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第19話 戻り先がズレた――井戸の底は“処置室”だった

落ちる。


 裂け目をくぐったはずなのに、

 また落ちる。


 異世界の匂いがした。

 草の匂い、土の匂い。

 ――なのに、鉄の匂いが混ざる。


 香の匂い。

 消毒した布の匂い。


 嫌な匂いだ。

 “清潔”の匂い。


 俺は床に叩きつけられ、息を吐いた。

 喉が焼ける。

 掌の傷が痛む――はずなのに、

 痛みが遠い。


 痛いのに、痛くない。


 対価で捨てた。

 俺の“死”の記憶。


 死の記憶が消えたせいで、

 痛みの感じ方まで薄くなった気がした。


 リナが俺の肩を掴み、起こす。


「健太! しっかりして!」


 セラが周囲を見回し、顔色を変えた。


「……違う」


 俺も気づいた。


 ここは中庭じゃない。

 森でもない。


 白い床。

 円。

 祈祷文。


 処置室。


 しかも――

 塔の処置室より、狭い。

 息が詰まるほど近い。

 壁が近い。


 井戸から戻った先が、ズレた。

 戻るはずの中庭ではなく、

“井戸の出口側”を通り越して、

処置の中心へ。


 セラが歯を食いしばる。


「内通者が井戸を“直結”にした……!」


 直結。

 井戸は逃げ道じゃない。

 教会へ繋ぐ穴。


 つまり俺たちは、

 罠の中の罠へ落ちた。


 リナが剣を抜く。


「出口は?」


 セラが円の縁を指差す。


「扉は一つ。

 でも……」


 扉の前に、立っている影があった。


 伯爵家の礼装。

 銀の輪。

 穏やかな笑顔。


 あの内通者だ。


「おかえりなさい」


 声が優しい。

 優しい声は、ここでは刃だ。


 男は俺の血だらけの掌を見て、満足げに頷いた。


「対価を払いましたね」


 知っている。

免疫との取引を知っている。

 どうして?


 セラが低く吐き捨てる。


「……あなた、免疫と繋がってるの?」


 男は首を傾げた。


「繋がっているのは、世界です」


 そう言って、床の円へ視線を落とす。


「裂け目は傷。

 傷は治る。

 治すのが免疫」


 男の言葉は、

 セラと同じ語彙で構成されている。


 つまりこの男も、知っている。

 知りすぎている。


 男が微笑んだ。


「あなたたちは、よく動いてくれた。

 欠けた残骸も、戻りました」


 戻った。

 俺の名の欠片。


 確かに戻った。

でも代償で“死”の記憶を失った。


 男が俺へ近づく。

 距離が縮まるだけで、銀鎖が熱い。

 嫌がっている。


 男は黒い革の手帳を開いた。

 回収班のものより分厚い。

紙の質が違う。


 これは、伯爵家の帳面じゃない。

 教会の“原本”に近い。


 男が淡々と読み上げる。


「堀口健太。

 処置:未確定――修正開始」


 修正開始。

 終わりの始まり。


 リナが前へ出た。


「やめろ!」


 男は穏やかに言う。


「あなたは聖光教会の騎士。

 命令に従いなさい」


 リナが歯を食いしばる。

 身体が僅かに固まる。


 ……命令が効いた。

彼女の中にも誓約がある。


 セラが呟く。


「リナ、抗うな。

 ここで折れたら、あなたの誓約も裂ける」


 リナの目が揺れる。

 抗えない。


 男が俺の顎へ指を添えた。

 触れられた瞬間、

 喉の奥が締まる。


「名前を吐きなさい」


 吐くな。

 吐けば固定される。

 固定されれば管理される。


 でも――

 もう一つ、怖い。


 俺は対価で“死”を捨てた。

 その空白に、何かが入り込む。


 胸の奥がざわついた。


 そして、

 思い出せないはずの“死”の代わりに、

 別の映像が浮かんだ。


 白い部屋。

 円。

 棘の輪。


 俺が台座に寝かされている。

 そして、俺が自分で笑っている。


 ……違う。

 そんなはずない。


 俺は刺されて死んだ。

 ――いや、刺された記憶がない。


 俺は息を呑んだ。


 入ってきた。

 偽記憶が。


 男が囁く。


「あなたは、ここで始まった」


 始まった。

 地球で死んで始まったはずなのに。

 今はそれが思い出せない。


 だからこの男の言葉が、

 真実みたいに入ってくる。


 危険だ。

 死の記憶を捨てたせいで、

 俺の始まりが“書き換えられる”。


 セラが叫んだ。


「健太!

 その声を信じたらダメ!」


 リナも叫ぶ。


「あなたの名前を!

 今、言って!」


 俺は喉を絞り、言う。

 言わないと、俺が俺じゃなくなる。


「……堀口……健太」


 銀鎖がバチンと鳴り、

 熱が一拍だけ弱まる。


 男が笑った。


「良い。

 それでこそ修正しやすい」


 最悪だ。

言えば言うほど、捕まる。

 言わなければ、消える。


 矛盾。

 詰み。


 その時、床の円の縁が光った。

 “眼”が開く。

 壁の装飾の隙間から、薄い瞳が覗く。


 塔の眼。

 ここにも。


 男が祈るように言った。


「ウルボロスよ。

 未確定を、確定へ」


 ウルボロス。

 最終の悪神の名。


 この男は教会の内通者じゃない。

 教会を使う側。


 背教の側だ。

 いや――

 もっと上。


 ウルボロスの“手”。


 セラが震える声で言った。


「……教主」


 教主。

 中ボス。

 背教を束ねる存在。


 男は穏やかに頷いた。


「そう呼ぶ者もいる」


 リナが動こうとする。

 だが足が止まる。

 誓約が縛る。


 セラが俺へ囁く。


「健太。

 あなたは裂け目を開ける。

 でも免疫はもう交渉済み。

 次は“血”じゃ足りない」


 足りない。

 じゃあ何が必要だ。


 教主が言った。


「対価を払ったのなら、

 次は“奉納”です」


 奉納。

対価の上位。

 奪うための言葉。


 教主は微笑んで、俺の胸元へ指を置いた。

 聖痕の上。

光と闇の交差。


「あなたの中の“上位”を、差し出しなさい」


 上位。

 サード級の勇者候補ではなく、

 もっと上の存在。


 アーク。

 俺の中のアーク。


 俺は息を呑む。

 教主は知っている。

 俺の中に何がいるか。


 教主が囁いた。


「アーク・ファン・エイル。

 あなたは、ここへ帰る」


 その名が落ちた瞬間、

 胸の奥が爆ぜた。


 熱。

 怒り。

 そして――深い疲労。


 アークの声が、初めて“外”へ滲んだ。


 ――触るな。


 低く、凄みのある声。

 俺の声じゃない。

 でも俺の喉から出た。


 リナが息を呑む。

 セラの目が見開かれる。


 教主だけが、嬉しそうに笑った。


「出てきましたね」


 終わりだ。

 ここで引き剥がされたら、

 堀口健太は空になる。


 俺は震える掌を握りしめた。

 血はまだ出ている。

 でも痛みは遠い。

 それが余計に怖い。


 俺は必死に頭の中で名を繰り返す。


(堀口健太)

(堀口健太)


 その反復だけが、杭になる。


 教主が両手を広げた。

 眼が一斉に開く。

 円が光る。


「処置を再開します」


 リナが叫ぶ。


「やめろぉぉ!」


 セラが俺の耳元で囁く。


「健太。

 “奉納”の言葉を先に言って」


「……なにを?」


「あなたが自分で奉納する相手を、選ぶの」


 選ぶ。

 捧げる相手を変えれば、

 教主の手から逃げられる。


 セラの目が、怖いほど真剣だった。


「ウルボロスじゃない。

 別の誰かへ捧げれば、誓約がズレる」


 ズレる。

 ズレれば裂け目が開く。

 逃げ道になる。


 俺は息を吸う。

 喉が焼ける。

でも言う。

 言わないと死ぬ。


 俺は教主を睨み、

 そして床の円の奥――

“眼”の向こう側を睨む。


 そこに、見えた。


 黒い輪のさらに奥。

 輪を喰うような、白い裂け目。


 免疫の影。

 世界の治癒。

世界の拒絶。


 俺は震える声で言った。


「……奉納する」


 教主が微笑む。


「誰へ?」


 俺は言い切った。


「……この世界へ」


 教主の笑顔が一瞬だけ固まった。

 世界へ奉納。

 ウルボロスではなく、世界そのものへ。


 免疫が反応する。

 円の光が乱れた。


 眼が、瞬きをした。


 裂け目が――開きかけた。


 リナが叫ぶ。


「健太、今!」


 セラが俺の腕を引く。


 教主が低く唸る。


「……面白い」


 面白がるな。

 遊びじゃない。


 円が激しく光り、

 空気がバリバリと裂ける音を立てる。


 次の瞬間――

 俺たちは、光に飲まれた。


 処置室が遠ざかる。

 教主の笑顔が遠ざかる。


 そして俺の中で、

 アークの声が疲れたように言った。


 ――覚えておけ。

 ――世界に奉納した瞬間、

 ――お前は“世界の敵”にもなる。


 敵。

 味方。

 そんな境界すら、裂けた。

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