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第16話 井戸へ――屋敷の夜は、祈りより静かだ

 客室は豪華だった。

 柔らかい寝台。

 香のする布。

 壁には伯爵家の紋章。


 でも、牢屋より息が詰まる。

 豪華な部屋ほど、逃げ道がないからだ。


 扉の外に足音が二つ。

 護衛。

 交代する気配もある。


 リナは窓際に立ち、

 外の巡回の間隔を目で測っている。


 セラは机の上に置かれた水差しを見つめたまま、

 小さく言った。


「この屋敷、寝てるふりしても無駄。

 壁に耳がある」


 俺の背中が冷たくなる。

 塔の“眼”を思い出す。


 リナが低い声で訊く。


「井戸へ行くって言ったけど、どうやって?」


 セラは俺の手のひらに押し込んだ紙片を指で叩いた。


「これが通行証」


 紙片には、伯爵家の紋章が薄く押されている。

 でも線が微妙に歪んでいて、

 教会の祈祷文の癖が混ざっている。


 ――偽造。


 セラが言う。


「内通者の男は、井戸を封じる気。

 だから井戸の周りだけ巡回が薄くなる」


 逆に薄くする。

 誘導。

 罠の匂いが濃い。


 俺は喉の熱をこらえて、短く言った。


「……罠じゃないの?」


 セラは頷いた。


「罠よ。

 でも罠の中にしか、道はない」


 正しい。

 最悪だけど正しい。


 リナが剣の柄を握りしめる。


「……私が前に出る」


 セラが首を振る。


「あなたは目立つ。

 教会の騎士は、教会の匂いで分かる」


 次に、俺を見る。


「堀口健太。

 あなたが歩いて」


 俺が?

 この首輪付きで?


 セラが続ける。


「あなたが一番“屋敷の子ども”に見える。

 そして――」


 彼女は俺の銀鎖を見て、薄く笑った。


「あなたは、“忘却”で瞬間だけ目を曇らせられる」


 胸が重くなる。

 呪いを便利に使う。

 そのたび俺が削れる。


 それでも今は、生きる。


 *


 夜更け。

 屋敷の灯りが落ち、

 廊下の松明だけが弱く揺れている時間。


 巡回の足音が遠ざかった瞬間、

 セラが扉の鍵へ触れた。


 カチ。


 驚くほど簡単に開いた。

 最初から開けられる鍵だ。


 罠。


 リナが俺の腕を掴む。


「行くよ」


 俺は頷き、廊下へ出た。


 屋敷の夜は、静かすぎる。

 人がいるはずなのに、呼吸が聞こえない。

 塔と同じ種類の静けさ。


 角を曲がった瞬間、

 廊下の壁の装飾が――一瞬だけ“祈祷文”に見えた。


 彫り込まれた文字。

 密度。

 規則性。


 俺は足が止まりかける。


(違う。これは屋敷だ)


 胸の奥のアークが、低く押さえた声で言う。


 ――思い出すな。

 ――処置室の匂いを追うな。


 匂い。


 ふと、香の匂いが濃くなった。

 さっきの客室と同じ香。

 でも、どこか鉄の匂いが混じっている。


 血。


 俺は反射的に振り向いた。


 廊下の突き当たり。

 そこに、黒い扉が見えた。


 屋敷にあるはずのない黒い扉。

 処置室の扉と同じ色。


 心臓が跳ね上がる。


 リナが囁く。


「健太、どうした?」


 セラが俺の視線を追い、

 少しだけ顔色を変えた。


「……見えるのね」


 見える?

 つまりこれは現実じゃない。

 幻。

 あるいは――誘導。


 黒い扉の隙間から、

 冷たい風が漏れた。


 地球の影の匂い。

 雨の匂い。


 扉が、ゆっくり開いた。


 中は真っ暗なのに、

 床の円だけが光っている。


 “忘却”

 “導き”


 文字が読める。

 読めるのが怖い。


 俺の銀鎖が、ぎち、と鳴った。

 引っ張られる。

 黒い扉へ。


 リナが俺を強く引いた。


「見るな!」


 セラが冷たく言う。


「罠。

 内通者があなたの“傷”を撫でてる」


 傷。

 裂け目。

 処置室。

 記憶の傷。


 扉の奥から、声がした。


「おいで」


 優しい声。

 あの男の声。


 伯爵家の礼装で、教会の輪をつけた男。


「井戸へ行くのは危険だよ、ブレード殿」


 俺の喉が焼ける。

 ブレード。

 それはこの身体の名。

 でも今は、その名で呼ばれたくない。


 俺は必死に、頭の中で繰り返す。


(堀口健太)

(堀口健太)


 すると黒い扉の縁が、僅かに歪んだ。

 紙が湿るみたいに。


 セラが言う。


「いい。

 あなたの名前が、幻を汚してる」


 汚す。

 秩序にとっては汚れ。

 俺の側にとっては抵抗。


 リナが囁いた。


「走る」


 三人で廊下を駆ける。

 黒い扉の声が追ってくる。


「戻りなさい」

「導きが必要だ」


 その声に混じって、

 別の声が重なった。


 笑い声。

 喉の奥で鳴る笑い。


 背教の狩人の声。


「いいね。

 迷うほど、剥ぎやすい」


 敵同士の声が、同じ廊下にいる。

 現実じゃない。

 でも現実より怖い。


 中庭へ出る扉が見えた。

 セラが紙片をかざす。

 扉の前の見張りが一瞬だけ目を曇らせた。


 俺は小さく呟く。


「……忘却」


 銀鎖が冷え、

 見張りの目から目的が抜け落ちる。


「……あれ、俺、何しに……」


 その隙に扉を開け、

 夜の空気へ飛び出した。


 中庭。

 月明かり。

 噴水。

 そして――古井戸。


 石で組まれた円。

 井戸の縁に、薄い祈祷文が刻まれている。


 セラが息を呑む。


「……封印が進んでる」


 内通者が封じようとしている。

 だから急ぐ。


 リナが周囲を見回す。


「巡回、来る」


 足音。

 鎧の擦れる音。

 複数。


 セラが井戸の縁に手を置いた。

 指先が震える。

 でも動きは迷わない。


「健太。

 井戸の中を覗いて」


 嫌だ。

 覗いたら、また地球の影が見える。

 死体が見える。

 欠けた名前の残骸が見える。


 それでも、覗くしかない。


 俺は井戸の縁へ近づき、

 中を覗いた。


 闇。


 闇の底に、薄い光。

 雨の匂い。

 そして――紙の匂い。


 “残骸”がある。


 その瞬間、井戸の縁の祈祷文が光った。

 輪の模様が浮かび上がる。


 背後から、あの男の声。


「そこだと思った」


 振り返ると、

 伯爵家の礼装の男が立っていた。

 笑顔。

 しかし周囲には、教会装備の護衛が並んでいる。


「逃げてもいい。

 導きは必ず追いつく」


 リナが剣を抜く。


「近づくな!」


 男は優しく首を振る。


「剣は無意味だよ。

 名を縛るのが教会のやり方だ」


 男が指を鳴らす。

 護衛が一斉に祈祷文を唱え始めた。


 空気が薄くなる。

 井戸の中の光が、逆に強くなる。


 誘導。

 井戸へ落ちろ、と言っている。


 セラが俺の袖を掴んだ。


「落ちる。今」


「え?」


「井戸は罠でもある。

 でも罠の中に、残骸がある」


 リナが叫ぶ。


「私も行く!」


 セラが頷く。


「三人で。

 離れたら終わり」


 男が笑う。


「いい選択だ。

 落ちなさい」


 その言葉が一番怖い。

 望まれている。

 俺たちの行動が、誰かの計画通り。


 それでも、止まれない。


 俺は息を吸い、喉が焼ける前に言った。


「……俺の名前は、堀口健太だ」


 銀鎖が一拍だけ緩む。

 今だ。


 三人は井戸の縁を蹴り、

 闇へ飛び込んだ。


 落下。

 冷たい風。

 雨の匂いが濃くなる。


 背後で男の声が追う。


「拾っておいで。

 そして戻りなさい」


 戻る。

 戻る先は、どこだ。


 闇の底で、

 薄い光が近づく。


 地球の影。

 事故現場。

 名前の残骸。


 そして――

 その光の中に、

 もう一つ、黒い輪が浮かんでいた。


 ウルボロスの輪が、

 井戸の底で笑っている。

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