第17話 もう一人の堀口健太が、先に拾っていた
落下は終わらなかった。
井戸の底なんて、とうに過ぎているはずなのに。
闇が薄くなり、
代わりに雨の匂いが濃くなる。
そして突然――
足が地面に叩きつけられた。
ゴン。
石畳。
濡れている。
雨が音を立てて落ちる。
ここは、地球の影。
俺は膝をつき、胃の中を押さえた。
吐き気と一緒に、頭の奥がざわつく。
セラは着地が上手かった。
すぐに周囲を確認し、リナを起こす。
リナは剣を抜いたまま、息を吸った。
「……戻った」
戻った。
だが“本物の地球”ではない。
影。
通路。
皮膜。
街灯が点いている。
信号も点いている。
人はいない。
雨だけが、音を立てる。
そして――
目の前に、あの規制線があった。
黄色いテープ。
立ち入り禁止。
事故現場。
俺の死体がある場所。
胸が締め付けられる。
首の銀鎖が、ぎち、と鳴った。
引っ張られる。
現場へ。
セラが低い声で言う。
「時間がない。
残骸は“落ちたまま”じゃない」
リナが眉をひそめる。
「回収される?」
セラは頷いた。
「ううん。
もっと悪い」
セラは雨の中の影を指差した。
「……拾われる」
拾われる。
誰に?
俺は規制線をくぐった。
足が勝手に動く。
怖いのに、吸い寄せられる。
白い布。
あのシート。
俺の死体。
近づくほど、
胸の奥が冷える。
リナが俺の肩を掴む。
「無理なら――」
無理。
無理でも行かないと終わる。
俺は震える指で、白い布をめくろうとした。
その瞬間。
向こう側から、足音がした。
ぱしゃ、ぱしゃ。
雨の水たまりを踏む音。
……人の足音。
この影の世界で初めて、
はっきり“人”の足音がした。
リナが剣先を向ける。
「誰だ!」
暗がりから、傘が現れた。
黒い傘。
その下に、少年の顔。
俺と同じくらいの年。
黒髪。
目つきが――俺に似ている。
そして彼の首元には、
俺と同じ銀鎖があった。
いや、違う。
形は同じなのに、温度が違う。
彼の銀鎖は冷たく、
まるで完成した首輪のように見えた。
少年は俺を見て、静かに言った。
「遅かったね」
声が、俺の声だった。
少しだけ低い。
少しだけ落ち着いている。
でも間違いない。
“堀口健太の声”。
俺の背中が凍った。
「……誰」
喉が焼けるのに、言葉が出た。
銀鎖が嫌がっている。
でも出た。
少年は笑った。
笑い方まで、俺に似ている。
「堀口健太」
名を、さらりと言った。
その瞬間、俺の銀鎖が締まる。
ぎゅっ。
息が詰まる。
名前が奪われる感覚。
リナが叫ぶ。
「名を言うな!」
少年はリナを見ずに言った。
「言うよ。
これは“固定”だから」
固定。
俺たちがやっていたこと。
名を口にして世界に刻むこと。
なのに彼の固定は、
俺を殺す。
セラが一歩前へ出た。
目が鋭い。
「……あなた、回収班の“完成品”ね」
完成品。
少年は頷いた。
「うん。
処置:完了」
その言葉が落ちた瞬間、
俺の頭の中で“堀口”の輪郭が薄くなる。
音もなく、削られる。
俺は歯を食いしばり、
必死に頭の中で叫ぶ。
(堀口健太!)
少年は俺の苦しみを楽しむように言った。
「残骸、探してるんでしょ?」
彼は白い布の方へ視線を向けた。
「もう拾ったよ」
拾った。
欠けた名前の残骸を。
セラの顔が僅かに歪む。
「……どこに?」
少年は傘を閉じ、
濡れた地面に先端を置いた。
「ここ」
彼は自分の胸を指差した。
「欠けた分、全部ここに入った」
入った。
俺の欠けた名前が、
別の堀口健太に入った。
つまり俺が拾うはずの残骸は、
もう“他人の中”だ。
リナが低く唸る。
「ふざけるな……」
少年は穏やかに言った。
「ふざけてない。
教会は“取りこぼし”を許さない」
そして、指を鳴らした。
カン。
遠くで鐘が鳴った。
この世界に鐘なんてないはずなのに。
鐘が鳴る。
回収の合図。
少年は俺を見て言う。
「君は未確定。
僕が確定」
確定。
未確定。
教会の名簿の言葉。
セラが吐き捨てる。
「……あなたは“名の器”」
名の器。
俺の欠けた部分を入れた容器。
少年は微笑んだ。
「器でいい。
器が本体になる」
怖い。
理屈が合っているのが怖い。
俺の中のアークが、低く言った。
――こいつは“影”だ。
――お前の欠けた名を食って形になった。
――放置すれば、お前は空になる。
空。
堀口健太が、空になる。
リナが剣を構える。
「斬る」
少年は首を傾げた。
「斬れないよ。
僕は“名前”だから」
名前。
切れない。
切れるのは結び目だけ。
セラが俺の腕を掴んで囁く。
「奪い返す。
方法はある」
「……どうやって」
セラの目が冷たく光る。
「あなたの銀鎖の“忘却”を、
彼に打ち込む」
忘却。
俺が野盗に使ったやつ。
でも相手は“名の器”。
効くのか。
セラは言った。
「効く。
名前は固定されてるほど、
揺らされた時に脆い」
固定の逆。
揺らす。
崩す。
リナが俺の背中を押した。
「やって。
あなたのために」
俺は息を吸い、
喉が焼けるのを覚悟した。
銀鎖の内側の文字。
『忘却』
俺はそれを“外”へ向ける。
相手に向ける。
少年が笑った。
「やれると思う?
未確定が」
その挑発に、胸の奥が燃えた。
未確定でもいい。
俺は俺の名を守る。
俺は叫んだ。
「……忘却!」
銀鎖が冷えた。
俺の喉が凍るほど冷えた。
視界が白く滲む。
少年の目が、初めて揺れた。
「……あ?」
彼の傘を持つ手が止まる。
口が半開きになる。
俺は続けて、
追い打ちをかけるように言った。
「……お前の名前は、誰だ」
少年の顔から表情が抜け落ちた。
「……俺……?」
固定が揺らぐ。
器が空になりかける。
セラが叫ぶ。
「今!
あなたの名前を、あなたの口で!」
リナが叫ぶ。
「堀口健太!」
俺はその音を追いかける。
喉が裂ける。
でも出す。
「……堀口健太!!」
銀鎖がバチンと鳴り、
少年の首の銀鎖も同時に鳴った。
その瞬間、
少年の胸元から、薄い光が漏れた。
紙片みたいな光。
文字の欠片みたいな光。
“残骸”が、浮き上がった。
少年が呻く。
「返すな……!
僕が僕になるんだ……!」
その言葉が、悲鳴に聞こえた。
彼もまた、必死だ。
器として生きるために。
でも俺は譲れない。
セラが手を伸ばし、光の欠片へ触れた。
触れた瞬間、彼女の指先に輪の痕が浮かぶ。
代償。
彼女も削られる。
それでもセラは歯を食いしばって言った。
「……戻れ」
光の欠片が、俺の胸へ吸い込まれる。
胸が熱い。
頭の奥で欠けていた部分が、
ゆっくり形を取り戻す。
堀口。
“口”の感触が戻った。
その瞬間、
少年が膝をついた。
「……あ……」
彼の輪郭が薄くなる。
雨の中に溶けていく。
影みたいに。
彼は最後に俺を見て、
小さく笑った。
「……じゃあ、次は」
次。
その言葉の意味を考える前に、
遠くで鐘が鳴った。
カン、カン。
今度は一つじゃない。
複数。
四方から。
回収班が来る。
背教も来る。
そして――裂け目の免疫も来る。
セラが息を呑む。
「……最悪。
残骸を動かしたから、全部に見つかった」
リナが俺の腕を掴む。
「戻るよ!」
俺は頷く。
名前は少し戻った。
でも代わりに、世界がこちらを睨みつけ始めた。
雨の中、
白い布の死体の目の奥の黒い輪が、
くっきりと濃くなっている気がした。
ウルボロスが、
このやり取りを見ていた。
そう思った瞬間、
背筋が凍った。




