第18話 対価――裂け目は、血でしか開かない
鐘が鳴る。
カン、カン、カン。
一つじゃない。
四方から重なる。
方向が分からない。
これは追跡じゃない。
包囲だ。
雨の中、規制線の外側の影が揺れた。
影が“人の形”になる。
白いローブ。
黒いローブ。
そして、顔の薄い何か。
教会。
背教。
裂け目の免疫。
三つが同時に来るのは、最悪だ。
リナが俺の腕を引いた。
「井戸へ戻る!」
セラが頷き、先に走り出す。
俺もついていく。
足音が増える。
雨を踏む音が、後ろだけじゃない。
横からも。
前からも。
逃げ道が狭まる。
角を曲がった瞬間、
通路の先に黒い傘の集団が見えた。
教会の回収班。
白い装備、銀の輪、黒い革の手帳。
あの時の男が先頭にいる。
目がこちらを捉えた瞬間、
手帳が勝手に開いた。
「対象、未確定――修正優先」
背後から、笑い声が重なる。
「いいね。逃げるほど剥げる」
背教の狩人。
声だけが先に来る。
そして頭上の街灯の影が遅れて揺れ、
“顔の薄い人影”が降りてきた。
裂け目の免疫。
番人。
いや、免疫。
そいつは低い声で言った。
「創り主は、対価」
対価。
セラが歯を食いしばる。
「来た……!」
リナが叫ぶ。
「なんなのよそれ!」
説明してる暇はない。
俺の首の銀鎖が、ぎゅっと締まった。
喉が焼ける。
言葉が出ない。
でも頭の中でアークが言う。
――支払え。
――裂け目は、血で開く。
血。
何を言っている。
俺はもう刺されて死んだ。
でも、ここでは違う。
ここでは“傷”が通貨になる。
セラが俺の手を掴んだ。
「井戸の入口は中庭側。
このまま走れば――」
走る。
走っても追いつかれる。
回収班が前を塞ぐ。
背教が横から回る。
免疫が上から落ちる。
三方向。
勝ち目はない。
俺は息を吸い、
必死に口の形を作った。
「……堀口健太」
言えた。
言えた瞬間、銀鎖が一拍だけ緩む。
その隙に、俺は決めた。
裂け目を開く。
今ここで。
井戸まで行く必要はない。
ただし、対価がいる。
俺は自分の掌を見た。
雨で濡れている。
でも、その下に血はない。
――作る。
リナが俺の顔を見て息を呑む。
「まさか……!」
セラが一瞬だけ、目を逸らした。
逃げない。
でも、見たくない。
俺は歯を食いしばり、
石畳の角へ掌を叩きつけた。
ゴッ。
痛みが走る。
骨が軋む。
もう一度。
ゴッ。
皮が裂け、血が滲んだ。
赤が雨に混ざって薄まる。
免疫が、嬉しそうに言った。
「対価」
回収班の男が叫ぶ。
「止めろ!
裂け目を開かせるな!」
背教の狩人が笑う。
「開け。
開けた方が剥ぎやすい」
敵同士なのに、
また噛み合う。
最悪だ。
俺は血のついた掌で、
空間に線を引く。
ピシッ――。
線が走った。
だが細い。
すぐに閉じそう。
免疫が首を傾げる。
「足りない」
足りない。
もっと血。
もっと傷。
俺の中のアークが、冷たく言う。
――覚悟を決めろ。
――小さな傷では“扉”にならない。
――それは“隙間”だ。
隙間じゃ、逃げられない。
回収班の手が届く。
背教の刃が届く。
リナが叫ぶ。
「やめて!
それ以上したら……!」
でも、他に道はない。
俺は掌の血をさらに絞るため、
指の腹を噛んだ。
ガリッ。
鉄の味。
血の味。
雨に混ざらない濃い赤。
その赤を、線へ塗り込む。
バリッ。
空気が割れた。
裂け目が“扉”になる。
向こうから風が吹く。
土の匂い。
夜の草。
異世界の匂い。
開いた。
その瞬間、免疫が動いた。
顔の薄い人影が、扉の前に立つ。
「拒否」
たった一言。
裂け目が、ぐにゃりと歪んだ。
扉の縁が溶ける。
閉じようとしている。
セラが叫ぶ。
「免疫は“安定”を嫌う!
こちらの扉を固定されたら、世界が破れる!」
固定。
また固定。
俺たちがやっているのは固定じゃない。
逃げ道だ。
でも免疫から見れば、
逃げ道は“傷の拡大”だ。
免疫が淡々と言う。
「傷は、治す」
治す。
つまり閉じる。
回収班が距離を詰めてくる。
背教の狩人が笑いながら回る。
時間がない。
俺は、もう一度自分の名を言った。
喉が裂けてもいい。
「堀口健太!!」
銀鎖がバチンと鳴り、
一拍だけ緩む。
その一拍で、俺は理解した。
免疫に通じる言葉がある。
免疫は“対価”に反応する。
なら――
対価を払えば、免疫は引く。
治すのをやめる。
俺は血だらけの掌を握りしめ、
免疫へ向けて言った。
「……払う。
対価を」
免疫の顔の薄さが、僅かに濃くなる。
「何を」
俺の胸の奥でアークが呻いた。
――やめろ。
――それは戻せない。
戻せない。
つまり、これが本当の代償。
俺は息を吸い、
泣きそうな喉で言った。
「……一つ、捨てる」
何を捨てる。
俺の名前の一部か。
記憶か。
感情か。
リナが俺の腕を掴んで叫ぶ。
「だめ!
それ以上、あなたがあなたじゃなくなる!」
セラが唇を噛んだ。
彼女も止めない。
止められない。
回収班が叫ぶ。
「その契約を結ばせるな!」
背教の狩人が囁く。
「結べ。
結んだら、もっと剥げる」
俺は目を閉じ、
真っ先に浮かんだものを捨てることにした。
地球の、最後の景色。
駅前の曇天。
刺された瞬間の痛み。
あれを捨てれば、
追われる理由の一部が消えるかもしれない。
でも――
それは俺の始まりだ。
堀口健太としての始まりを、捨てる。
俺は震える声で言った。
「……俺の“死”を、渡す」
免疫が静かに頷いた。
「受領」
その瞬間、
頭の奥が真っ白になった。
駅前の景色が、霧に溶ける。
刃が刺さる感触が、消える。
痛みが、なくなる。
“死んだ記憶”が、消えた。
俺は息を呑む。
怖い。
何か大事なものが抜け落ちた。
でも――扉が安定した。
免疫が一歩下がる。
「通過」
リナが叫ぶ。
「今!!」
セラが俺の背中を押す。
俺たちは裂け目へ飛び込んだ。
背後で回収班の男が叫ぶ。
「未確定を逃がすな!」
背教の狩人が笑う。
「いい。
次はもっと簡単だ」
裂け目が閉じる瞬間、
俺は雨の中で自分の掌を見た。
血が流れている。
痛いはずなのに、
なぜか痛みが遠い。
そして――
俺は気づいた。
俺は、
どうやって死んだのかを、
もう思い出せない。
“始まり”を、
自分の手で捨てた。
それが、対価。




