第14話 伯爵家の紋章、そして“俺を知る子”
森を抜けた先に、古い街道があった。
石畳は割れ、草が隙間から伸びている。
でも、人が通る道だ。
俺とリナは息を切らしながら、
街道脇の茂みに身を隠した。
背後の森は静かだ。
さっきの野盗たちの足音が、まだ戻らない。
忘却は短い。
すぐに思い出す。
思い出した瞬間、怒りが増幅して追ってくる。
だから時間はない。
リナが小声で言った。
「今の……あなたの首輪の力?」
俺は頷き、首の銀鎖を指で押さえた。
冷たくなっている。
その冷たさが、さっきの“忘却”の残り滓だ。
「……使いすぎたら、どうなるの」
答えたくない。
でも嘘は、今の状況で毒になる。
「……俺の方が、削れる気がする」
リナの眉が僅かに動く。
怒りじゃない。
悔しさの色。
「……最悪」
同感だ。
その時、街道の向こうから馬車の音が聞こえた。
車輪が石を叩く、乾いた音。
複数。
護衛付きの隊列。
野盗なら、ここまで堂々と鳴らさない。
俺は息を止め、茂みの隙間から覗いた。
黒い馬車。
側面に刻まれた紋章。
――鷲と剣。
伯爵家の紋章だった。
いや、俺は“知らないはず”なのに、
瞬間で分かった。
身体が覚えている。
この紋章は、俺の今の“肉体”の家のものだ。
リナも気づく。
「……伯爵家」
隊列は速い。
だが、急いでいるようにも見える。
護衛の騎士が周囲を警戒し、
馬車の窓は閉じられている。
何かを運んでいる。
人か、物か。
そして――
その隊列の後ろに、
森の奥から遅れてついてくる影が見えた。
野盗だ。
さっきの連中。
忘却から回復した。
目に怒りが戻っている。
こちらを探しているのではなく、
“獲物”を探している目。
つまり野盗も、伯爵家の隊列を狙う。
リナが歯を食いしばる。
「やばい。
挟まれる」
俺の首の銀鎖が、弱く引いた。
伯爵家の方向へ。
呼ばれている。
家に戻れと言われている。
だが戻るのは危険だ。
教会の回収班に渡すだけになる。
それでも――
隊列に入れれば、少なくとも今の野盗は避けられる。
俺が迷っていると、
リナが先に動いた。
「伯爵家に合流する」
即決だった。
彼女の迷いが、また一段消えた。
「でも……教会が」
「教会は塔から出てきた。
この世界の外側まで追ってくる。
なら、味方になりそうな“現実”を掴むしかない」
現実。
伯爵家という現実。
血縁と領地と、
この世界の“居場所”。
リナは言い切った。
「私、あなたを連れて逃げるって決めた。
だから、伯爵家を使う」
使う、という言い方が正しい。
でも、それでも救われた。
今の俺には、頼れるものが少なすぎる。
俺は頷いた。
「……行こう」
茂みを抜け、街道へ飛び出す。
隊列の最後尾へ向けて走る。
護衛の騎士が気づき、槍を構えた。
「止まれ!」
リナが叫ぶ。
「聖光教会騎士、リナ・ベルハルト!
伯爵家へ緊急の報告がある!」
教会の名は、まだ効く。
護衛が一瞬ためらう。
その隙に、俺は叫ぼうとした。
でも言葉が焼けた。
代わりに、胸元の聖痕を見せるように襟を引いた。
光と闇の交差。
護衛の顔色が変わる。
この印は、
ただの伯爵家の子どもにはない。
「……憑依者」
護衛が呟いた瞬間、
後方の森から野盗が飛び出した。
「馬車を止めろ!」
「金だ! 荷だ!」
護衛が隊列を守るため散開する。
騎士と野盗がぶつかり、剣戟が始まる。
混乱。
その混乱の中心で、
馬車の扉が少しだけ開いた。
中から、顔が覗いた。
子ども。
俺と同じくらいの年。
髪は淡い金。
目が大きく、怯えている。
だがその目が、俺を見た瞬間、
怯えが“確信”に変わった。
「……ブレード、さま?」
その呼び方で、背中が冷たくなる。
俺はブレード・ファン・エイル。
この世界の俺の身体の名。
なのに、
その子の声は、懐かしい。
まるで、ずっと前から俺を知っているみたいに。
リナが叫ぶ。
「中へ!」
護衛がためらう。
だが馬車内の子が叫んだ。
「入れて!
その人は……その人は、必要なの!」
必要。
俺の胸の奥のアークが、
低く息を吐いた。
――見つかった。
――“鍵”を持つ子だ。
鍵。
俺は馬車へ飛び乗った。
リナも続く。
護衛が扉を閉め、鍵をかける。
外の剣戟の音が遠ざかる。
馬車が急加速する。
揺れる車内。
薄暗い。
香の匂いがする。
金髪の子が、俺の手を掴んだ。
指が冷たい。
でも力は強い。
「……やっと」
泣きそうな声。
でもその目は、泣いていない。
彼女は俺の首の銀鎖を見て、
唇を噛んだ。
「……教会にやられたのね」
教会にやられた。
知っている。
この子は、銀鎖の意味を知っている。
リナが警戒した声で訊く。
「あなたは誰?」
金髪の子はリナを一瞥し、
それから俺へ目を戻す。
「私は――セラ」
セラ。
短い名。
なのに胸がざわつく。
「伯爵家の客人。
でも本当は……」
彼女はそこで言葉を切り、
俺の耳元へ顔を寄せた。
囁き声。
「……“処置室”から、逃げ出した子よ」
背筋が凍った。
処置室から逃げた。
つまり彼女は、
候補だった。
候補を候補でなくされかけて、
生き残った。
リナの顔が硬くなる。
「嘘でしょう」
セラは微笑んだ。
「嘘じゃない。
証拠が欲しい?」
彼女は自分の襟を引き、
鎖骨の下を見せた。
そこにあったのは、
薄く残った“輪の痕”。
棘の輪に締められた跡。
俺の喉が焼け、
言葉が出ない。
セラが言った。
「あなたの銀鎖、外せる方法がある」
その一言で、
心臓が跳ねた。
セラは続ける。
「でも条件がある」
条件。
代償。
胸の奥のアークが、
静かに警告した。
――条件は必ず罠だ。
――だが、聞け。
――今は選べない。
俺は震える息で、
名前を失わないように頭の中で繰り返しながら、
セラを見た。
堀口健太。
堀口健太。
セラが、少しだけ悲しそうに笑った。
「あなた、もう欠けてる」
どうして分かる。
俺の中を覗いたみたいに。
彼女は囁いた。
「大丈夫。
欠けた名前は……拾える」
拾える。
その言葉が、
希望にも罠にも聞こえて、
俺は返事ができなかった。
馬車は夜の街道を走り続ける。
外の風の音が、少しずつ強くなる。
そして遠くで、
鐘の音がまた鳴った。
カン、カン。
まだ終わっていない。




