第36話 第二の刃――「手続き」は人混みで一番よく刺さる
器の健太を裂け目に落とした。
空気が戻った。
でも“戻った”だけだ。
終わったわけじゃない。
手続き係の男は、濡れた路面に落ちた刃を拾わない。
拾う必要がないからだ。
刃は道具で、彼の本体は“予定”の方にある。
「いい判断だ」
男は淡々と笑った。
「矛盾を減らした。世界が喜ぶ」
堀口健太が青い顔で後ずさる。
俺と目が合う。
同じ目。
同じ癖。
なのに、別人。
セラが堀口健太の肩を掴んで引いた。
「走る。今すぐ」
リナは声が出ないまま、血の滲む手を握り締める。
刃を掴んだせいで、掌が裂けていた。
でも視線は折れていない。
俺は手続き係の男を睨み、口の中だけで誓う。
(今日の俺は殺させない)
男が指を鳴らした。
パチン。
街の音が、一拍だけ“薄く”なる。
人の歩きが遅れる。
雨粒が落ちる速度が変わる。
免疫が、淡々と告げた。
「観測:再固定」
再固定。
世界が、予定を元に戻そうとする。
人混みで一番効くやり方だ。
流れを作れば、個人は逆らえない。
手続き係が言う。
「事故でいい。押し潰せば、手続きは完了する」
事故。
通り魔より便利。
世界にとって“自然”だから。
セラが俺の袖を引っ張った。
「健太、見て!」
交差点。
信号が青に変わった瞬間、群衆が一斉に動く。
その動きが、堀口健太だけを“中心”に飲み込もうとしている。
世界の手。
優しく押して、確実に殺す。
俺は歯を食いしばり、胸の鍵を握る。
鍵は嘘を壊せる。
でも“人の流れ”は嘘じゃない。
事実として圧し潰す。
だから――ズラす。
人の流れの中心をズラす。
俺は堀口健太の腕を掴んだ。
強引に、路地へ引きずり込む。
堀口健太が叫ぶ。
「え、ちょ、なに――」
彼の声が出るのが、逆に痛い。
俺は“健太”の音を言えない。
同じ名を、呼べない。
手続き係が追ってくる。
歩いているのに、距離が縮む。
予定が彼を運んでいる。
「抵抗は無駄だ」
「予定は“優先される”」
セラが舌打ちし、ポケットからスマホを取り出した。
画面を叩き、何かの番号へ発信する。
「……繋がれ。お願いだから」
コール音。
出ない。
切れる。
セラが歯を食いしばる。
「くそ……」
リナが無言で前に出て、空に指で書いた。
『上』
視線の先。
ビルの上階の監視カメラが、同時にこちらを向いている。
偶然じゃない。
予定の目だ。
手続き係が静かに言った。
「映像は残る。残れば、言い訳が作れる」
言い訳。
事故。
正当化。
手続きの完成形。
俺は決めた。
こいつの“言い訳の材料”を奪う。
俺は手続き係へ踏み込み、胸元のスーツを掴んだ。
ポケットの中で、硬いものが触れる。
手帳。
黒い、薄い手帳。
――予定の台帳。
俺は引き抜いた。
同時に、手続き係の目が冷たくなる。
「それは返せ」
返すわけがない。
俺はページを開く。
文字が見える。意味は分かる。
でも読みが――音が――抜けている。
それでも数字だけは分かる。
時刻。場所。
『19:14 駅前 第一次発生』
『19:18 交差点 押圧』
『19:21 移送準備』
そして一行、息が止まる文字。
『移送先:エイル/受領:教主席』
エイル。
この世界じゃない。
俺の世界。
セラが顔を強張らせた。
「……地球側の窓口が、教主と繋がってる」
手続き係が小さく笑った。
「当然だ。片側だけで扉は開かない」
扉。
裂け目。
重要なもの。
手続き係は俺の首元を見た。
銀鎖に視線が刺さる。
「君が裂け目を作れるなら、話は早い」
次の瞬間、手続き係の手が俺の胸へ伸びた。
鍵を狙う。
死の欠片を狙う。
リナが無言で飛び込み、手続き係の手首を叩いた。
血のついた掌で。
痛みのはずなのに、躊躇がない。
手続き係が一拍だけ止まる。
その一拍で、セラが堀口健太の背中を押した。
「走れ!」
堀口健太が走り出す。
俺たちも追う。
背後で、免疫が淡々と呟く。
「観測:予定遅延」
遅延。
予定がズレた。
その反動が来る。
世界は必ず帳尻を取る。
路地を抜け、裏道へ。
セラが角を曲がりながら、またスマホを叩く。
今度は繋がった。
「……出た!」
セラが早口で言う。
「“借り”を返す。今、避難先を――」
通話の向こうの声は低い男声。
短く答えた。
『地下へ。駅の旧連絡路。
入口はコンビニ裏だ』
セラの顔が引き締まる。
「……了解」
堀口健太が息を切らして言う。
「な、なにこれ、ドラマ?」
俺は言えない。
健太、と呼べない。
だから胸を叩き、目で伝える。
(黙れ。生きろ)
堀口健太は意味が分からず、でも頷いた。
人は分からないとき、強い目を見ると従う。
その瞬間、背後で静かな声。
「見つけた」
手続き係。
もう追いついている。
早すぎる。
予定が足を持っている。
免疫が淡々と告げた。
「治癒:再統合準備」
再統合。
また来る。
世界は諦めない。
セラが囁いた。
「地下へ。今なら一瞬だけ、目が届かない」
俺は予定の台帳を握り締めた。
これが、地球側の“手続き”の証拠だ。
そして――次の刃の場所も書いてある。
俺たちはコンビニ裏へ滑り込み、
鉄の扉を開け、暗い階段を駆け下りた。
背後で、手続き係が一言だけ言った。
「逃げても同じだ。
“堀口健太”は、必ず移送される」
俺は胸の鍵を握り、心で杭を打った。
(俺はまだ死んでない)




