第33話 地球の匂い――裂け目は“帰還”じゃなく“回収”
落ちた。
光の線を抜けた瞬間、耳が痛くなる。
次に来たのは――雨の匂いだった。
アスファルト。排気。濡れたコンクリ。
俺は路地の地面に転がり、息を吐いた。
喉が焼ける。銀鎖が冷たい。
セラが背中を打ち、呻いた。
「……ここ、どこ……」
リナは無言で膝をつき、周囲を見回す。
声が出ないまま。
胸の烙印は薄く脈打つ。
路地の向こうに、看板。
ひらがな。カタカナ。漢字。
――日本語。
視界が揺れた。
戻った。
俺が死んだ場所の言葉。
セラが看板を指して、信じられない顔をする。
「……文字、読めるの?」
俺は頷こうとして、止まった。
“読める”のに、音が出ない。
いや、違う。
頭の中で“漢字の読み”だけが抜け落ちている。
見える。意味は分かる。
でも読み方が、すっぽり空白。
また徴収だ。
免疫の声が、雨に混じって響く。
「徴収:読み」
読み。
言葉の音を奪った次は、文字の音。
名前を口にできないように。
名を固定する抵抗を潰すために。
セラが歯を食いしばる。
「……最悪。
地球に来たのに、地球の言葉を削る」
俺は看板の下を睨んだ。
コンビニ。
自動販売機。
道路の白線。
遠くの救急車の音。
現代の日本。
俺の世界。
でも、空気が“薄い”。
この世界にも、観測がある。
路地の端で、影が遅れて揺れた。
免疫。
形が薄いまま、淡々と告げる。
「治癒:分離失敗」
分離失敗。
俺たち三人は離れなかった。
セラが掴んだ手が、世界の意図をねじ曲げた。
だから――次は強い徴収が来る。
そういう匂いがする。
セラが俺の袖を掴んで囁く。
「今は目立たない。
人間社会は“異物”に敏感」
異物。
ここでも同じ。
違う世界でも、同じ。
リナが胸の前で指を動かした。
手話でもない。
“文字”だ。指で空に書く。
『どこ?』
セラが短く返す。
「日本。"地球"」
リナの目が揺れる。
声がないのに、息が震える。
俺は路地の出口へ近づき、通りを覗いた。
駅前。
人の流れ。
傘。
ネオン。
――懐かしい。
そして、怖い。
その瞬間、頭の奥で“鍵”が鳴った。
死の欠片が反応する。
この匂い、この湿気、この雑踏。
俺はここで――。
視界の端、掲示板に貼られたポスターが見えた。
事件注意。
刃物。
無差別。
読めるのに、読めない。
音が抜けてる。
セラが覗き込み、顔色を変えた。
「……これ」
セラは指で日付だけを示した。
数字は読める。
西暦。月。日。
その数字を見た瞬間、
背中が氷みたいに冷えた。
俺が死んだ日付と――同じだ。
偶然?
裂け目が、俺を“その日”へ落とした。
回収路の先は、回収先。
セラが低い声で言う。
「……健太。
これ、帰還じゃない。
“回収の現場”だ」
リナが空に指で書く。
『あなたの死』
俺は頷く。
頷いた瞬間、胸の鍵が痛んだ。
そして、背後で乾いた拍手が聞こえた。
パン。
パン。
雨音の中でも、はっきり聞こえる。
胸が凍る。
振り返ると、路地の入口に黒い傘。
器の健太――ではない。
もっと“普通”の男。
スーツ。
イヤホン。
笑っていない目。
男が淡々と言った。
「堀口健太。
確認できた」
名前。
呼んだ。
俺の銀鎖がぎち、と鳴った。
熱が走る。
男は続ける。
「事件は今日。
予定通りに」
予定。
教主と同じ言葉。
セラが歯を食いしばる。
「……地球にも教会がいる」
男は小さく笑った。
「教会?
違う。
“手続き係”だ」
手続き。
移送。
俺の死は、手続きだった。
男が指を鳴らす。
路地の奥の影が揺れ、薄い輪が浮かび上がる。
免疫が淡々と呟いた。
「観測:予定介入」
世界が、予定に介入する。
俺が止めようとすれば、矛盾として潰す。
それでも。
それでも止めなきゃいけない。
俺の“死”を。
俺の“始まり”を。




