第20話 伯爵家の“家族”――そしてアークが語った目的
光が裂け、
処置室の白が引き千切れた。
次に見えたのは、
石造りの天井だった。
高い。
豪奢なシャンデリア。
窓の外は夜ではなく、薄明るい。
……朝?
時間がズレた。
裂け目は距離だけじゃなく、時間も噛み砕く。
俺は床に転がり、咳き込んだ。
喉が焼ける。
掌の傷が疼く――やっぱり遠い。
痛みの輪郭が薄いまま。
リナがすぐに起き、剣を構えた。
セラも身を起こし、周囲を確認する。
「……ここ」
セラが呟いた。
広間。
伯爵家の紋章が壁に飾られている。
鷲と剣。
だが、さっきの屋敷とは違う。
空気が重い。
兵の気配が濃い。
ここは“本邸”だ。
領主の中心。
逃げ場がないほど、権力が集まる場所。
そしてその中心に、
人が立っていた。
男。
壮年。
礼装。
胸に伯爵家の紋章。
彼の隣に、夫人。
その後ろに、若い騎士と侍女たち。
全員が俺を見ている。
男が低い声で言った。
「……ブレード」
その呼び方だけで、銀鎖がぎち、と鳴った。
嫌がる。
でも、同時に“懐かしい”が胸を刺す。
この身体は、この人を知っている。
父親だ。
伯爵。
俺の胃が冷えた。
味方のはずなのに、怖い。
伯爵は一歩前へ出る。
目は冷たい。
でも怒りじゃない。
“確認”の目。
検分。
「顔が違う」
夫人が息を呑む。
リナが剣先をわずかに下げ、警戒を強める。
セラが俺の袖を掴んで囁いた。
「……ここは“家族”がいる場所。
でも家族は味方とは限らない」
分かってる。
家族ほど、名を奪える。
伯爵が言った。
「お前の首」
俺の銀鎖を見ている。
あの教会の封印。
この伯爵は、それを知っている。
「教会に触れたな」
夫人が震える声で言った。
「……ブレード。
あなた、また……?」
また。
また、って何だ。
俺の胸がざわつく。
この身体には“前例”がある。
過去にも何かがあった。
それを俺は知らない。
いや、知っているはずなのに、
知らない。
それが憑依の気持ち悪さだ。
その時、広間の空気が一瞬だけ薄くなった。
影が遅れて揺れた。
――免疫。
奉納した瞬間から、
世界に“監視者”がついた。
見えないのに分かる。
俺たちの会話が、誰かに観測されている。
リナも感じたのか、視線を動かさずに言った。
「……いる」
セラも小さく頷く。
伯爵が俺をまっすぐ見た。
「答えろ。
お前は、ブレードか」
答え方を間違えたら終わる。
ブレードと言えば、この身体の“役割”に固定される。
堀口健太と言えば、教会の名簿に繋がる。
どっちも危険。
俺は息を吸い、
喉の焼けを押し切って言った。
「……俺は、堀口健太」
夫人の顔が真っ白になった。
伯爵の目が細くなる。
侍女が息を呑む。
そして伯爵が低く言った。
「異物か」
異物。
免疫の言葉と同じだ。
その瞬間、広間の影が濃くなった。
見えないものが、一歩近づく気配。
奉納した。
だから監視される。
世界は俺を“異物として扱う権利”を得た。
セラが俺の耳元で囁く。
「言いすぎ。
今は“家族”を敵に回すな」
リナが一歩前へ出る。
教会騎士としての礼を取り、言った。
「伯爵閣下。
この少年は危険な存在ではありません。
私は――」
伯爵がリナを一瞥し、即座に遮った。
「聖光教会の騎士か。
……教会の手先が我が家に入り込むとは」
リナが顔をしかめる。
教会が嫌われている。
伯爵家は教会と対立しているのか。
夫人が震える声で言った。
「教会に渡したら、もう戻ってこない」
伯爵が頷く。
「分かっている。
だから今ここで確かめる」
確かめる。
どうやって。
伯爵が手を上げると、
若い騎士が前へ出た。
銀の盆を持っている。
盆の上には、黒い小瓶。
セラの顔色が変わった。
「……真名薬」
真名薬。
名前を引きずり出す薬。
飲ませれば、魂の名が滲み出る。
伯爵が淡々と言う。
「これを飲め。
ブレードならブレードだと証明される。
異物なら異物だと分かる」
最悪だ。
どっちに転んでも固定される。
真名が引きずり出されたら、
教会も背教も免疫も、それを掴む。
リナが叫ぶ。
「閣下、それは――!」
伯爵が冷たく言う。
「黙れ。
我が家の問題だ」
家の問題。
家族の名で縛る。
同じだ。
教会と変わらない。
俺は一歩下がった。
逃げる?
逃げたら捕まる。
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
アークの声が、今までで一番はっきり響く。
――飲むな。
声が強い。
俺の喉から漏れたのかと思うほど。
伯爵の目がわずかに見開かれる。
夫人が息を呑む。
「……今の声」
俺の口は開いていない。
なのに声が聞こえたように見える。
アークが続ける。
――目的を話す。
――お前が選べ。
――今ここで、俺を切り離すか、
――俺と一緒に進むか。
切り離す。
教主が狙ったこと。
俺からアークを引き剥がす。
俺は震える息で、心の中で答えた。
(目的って、何だ)
アークは静かに言った。
――悪神ウルボロスを殺す。
――それだけだ。
――そのために裂け目を作り、
――候補を増やし、
――そして俺は負けた。
負けた。
逃げた。
力を失った。
俺が聞かされてきた設定の核が、
ここで“声”になる。
アークが続ける。
――俺は元のサド。
――お前の中にいるのは、その残り火だ。
――お前が堀口健太である限り、
――俺は完全には戻れない。
――だが、戻ればお前は消える。
リナが俺の腕を掴む。
「健太、顔が……!」
セラが息を呑む。
「……声が外に漏れてる。
免疫に嗅ぎつけられる」
伯爵が低く言った。
「今、何者と話している」
俺は答えられない。
答えたら固定される。
でも答えないと薬を飲まされる。
選べ。
アークが言った。
俺は、決めた。
今は切り離さない。
切り離せば空になる。
ウルボロスに辿り着く前に終わる。
俺は伯爵へ言った。
喉が焼けても、短く、曖昧に。
「……俺は、敵じゃない」
伯爵が目を細める。
「証明しろ」
真名薬が差し出される。
その瞬間、
広間の影が“遅れて”揺れた。
免疫が、現れた。
今度は見えた。
黒いコートの、顔の薄い人影。
裂け目の免疫。
免疫が淡々と言った。
「奉納者。監視対象」
伯爵が息を呑む。
夫人が後退る。
騎士たちがざわめく。
免疫は俺へ顔を向ける。
「条件更新」
更新。
対価の更新。
奉納の更新。
免疫が言った。
「真名露出は、傷の拡大」
つまり真名薬を飲めば、
免疫は“治す”ために介入する。
介入は、回収か拒否。
どっちにしても地獄。
俺は理解した。
ここで真名を晒したら、
免疫が“治す”。
つまり、俺を世界の外へ押し出すか、
内側で固定して殺す。
どっちでも終わる。
セラが俺の袖を強く掴んだ。
「健太。
あなたが奉納した“権利”を使って」
権利。
世界に奉納した瞬間、
俺は世界に敵にも味方にもなった。
つまり交渉の席に座れる。
俺は免疫を見て、
血の味のする喉で言った。
「……俺は、まだ払う」
免疫が首を傾げる。
「何を」
また対価。
もう血じゃ足りない。
奉納は危険すぎる。
俺は一瞬だけ迷い、
そして“俺の中で一番軽いもの”を捨てることにした。
――好きな食べ物。
――好きな曲。
――そんな些細なもの。
でも俺には、もうそれすら大事だ。
少しずつ奪われるほど、怖い。
それでも今は、生きるために。
俺は言った。
「……俺の“好き”を、一つ」
免疫が頷いた。
「受領」
その瞬間、
頭の中から、ある味の記憶が消えた。
何か甘いもの。
大事だったはずの味。
名前も思い出せない。
胸が痛む。
でも――免疫が一歩下がった。
「真名露出、延期」
延期。
今は干渉しない。
伯爵が目を見開く。
「……延期?」
免疫は伯爵を見ずに言った。
「奉納者の権利」
権利。
俺はこの世界の“異物”であり、
同時に“交渉者”にもなった。
セラが小さく息を吐いた。
「通った……」
リナが震える声で言う。
「健太……あなた……」
俺は返せない。
味が消えた。
何かが欠けた。
その欠けが、心臓に穴を開ける。
伯爵が、ゆっくり真名薬を引っ込めた。
目が冷たくなる。
「……分かった。
今は飲ませない」
夫人が伯爵の袖を掴む。
「あなた……」
伯爵は夫人を見て、静かに言った。
「だが監視者がいる。
この子は家に置けない」
置けない。
追い出される。
あるいは隔離。
伯爵が俺を見て言った。
「ブレードとして扱う。
しかしお前が異物なら――」
言葉が途切れる。
夫人が顔を伏せる。
リナが叫ぶ。
「閣下!
この子を道具にする気ですか!」
伯爵が冷たく言う。
「道具にしなければ、家が滅ぶ」
滅ぶ。
伯爵家は何かに追い詰められている。
教会か、背教か、
それとも――ウルボロスか。
そして俺はその中心に落ちた。
アークが胸の奥で、静かに言った。
――見たか。
――これが“世界”だ。
――誰も助けない。
――だから俺たちは殺しに行く。
殺しに行く。
ウルボロスを。
俺は息を吸い、
喉の焼けを堪えて、短く言った。
「……俺は、行く」
伯爵が眉を動かす。
「どこへ」
俺は言い切った。
「……ウルボロスの所へ」
広間が静まり返った。
夫人が泣きそうになる。
伯爵の目が初めて“恐れ”を含む。
そして免疫が、淡々と言った。
「観測開始」
見られている。
世界に。
悪神に。
教会に。
背教に。
家族に。
それでも――
進むしかない。




