第11話 地球の影で見つけた“俺の死体”
避難経路の矢印は、やけに丁寧だった。
曲がり角ごとに同じ形の印。
誰かが繰り返し貼り直したみたいに、端が擦れている。
俺とリナは通路を走った。
背後から鐘の音が追ってくる。
カン、カン。
近い。
コンクリートが反響して、距離感が狂う。
でも確実に、“追い手”はいる。
矢印の先、鉄の扉があった。
非常口。
赤いレバー。
俺は迷わずレバーを引いた。
ガチャン。
扉が重く開く。
冷たい風が頬を打った。
匂いが、変わる。
雨の匂いが濃くなる。
アスファルトの匂いが近づく。
――地球。
そう思いたい。
でも胸の奥が、また否定する。
(違う。ここは“影”だ)
アークの声。
それは低く、落ち着いて、
まるで教え込むように言う。
――裂け目は“本物”と“影”を作る。
――道を安定させるために、
――似た景色を先に敷く。
敷く。
舗装みたいに。
世界を。
扉の外は、駅前に似た場所だった。
ただし――誰もいない。
看板の光は点いている。
信号も点いている。
なのに人がいない。
車もない。
音もない。
雨だけが、降っている。
リナが雨粒を見上げた。
「……雨が、音を立てない」
確かに。
水滴が地面に当たっても、
叩く音がしない。
世界が“無音”のまま、
見た目だけを整えている。
俺の首の銀鎖が鳴った。
カチ、カチ。
不快な節の音。
そして、引っ張られる。
この場所へ来たのが、正解だと言うように。
引っ張られる方向――駅の方。
リナが俺の腕を掴む。
「行くの?」
行きたくない。
でも行かなければ、
もっと悪いものに捕まる。
俺は頷いた。
駅前のロータリーへ近づくほど、
俺の胸がざわつく。
ここは知っている。
刺された場所に似ている。
風景の角度。
歩道の幅。
街路樹の位置。
そして――血の匂いが、ない。
あるはずの記憶なのに、匂いが抜け落ちている。
まるで、
事件の“中身”だけが削られているみたいに。
ロータリーの端に、警察の規制線があった。
黄色いテープ。
でも文字が読めない。
読めないのに、意味だけは分かる。
立ち入り禁止。
リナが眉をひそめた。
「……この世界、記憶を真似してる」
規制線の向こうに、
白い布が見えた。
シート。
人を覆う形。
俺の足が止まった。
止まった瞬間、銀鎖が強く引っ張る。
行け。
見ろ。
そう命令されている。
俺は震える息で、規制線をくぐった。
リナが後ろからついてくる。
白い布の手前に、
落ちているものがあった。
コンビニ袋。
その中身が、妙に鮮明だ。
飲み物。惣菜。
そして、割れたスマホの画面。
画面は真っ暗なのに、
俺の頭の中でだけ通知音が鳴った気がした。
ぴろん。
気持ち悪い。
この世界は、俺の死を“再現”している。
リナが低い声で言った。
「……見ない方がいい」
見ない方がいい。
でも、見てしまう。
俺は白い布に手を伸ばした。
指先が震える。
雨が音を立てないまま、俺の手の甲を濡らす。
布を、そっとめくった。
――俺がいた。
堀口健太の顔。
血の気が引いた。
息ができない。
心臓が止まりそうだ。
死体は、綺麗すぎた。
刺されたはずの腹に、傷がない。
血がない。
ただ目だけが、
虚ろに開いている。
そして――
その目の奥に、薄い黒い輪が浮かんでいた。
ウルボロスの輪。
俺が夢で見た輪。
俺は思わず後ずさった。
リナが支える。
「……これ、あなた?」
俺は答えられない。
答えた瞬間、自分が壊れそうだった。
死体の胸元に、紙が挟まっているのが見えた。
濡れているのに、破れない紙。
文字が、奇妙に整っている。
俺は恐る恐る、それを引き抜いた。
そこには、たった一行。
『堀口健太 処置:完了』
喉が焼けた。
銀鎖が一気に熱を持つ。
俺の指先から、紙が落ちる。
完了。
ここでも。
地球の影でも。
処置は追跡じゃない。
処置は“上書き”だ。
俺がどこへ逃げても、
名簿が追ってきて、
俺の名前を塗り潰す。
その瞬間、
死体の影が、遅れて動いた。
いや、違う。
影が“立ち上がった”。
白い布の下から、
黒い影がゆっくりと起き上がる。
死体は動かない。
動いているのは影だけだ。
影は人の形をして、
顔のないまま、こちらへ向いた。
リナが剣を構える。
「来る!」
影が口を開いた。
口がないのに、声だけが出る。
――返せ。
何を?
俺は手のひらを見る。
さっきの紙。
“処置:完了”の紙。
影はそれを欲しがっている。
紙じゃない。
紙に結びついたもの。
俺の名前。
アークの声が、低く言った。
――それが“結び目”だ。
――名簿の写し。
――燃やせ。破れ。
――上書きをほどけ。
燃やす?
どうやって。
雨だ。無音の雨。
影が一歩近づく。
足音はない。
でも距離だけが詰まる。
リナが俺の前へ出た。
「健太、後ろ!」
影が、リナへ伸びる。
剣が影を斬る。
ズバッ――。
斬れたはずなのに、影は裂けない。
刃が通った場所だけ、形が曖昧になる。
すぐに戻る。
リナが歯を食いしばる。
「効かない……!」
影が俺の方へ首を向けた。
輪の気配が濃くなる。
カン、カン。
鐘が、もうすぐそこだ。
追い手が合流する。
教会か、背教か、あるいは別の何かか。
俺は震える指で、紙を拾い上げた。
紙の端が、妙に“熱い”。
そこだけ乾いている。
燃える準備ができているみたいに。
……最初から燃やせるように?
俺は決めた。
ここで壊す。
結び目を。
俺の名前を縛る写しを。
俺は紙を両手で握り、
裂け目を引くように、指を走らせた。
ピシッ。
紙が裂けた。
その瞬間、
首の銀鎖が、ぎち、と鳴った。
痛みが走る。
初めての痛み。
影が叫ぶ。
――やめろ!
声が、輪の声に重なる。
怖気が走る。
それでも俺は、
裂けた紙をさらに引き裂いた。
ビリッ。
紙が破れるたびに、
銀鎖の熱が不安定になる。
締まったり、緩んだり。
リナが叫ぶ。
「今! 何か起きてる!」
影が俺へ飛びかかる。
俺は最後の一片を握り潰すように裂いた。
――バチン。
空気が弾けた。
雨が、初めて音を立てた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
世界が息をしたみたいに。
そして首の銀鎖が、
一瞬だけ――完全に緩んだ。
外れない。
でも、緩む。
足りない。
まだ結び目がある。
だが、確かに効いた。
影が形を崩し、
輪の気配が薄れる。
リナが俺の腕を掴んだ。
「走るよ!」
俺たちは規制線を飛び越え、
無音だった街を駆ける。
背後で鐘が鳴る。
カン、カン。
でもその音は、さっきより遠い。
いや――
追跡が一瞬だけ、乱れた。
俺は息を吸いながら、
震える喉で呟いた。
「……俺の名前は、堀口健太だ」
それだけは、何度でも言う。
言える限り、言う。
そうしないと、
俺は俺じゃなくなる。




