第13話 名前が欠ける音は、静かすぎて怖い
落ちた。
いや、落ちたというより、
世界が“滑った”。
裂け目は扉じゃない。
床が抜ける。
皮が剥がれる。
そんな感覚。
リナに抱えられたまま、俺は空気の中を転がった。
視界が白く弾け、次に黒く沈む。
胃が裏返る。
そして――
音が戻った。
ざあああ、という風。
砂利を踏む音。
遠くの犬の鳴き声。
俺は地面に転がり、咳き込んだ。
喉が焼ける。
首の銀鎖が、まだ熱い。
リナが周囲を確認し、俺を引き起こす。
「ここ……森?」
木々がある。
夜。
月が見える。
さっきまでの“地球の影”と違って、
これは――異世界の空気だ。
湿った土の匂い。
葉の匂い。
そして微かに、煙。
どこかに人がいる。
俺は息を吸い、
頭の中で自分の名を呼ぼうとした。
(堀口……)
そこで止まった。
“口”という文字が浮かばない。
いや、文字じゃない。
感触がない。
舌の上から、
その部分だけが削り取られたみたいに。
俺は震える。
「……り、な」
声がかすれた。
リナが即座に俺の顔を見る。
「……また欠けた?」
俺は頷くしかなかった。
あの路地で、
教会と背教が“名を剥がす”と言った。
剥がされたのは、記憶じゃない。
名前の“部品”だ。
欠けた部品は、
思い出の扉そのものを閉じる。
俺が堀口健太である根拠が、
静かに削れていく。
リナが歯を食いしばった。
「……言って。今すぐ」
「……なに、を」
「あなたの名前。
欠ける前に、口に出して固定する」
固定。
声にして、耳で聞いて、
世界に刻む。
俺は喉の焼けを無視して、息を吸った。
そして――言おうとした。
堀……
そこで喉が詰まった。
“堀”という音が、舌の上に乗らない。
出そうとすると、銀鎖が締まる。
痛い。
リナが俺の頬を両手で挟み、
目を逸らさせないように言った。
「私が言う。
あなたは、それを追いかけて発音して」
彼女の目が真剣だった。
嘘も迷いもない。
それが、今の俺には救いだった。
「……堀口健太」
リナがゆっくり、はっきり言う。
俺はその音を追いかける。
「……ほ……り……ぐち……けん、た」
喉が裂けそうになった。
銀鎖が熱い。
でも言えた。
言い切った。
その瞬間、銀鎖が僅かに緩んだ。
ぎち、という嫌な音がして、
でも締めつけが一拍だけ弱まる。
リナが小さく息を吐いた。
「効く……やっぱり」
名前は、武器になる。
名を呼ぶことが、鎖の結び目を揺らす。
俺は震える息で言った。
「……ありがとう」
リナは頷き、すぐに周囲へ目を走らせる。
「でも追われてる。
この裂け目、完全に振り切れてない」
確かに。
銀鎖がまだ“引く”。
弱くなっただけで、消えてはいない。
そして――
森の奥から、足音が聞こえた。
複数。
慎重。
狩りの足音。
リナが剣を抜く。
俺も身構える。
だが出てきたのは、教会でも背教でもなかった。
粗末なマントを羽織った男たち。
弓。短槍。
野盗のように見える。
でも目が違う。
獲物を見る目じゃない。
――“印”を見る目だ。
先頭の男が、俺の首元を見て目を細めた。
「……銀鎖」
知っている。
教会の封印具を知っている。
この世界の常識じゃない。
男が舌打ちする。
「教会の回収品か」
回収品。
俺は物扱いだ。
リナが一歩前へ出る。
「近づくな。
私たちは通行中だ」
男は笑った。
「通行?
その首輪で?」
周囲の男たちがじり、と距離を詰める。
「売れるんだよ。
教会に返せば褒美。
背教に渡せばもっと金になる」
背教にも売る。
つまりこの世界では、
俺みたいな“候補”は商品だ。
リナの剣先が少し下がる。
戦う姿勢。
でも数が多い。
俺は胸の奥でアークの声を探す。
(どうする)
返事は、すぐに来た。
――戦うな。
――殺すな。
――今のお前は弱い。
――使え。“道具”だ。
道具。
裂け目。
でも今は開けない。
開けば追跡が繋がる。
なら――別の道具。
俺は首の銀鎖に指をかけた。
熱い。
だが今は、熱を利用できる。
銀鎖の内側に刻まれた文字。
前に見た。
『忘却』
これを“外”へ向けたら?
俺は息を吸い、
口に出せる最短の言葉を選んだ。
「……忘、却」
銀鎖が反応した。
ぎち、と鳴って、
鎖の温度が一気に落ちる。
そして――
目の前の男の表情が、ふっと抜けた。
「……あ?」
男が自分の弓を見下ろし、首を傾げる。
「……俺、なんでここに」
周りの男たちも、同時に動きを止めた。
驚いたのはリナだ。
「今、何を……!」
俺自身も完全には分からない。
ただ、銀鎖は“記憶を削る”装置だ。
なら、他人にも効く。
ほんの数秒。
強い忘却じゃない。
“目的だけ”を薄くする。
それで十分。
「今!」
俺は叫ぶ。
リナが理解し、俺の腕を掴んで走り出した。
野盗たちは追わない。
追えない。
何をしようとしていたか忘れているから。
森を駆ける。
枝が顔を打つ。
息が苦しい。
でも、俺は確信した。
銀鎖は呪いであり、
武器でもある。
そして、
武器は使い方を覚えた者の味方になる。
リナが走りながら言う。
「……あなた、危ない。
でも……役に立つ」
役に立つ。
その言葉が、少しだけ痛かった。
俺が俺でいるために、
呪いを武器にする。
その代償が、
いつか必ず来る。
胸の奥のアークが、静かに言った。
――代償は、先延ばしにしただけだ。
――だが今は、生きろ。
俺は息を吸い、
もう一度だけ口に出した。
「……堀口健太」
言えるうちに。
削られる前に。
世界に刻むために。




