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第34話 俺はまだ死んでない――“堀口健太”が目の前を歩く

逃げた。

 路地を抜け、人混みに紛れる。


 セラが先導し、リナが無言で周囲を警戒する。

 リナは声がない分、目が鋭い。

 視線が刃みたいに人の動きを切る。


 俺は人の波に押されながら、息を整えた。

 看板の漢字は読める。

 でも読み方は分からない。

 駅名すら音にできない。


 世界が、俺の“帰り道”を削っている。


 セラが小声で言う。


「まず、監視を切る。

 それから事件現場へ行く」


 事件現場。

 思い出したくない場所。

 でも行かなきゃ終わる。


 俺たちは駅前の繁華街を避け、裏通りへ入った。

 雨は弱まり、路面が光る。


 その角を曲がった瞬間――

 胸の鍵が、鳴った。


 カン、と。

 脳の奥で金属音。


 視線の先に、

 一人の男がいた。


 傘。

 黒髪。

 少し猫背。

 スマホを片手に、歩く癖。


 俺の足が止まる。


 ――俺だ。


 堀口健太。

 地球で生きていた俺。

 まだ死んでいない俺。


 呼吸が乱れる。

 喉が焼ける。

 銀鎖が熱を持つ。


 リナが俺の腕を掴んだ。

 無言で、強く。

 “飛び出すな”と言っている。


 セラが俺の視線を追い、顔色を変えた。


「……本人」


 堀口健太が電話で笑っている。

 内容は聞こえない。

 雨音が邪魔をする。


 でも、あの笑い方。

 俺は知っている。

 死ぬ前の俺は、まだ自分が手続きだと知らない。


 その時、背後の空気が薄くなった。


 免疫。

 見えないのに、分かる。

 “予定”が近づく時の温度。


 免疫が淡々と言った。


「予定:発生」


 発生。

 事件が始まる。


 セラが歯を食いしばる。


「健太。

 止めるなら、方法は二つ」


 指を二本立てる。


「一つ。

 “予定の刃”を先に折る」


 つまり犯人を潰す。


「二つ。

 “堀口健太”を別の場所へズラす」


 予定そのものを外す。


 リナが空に指で書いた。


『どっち?』


 俺は答えられない。

 どっちも地獄だ。


 刃を折れば、世界が矛盾として潰す。

 ズラせば、別の代償が必要になる。

 俺たちの何かがまた削られる。


 その時、

 堀口健太の背後に、

 黒い影が一瞬だけ伸びた。


 人混みの中で見えたのは、

 “普通の男”の背中。

 フード。

 手をポケットに入れている。


 刃物の気配。


 俺の脳が叫んだ。

 あれが“通り魔”。

 でも通り魔は便利すぎる。

 手続き係が言っていた。


 「予定通り」


 つまりあれは、予定の刃。

 偶然じゃない。


 セラが低い声で言う。


「……来る」


 リナが剣に手を伸ばしかける。

 でもここは地球。

 剣はない。

 彼女は素手で飛び出そうとする。


 俺は彼女の手首を掴んだ。

 無言で首を振る。

 飛び出したら、目立つ。

 異物として潰される。


 堀口健太が角を曲がる。

 予定の刃が、同じ角へ入る。


 俺は決めた。

 刃を折る。

 ここで折らないと、ズラしは無限に削られる。


 俺はセラを見た。

 セラは一瞬で理解して頷く。


 セラがリナの肩を叩き、空に指で書く。


『あなたは後ろ。声なしで目立つ』


 リナが悔しそうに頷く。


 俺とセラが角へ走る。

 雨で滑る路面。

 心臓が跳ねる。


 角を曲がった瞬間、

 見えた。


 堀口健太の背中。

 そして――ポケットから刃を抜く男。


 時間が伸びた。

 音が遠くなる。

 免疫の観測が、今だけ濃い。


 世界が見ている。

 止めるなら、代償を払えと言っている。


 でも俺は、奉納しない。

 もう捨てたくない。

 だから――奪う。


 俺は木剣もない手で、男の手首を掴んだ。

 刃が止まる。


 男が驚いた顔で俺を見る。

 その目が、妙に落ち着いていた。


「……やっぱり来たか」


 来たか。

 俺を待っていた。


 男の袖口の内側に、薄い刻印。

 銀の輪でも舟でもない。

 “手続き係”の印。


 男が囁いた。


「堀口健太は移送対象。

 邪魔するなら――お前も対象だ」


 その瞬間、俺の銀鎖が熱を持つ。

 喉が焼け、奪われた音が痛む。


 堀口健太が振り返った。

 俺を見て、目を見開く。


「……え?」


 俺は言いたかった。

 逃げろ、と。

 俺はお前だ、と。


 でも“健太”の音が出ない。

 名を呼べない。


 だから、俺は指で胸を叩き、

 目だけで伝える。


(逃げろ)


 堀口健太が困惑した顔をする。

 その背後で、別の影が伸びた。


 黒い傘。

 器の健太。


 いつの間に。

 雨の中に溶け込むように、立っていた。


 器の健太が微笑んだ。


「やっと“三人”そろったね」


 三人。

 俺。

 堀口健太。

 器の健太。


 最悪の並び。


 免疫が淡々と言った。


「観測:自己矛盾最大」


 自己矛盾。

 世界が一番嫌う傷。

 同じ名が同じ場所にある。


 つまり――

 ここで世界が“治す”。


 治すとは、削る。

 消す。

 分ける。

 あるいは、殺す。


 器の健太が、傘を少し持ち上げた。

 その下の影が歪む。


「じゃあ、どっちが残る?」


 俺は歯を食いしばった。

 答えは一つ。


 “堀口健太”は死なせない。

 俺は、まだ死んでない。

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