人数は多い。


 セラが息を殺し、指で床に書く。


『喋るな。特に「はい」』


 リナは無言で頷く。

 堀口健太は唾を飲み込む。


「……なんで“はい”が――」

 言いかけた堀口健太の口を、セラが手で塞いだ。


 俺の胸の鍵が、冷たく鳴った。

 手続き係は“同意”を取る。

 同意は、名簿と同じ。

 言葉一つで、首が締まる。


 鉄扉が開いた。


 手続き係の男が入ってくる。

 スーツ。

 イヤホン。

 笑っていない目。


 その後ろに、二人。

 制服じゃない。

 警備会社みたいな黒服。


 手続き係は俺たちを見ると、淡々と言った。


「確認する。

 聞こえるか」


 罠だ。

 “聞こえるか”に「はい」と答えさせる。

 その瞬間、同意が成立する。


 堀口健太の喉が鳴る。

 人は反射で返事をする。

 返事をすると、終わる。


 俺は堀口健太の前に一歩出て、首を横に振った。

 声は出さない。

 ただ、目で“返すな”を刺す。


 手続き係は首を傾げた。


「なるほど。

 教育済みか」


 男はポケットから薄い紙を出した。

 同意書。

 いや、紙に見えるだけの“手続き媒体”。


「署名でいい」


 セラが低く言った。

「署名? 誰の」


 手続き係は淡々と答える。

「堀口健太」


 堀口健太の肩が跳ねた。

「俺、署名とか無理……」


 セラが即座に口を押さえた。

 喋るな。

 返事をするな。


 手続き係は笑わず言う。


「安心しろ。

 文字は要らない。

 “名”を置けばいい」


 名を置く。

 つまり、言わせる。

 書かせる。

 血でも、指紋でも、息でも。


 男は堀口健太へ一歩近づいた。

 その瞬間、空気が薄くなる。


 免疫。

 観測が濃い。

 世界はこの“同意”を望んでいる。


 免疫の声が、淡々と落ちた。


「観測:同意手続き開始」


 セラが歯を食いしばり、俺の袖を掴む。

(今、逃げる)という合図。


 でも逃げ道は、扉の外。

 黒服が塞いでいる。


 手続き係が堀口健太の前でしゃがみ、

 優しい声を作った。


「怖いか?」


 また罠。

 人は“怖い”と聞かれると、

 つい「はい」と言う。


 堀口健太の唇が震える。

 返事をしそうになる。


 リナが無言で前へ出た。

 声は出ない。

 でも手が早い。


 彼女は指で空に文字を書いた。


『いいえ』


 声の代わりに、目で否定を叩きつける。


 手続き係は、初めて眉を動かした。

「声がない……徴収済みか」


 男の視線がリナの胸へ落ちる。

 烙印の熱を嗅いだ目。


「異端も混ざっている。

 なおさら都合がいい」


 都合。

 すべてが都合。


 セラが俺の胸の鍵を指差し、囁く。

「台帳」


 俺は予定の台帳を掲げた。

 手続き係の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。


「返せ」


 俺は声を出さず、唇だけ動かした。

「……いやだ」


 奪われた音を避ける。

 それでも意志は届く。


 手続き係は淡々と言った。


「それは証拠にならない。

 この世界の法は、手続き側にある」


 法。

 制度。

 だから怖い。


 セラが低く言う。

「なら、別の世界の法は?」


 手続き係が一拍止まった。

 セラの言葉の意味が分かってしまった顔。


 セラは続ける。


「あなた、地球だけの係じゃない。

 “窓口”よね」


 男の目が細くなる。


「余計な詮索は――」


 セラが台帳のページを指で叩いた。

 移送先:エイル/受領:教主席。


「教主と繋がってる。

 その証拠を持ってる私たちを、

 ここで消す?」


 手続き係は笑わない。

 でも答えもすぐ出ない。

 消せばいい。

 ただし、消した瞬間に“矛盾”が増える。


 免疫が薄く揺れる。

 世界は矛盾を嫌う。

 だから手続き係も、雑に殺せない。


 セラが畳み掛けた。


「同意は“自己同意”が条件。

 事故で潰すなら同意が取れない。

 あなたは同意が要る」


 手続き係が、静かに息を吐いた。


「……分かっている」


 男は黒服へ指示した。

「扉を閉めろ」


 鍵がかかる音。

 逃げ道が消える。


 手続き係は俺を見る。


「ブレード。

 君が同意すれば、堀口健太は生きられる」


 最悪の提案。

 甘い毒。

 俺に“自己同意”させる。


 堀口健太が目を見開く。

「え、俺の代わりに?」


 セラが即座に首を振る。

 違う。

 それは鎖を完成させる。


 手続き係が淡々と言う。


「君は外来。削除候補。

 だが同意すれば“合法的に移送”できる」


 合法。

 制度の言葉。

 それが一番怖い。


 リナが無言で俺の腕を掴む。

 強く。

 “同意するな”という痛み。


 俺は胸の鍵を握り、考える。

 同意が必要なら、

 同意の“形”を奪えばいい。


 奪う。

 いつも通り。


 俺は台帳を開き、余白の小さな追記を指で示した。


 『移送条件:自己同意』


 手続き係は薄く笑った。

「読めなくても分かるのか」


 俺は唇だけ動かす。

「……わかる」


 手続き係が一歩近づく。

 俺の胸の鍵へ手を伸ばす。


「鍵を渡せ。

 渡せば、同意は“軽く”なる」


 軽くなる。

 軽い同意なんてない。

 どれも首輪だ。


 その瞬間、蛍光灯がバチンと鳴って落ちた。

 暗闇。


 セラが仕込んだ。

 背中の地図の線を、電源盤の位置に繋げていた。


 暗闇の中で、リナが黒服の膝を蹴る。

 音はない。

 でも重い衝撃音が響いた。


 堀口健太が息を呑む。

 声を出しかける。

 俺は肩を掴み、首を振る。


 手続き係が暗闇で言った。


「無駄だ。

 この倉庫は“手続き室”だ」


 手続き室。

 ここ自体が装置。


 床が、冷たく光った。

 薄い輪。

 銀の輪ではない。

 透明な輪。


 免疫が淡々と告げる。


「観測:署名代替準備」


 署名代替。

 紙に書かなくても、

 床が“同意”を吸い上げる。


 息を吐くだけで、

 涙を落とすだけで、

 同意として処理される。


 やばい。

 ここにいるだけで終わる。


 セラが暗闇の中で俺の手を掴み、

 床に指で素早く書いた。


『裂け目。今。小さく。』


 小さく。

 免疫に怒られないサイズ。

 でも三人+一人(堀口健太)を通すには――足りない。


 手続き係が笑わず言った。


「君たちが迷うのを待っている」


 迷った瞬間、

 同意が生まれる。


 俺は決めた。

 迷いを捨てる。

 世界に選ばせない。

 手続きにも選ばせない。


 俺が選ぶ。


 俺は堀口健太を見た。

 目で言う。


(生きろ)


 そしてセラとリナを見る。

 目で言う。


(俺がやる)


 胸の鍵が冷たく鳴った。

 暗闇の中で、俺の指が床へ触れる。


(裂けろ)


 髪の毛一本の線が、足元に走った。

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