第21話 取引――ブレードとして生きろ、健太として死ね
広間の空気は、冷えたままだった。
言葉が落ちるたび、床が一枚ずつ硬くなる。
伯爵は真名薬を盆ごと下げさせ、
代わりに椅子へ腰を下ろした。
それは“審問”の姿勢じゃない。
“取引”の姿勢だ。
夫人はまだ震えている。
泣き出しそうなのに、泣けない顔。
泣けば、それが弱みになると知っている顔。
リナは剣を納めていない。
セラは俺の袖を離さない。
そして影――免疫が、
広間の端で“居るだけ”をしていた。
観測。
息苦しいほどの視線。
伯爵が低い声で言った。
「堀口健太」
名を呼ばれた瞬間、銀鎖がぎち、と鳴る。
熱が走る。
でも以前ほどではない。
奉納の権利が、わずかに盾になる。
伯爵は続けた。
「お前が異物であることは理解した。
だがこの家の“器”は、まだブレードだ」
器。
また器だ。
俺の胸がざわつく。
地球の影で見た“名の器”。
あれの延長線に、この家がある。
伯爵は淡々と告げた。
「取引をする」
取引。
世界の言葉。
「お前を教会に渡さない。
真名薬も使わない。
代わりに――」
伯爵が指を一本立てた。
「ブレードとして生きろ」
息が止まりそうになった。
ブレードとして生きる。
つまりこの身体の名で固定される。
堀口健太を、表に出すな。
伯爵は続ける。
「堀口健太としては死ね」
その言葉が、刃より冷たい。
死ね。
名を捨てろ。
捨てれば銀鎖は外れるかもしれない。
でも俺は空になる。
リナが怒鳴った。
「そんなの取引じゃない!
ただの殺しよ!」
伯爵は冷たく返す。
「言葉を選べ。
これは“保護”だ」
保護。
檻の言い換え。
セラが小さく笑った。
乾いた笑い。
「……家族って、便利な言葉ね」
伯爵の目がセラへ向く。
「お前は誰だ」
セラは一歩前へ出て、堂々と名乗った。
「セラ。
あなたの客人で、あなたの恥」
広間がざわつく。
伯爵の眉が動く。
夫人が息を呑む。
セラは続ける。
「処置室から逃げた子。
あなたが“置けない”と言ったものの一つよ」
伯爵が低く言った。
「……生きていたか」
その口調に、
伯爵がセラの存在を知っていたことが滲む。
つまり伯爵家は、
教会と敵対しながらも、
処置室の仕組みを把握している。
ただの被害者じゃない。
この家もまた、歯車だ。
伯爵は俺へ視線を戻す。
「ブレードとして生きれば、
伯爵家の権力でお前を隠せる」
隠せる。
でも監視者はいる。
免疫が見ている。
伯爵はさらに言う。
「そして、ブレードとしてなら――
“第三候補”として扱える」
第三候補。
勇者候補でも魔王候補でもない、
別枠。
セラが俺の袖を強く掴む。
「……それ、嘘じゃない。
第三候補にすると名簿の鎖が一部外れる」
外れる。
少しだけ救い。
でも、代償は堀口健太の死。
リナが伯爵へ言った。
「閣下。
あなたはこの子を“道具”にするつもりだ」
伯爵は淡々と答えた。
「道具でもいい。
ウルボロスが動く前に、手を打たねばならん」
ウルボロス。
伯爵は知っている。
恐れている。
伯爵は俺へ言った。
「お前が言った言葉――
“ウルボロスの所へ行く”
それを家は利用する」
利用。
やっぱり。
「我が領に、背教が入り込んでいる。
教会も噛んでいる。
そして“教主”が動き始めた」
教主。
処置室にいた男。
あれが中ボス。
伯爵が淡々と告げる。
「お前が餌になれ」
言い方が酷い。
でも本音だ。
俺は歯を食いしばった。
餌になるのは嫌だ。
でも、動ける場所が欲しい。
この家で息をするには、役割が要る。
その時、影の免疫が淡々と言った。
「取引、観測」
伯爵が目を細める。
「……お前は何だ」
免疫は伯爵を見ない。
俺だけを見る。
「奉納者の権利は、条件つき」
条件。
また条件。
免疫が言う。
「名を捨てるなら、観測緩和」
名を捨てるなら監視が弱くなる。
つまり世界は、
堀口健太の消滅を望む。
背筋が凍る。
世界の正しさは、
個人の正しさと一致しない。
セラが俺の耳元で囁く。
「ねえ。
“堀口健太”を完全に捨てる必要はない」
「……どういう」
「表の名を捨てるだけ。
内側の名は、守れる」
守れる。
言葉として、灯り。
セラは続ける。
「あなたが“堀口健太”を誰にも渡さなければいい」
誰にも渡さない。
教会にも、背教にも、家族にも。
世界にも。
内側の名を、秘密にする。
リナが俺を見て、まっすぐ言った。
「私、あなたを守る。
教会の命令よりも」
その言葉は重い。
彼女は誓約を裏切る。
それは彼女の首も締める。
リナは続けた。
「でも条件がある。
あなたも私を利用して。
私の剣を、あなたの“名前”の盾にして」
利用し合う。
それが今の俺たちの現実だ。
セラも言った。
「私も行く。
あなたの残骸を拾う方法を知ってるのは私だけ」
第二ヒロイン。
セラはもう、引かない。
怖がるのをやめている。
伯爵が小さく息を吐いた。
「決めろ」
俺は深く息を吸った。
喉が焼ける。
でも言う。
“ブレードとして生きろ”
“堀口健太として死ね”
俺は、その間の狭い線を選ぶ。
俺は伯爵へ言った。
「……ブレードとして動く」
伯爵の口角が上がる。
俺は続けた。
「でも、堀口健太は死なない」
広間が凍る。
伯爵の目が鋭くなる。
免疫の影が、僅かに濃くなる。
観測が強まる。
伯爵が低い声で言った。
「矛盾だ」
俺は言い切った。
「矛盾でいい。
矛盾のまま、ウルボロスを殺す」
リナが息を呑む。
セラが小さく笑う。
そして伯爵が、初めて笑わずに頷いた。
「……面白い」
教主と同じ言葉。
ぞっとする。
伯爵は立ち上がり、命じた。
「ブレードを“第三候補”として登録し直せ。
教会の名簿に触れずに、家の名簿へ繋げ」
家の名簿。
別の鎖。
でも今は必要だ。
伯爵が俺へ言う。
「お前は明日、訓練場へ出ろ。
弱いなら役に立たん」
弱い。
今の俺は弱い。
アークの残り火しかない。
アークが胸の奥で、静かに言った。
――強くなれ。
――名を守るなら、力がいる。
リナが一歩前へ出る。
「私が付き添います」
伯爵が冷たく言う。
「勝手にしろ。
ただし教会の命令は屋敷内で捨てろ」
リナが頷く。
それは、彼女が正式にこちら側へ立った合図。
セラも続く。
「私も。
第三候補の登録、私が手伝う」
伯爵がセラを見て、短く言った。
「好きにしろ」
好きにしろ、は許可だ。
この家の権力が、
俺たち三人を“ひとつの駒”として動かす。
免疫が最後に呟いた。
「観測継続」
監視は消えない。
むしろ強くなる。
でも、三人で進める。
それが今の唯一の武器。
広間を出る瞬間、
夫人が小さく言った。
「……ブレード」
その声は、母の声だった。
怖いのに優しい。
優しいのに怖い。
俺は振り返らず、
心の中でだけ名を繰り返した。
(堀口健太)
(堀口健太)
表の名はブレード。
内側の名は健太。
この矛盾を抱えたまま、
俺は歩き出した。




