第30話 例外の反動――免疫が怒り、死の記憶が刃になる
夜明け前。
森の空は薄い灰色に溶け、鳥もまだ鳴かない。
セラが握る骨の護符は、温かくも冷たくもない。
ただ、嫌な“滑り”だけがある。
掴んだ指が、少しずつずれていく感覚。
「……一回だけ、回収が外れる」
セラが小さく言った。
リナは頷いたが、顔色は悪い。
烙印は薄い。
薄い代わりに――位置が変わっている。
首から喉へ。
喉から胸へ。
今は胸の奥で、熱が脈打つ。
吐かせたいのは名じゃない。
誓約。
裏切りの言葉。
あるいは――本心。
セラが言った。
「烙印は“あなたの言葉”を食べ始めてる」
リナが震える声で笑った。
「……教会、優しい言葉ばっかりだったのにね」
優しい言葉ほど、首を締める。
俺は喉の奥で乾いた唾を飲んだ。
護符の“例外”がある間に、匂いを切る。
そのために、俺たちは谷へ下りていた。
水の匂い。
湿った岩。
流れの音。
匂いは水で散る。
追跡は鈍る。
――そのはずだった。
谷に入った瞬間、森の影が遅れて揺れた。
いつもより遅い。
遅いのに、重い。
免疫が怒っている。
例外を嫌っている。
セラが息を呑む。
「……来る。
“治す”じゃなくて、“罰する”」
罰する。
免疫が怒れば、自然災害みたいに襲う。
崖が崩れ、木が倒れ、川が逆流する。
その時――
谷の上、岩の縁に黒い傘が見えた。
器の健太。
俺の声に似た声が、朝靄の中で響く。
「いい場所だね。
思い出しやすい」
思い出しやすい。
何を。
俺の胸が冷えた。
死の記憶。
捨てた空白。
器の健太が傘を閉じ、ゆっくり降りてくる。
足音がない。
影が先に動く。
「君の“死”、返してあげる」
返す。
あいつの言う“返す”は、奪うための言葉。
空白に刃を差し込むための言葉。
リナが剣を構える。
だが烙印が胸で燃え、呼吸が乱れる。
「……っ、息が……!」
セラが護符を強く握った。
その瞬間、空気が滑った。
まるで世界の手が、俺たちを掴み損ねるみたいに。
遠くで、教会の鐘が鳴った。
カン。
いつもなら首が締まる音。
でも今回は――鳴ったのに、締まらない。
護符の効果。
回収の鎖が滑った。
セラが歯を食いしばる。
「一回、外れた……!」
その瞬間、影が激しく揺れた。
免疫が、谷の上に“形”を取った。
顔の薄い人影。
いつもより濃い。
怒りで濃い。
免疫が淡々と言った。
「例外、拒否」
拒否。
例外は世界の傷。
世界は傷を治す。
治すとは、潰すこと。
次の瞬間、谷の岩肌がミシミシと鳴った。
上から、小石が落ちる。
崖が、崩れ始めた。
リナが叫ぶ。
「落石!」
セラが俺の腕を引く。
「走る!
免疫が“地形”で殺す!」
器の健太は動かない。
崩れる岩の中でも、傘を持つ手だけが静かだ。
彼は俺を見て言った。
「君だけなら、助かるよ」
吐き気がした。
選別。
救いのふりをした切り分け。
器の健太が、指を一本立てる。
「死の映像、起動」
その瞬間、俺の頭の奥の空白が裂けた。
駅前。
人の声。
金属の光。
熱。
胸に何かが入る感触。
息が漏れる音。
俺の視界が傾く。
――刺された。
思い出したいはずの始まり。
でもそれは、俺のものじゃない。
器の健太が“編集した死”だ。
映像の中で、犯人の顔が見えた。
白いローブ。
銀の輪。
……教会?
違う。
そんなはずない。
でも映像がそう言う。
俺の心が揺れた瞬間、
胸の奥でアークが怒鳴った。
――嘘だ!
声が強すぎて、
喉から漏れた。
「……嘘だ」
器の健太の目が細くなる。
「へえ。
否定できるんだ」
免疫が淡々と言った。
「観測:真名漏れ」
真名漏れ。
まずい。
アークの声が外へ漏れた。
教会も背教も、これを嗅ぐ。
セラが叫ぶ。
「健太!
空白に入れるな!
奪い返す!」
奪う。
今だ。
死の記憶を“鍵”として器に持たれている限り、
俺の空白は刃になる。
俺は息を吸い、喉の焼けを無視した。
そして、言葉を“刃”として使う。
「……返せ」
器の健太が笑った。
「何を?」
俺は言い切った。
「……俺の“死”」
言った瞬間、銀鎖がぎち、と鳴った。
危険な言葉。
捨てたものを要求するのは、世界のルールに反する。
免疫が一歩近づく。
影が重い。
「矛盾、拡大」
でも、矛盾でいい。
矛盾のまま進むと決めた。
器の健太が傘を投げ捨てた。
初めて感情が見える。
「君は捨てたんだよ。
捨てたものは、拾った人のもの」
正論みたいで、吐き気がする。
でも世界はそれを許す。
拾った者が勝つ。
だから――奪う。
俺は木剣を構えた。
斬るのは喉じゃない。
結び目。
首の銀鎖の結び目。
アークが低く言う。
――今、俺の名を借りろ。
――一度だけ。
名。
アークの真名。
漏れたら終わるかもしれない。
でも今、終わるよりはいい。
俺は心の中で、ぎりぎりまで小さく言った。
(アーク)
すると身体の温度が変わった。
剣が軽い。
視界が澄む。
ブレードの肉体が“狩り”の形になる。
俺は踏み込んだ。
ザッ。
落石の砂を蹴り、器の健太へ。
器の健太が影を伸ばす。
俺の足首を絡め取ろうとする。
俺は木剣を逆手にし、影の“根”を叩いた。
カン!
影が一拍だけ散る。
その隙に、首へ。
結び目へ。
カン!!
木剣が銀鎖の結び目に当たる。
金属音。
火花みたいな光。
器の健太が初めて呻いた。
「……っ!」
結び目が緩む。
そこから、冷たい何かが漏れた。
紙片みたいな光。
文字の欠片みたいな光。
――死の記憶の断片。
俺はそれを掴む。
掴んだ瞬間、胸が痛む。
痛みが遠いはずなのに、今だけ近い。
生きている痛み。
始まりの痛み。
器の健太が震える声で言った。
「……返すな……
僕はそれで僕になってる……」
泣いていない。
器は泣かない。
でも声は、壊れかけている。
セラが叫ぶ。
「健太、全部じゃなくていい!
“鍵”だけ取って!」
鍵だけ。
空白を開け閉めできる鍵。
全部戻したら、また代償が必要になる。
全部は危険。
俺は光の欠片を胸へ押し込む。
全部じゃない。
核だけ。
瞬間――
偽記憶の映像が、崩れた。
犯人の白いローブが、ぼやけて消える。
真実は戻らない。
でも嘘が消えた。
器の健太が膝をついた。
銀鎖が冷たく鳴る。
「……じゃあ僕は……空?」
俺は息を吐いた。
答えられない。
同情したら鎖になる。
免疫が、淡々と言った。
「矛盾、収束」
例外が終わる。
世界が元に戻す。
崖がさらに崩れた。
岩が落ちる。
谷が鳴る。
セラが叫ぶ。
「走れ!!
免疫が“反動”を落としてくる!」
リナが胸を押さえながら走る。
烙印が熱い。
でも名じゃない。
今、吐かされるのは――“弱音”だ。
リナが掠れ声で言った。
「……怖い」
言った瞬間、烙印が一拍だけ弱まった。
吐かせたかったのは、これ。
本心。
教会は本心を吐かせて折る。
俺は歯を食いしばり、心の中で名を杭にする。
(堀口健太)
背後で、器の健太の声が風に混じった。
「……次は、全部取る」
全部。
俺の空白だけじゃない。
俺の名。
俺の内側。
そして谷の上で、免疫が淡々と告げた。
「例外の代償、徴収」
徴収。
護符で滑らせた分、世界が回収する。
何を?
いつ?
答えはない。
ただ、背中が冷える。
俺たちは崩れる谷から走り抜け、
森の外れへ抜けた。
そこで初めて、セラが小さく言った。
「……鍵、取れた」
俺の胸の奥で、空白の縁が硬くなっている。
完全には埋まらない。
でも、好き勝手に嘘を入れられなくなった。
小さな勝利。
代償は、これから。




