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第10話 銀鎖は切れない――切れるのは“名前”だけ

走っているのに、音がしない。


 俺とリナの足音が、広場の地面に吸われていく。

 呼吸だけが耳元でうるさい。


 なのに背後からは、鐘。


 カン、カン。


 見えないはずの音が、確実に距離を詰めてくる。

 音だけが追ってくる。

 いや、音じゃない。


 “呼び戻す力”が、追ってくる。


 首の銀鎖が引っ張られた。

 ぐい、と。

 首が持っていかれそうになる。


「っ……!」


 リナがすぐに俺の腕を掴み、体勢を支える。


「止まらないで!」


 止まれば、戻される。

 戻されれば、処置が完了する。


 俺は歯を食いしばって走った。

 息が熱く、喉が痛い。

 なのに声を出すと、銀鎖が焼く。


 言葉を奪う首輪。

 でも――走ることは奪えない。


 広場を抜けると、道があった。

 いや、道というより線だ。


 建物が並んでいるのに、入口がない。

 看板があるのに、広告がない。

 窓があるのに、生活の気配がない。


 “地球に似せた皮膜”。

 アークの言葉が頭に残っている。


 ここは本物の街じゃない。

 裂け目の周囲が、地球の匂いを借りているだけ。


 リナが息を切らしながら言った。


「……この世界、気持ち悪い」


「……同感」


 短く返しただけで、銀鎖が熱を持つ。

 俺は舌打ちしたくなった。


 その時、前方の曲がり角に、あの人影がいた。

 黒いコート。

 存在が薄いのに、見逃せない。


 裂け目の免疫。

 番人。


 人影は俺たちが近づくのを待っている。

 逃げる道を塞ぐでもなく、

 追っ手を呼ぶでもなく。


 ただ――

 “行け”と言うように、指を一本上げた。


 次の瞬間、

 曲がり角の向こうの壁が“薄く”なった。


 紙がふやけるみたいに、空間が透ける。

 その向こうに、暗い廊下が見えた。


 廊下。

 塔の廊下とは違う。

 もっと粗雑で、もっと生々しい。


 人影が短く言う。


「ここ」


 リナが俺を見る。


「行くしかない」


 俺は頷いた。

 追われている。選択肢は少ない。


 俺たちは“薄い壁”をすり抜けた。


 身体が冷水をくぐるみたいにぞくりとし、

 視界が一瞬、白く弾ける。


 次の瞬間、

 俺たちは狭い通路に立っていた。


 コンクリート。

 配管。

 蛍光灯がチカチカと瞬いている。


 今度こそ、生活の匂いがした。

 油。埃。湿気。

 そして――人の匂い。


 リナが口元を押さえる。


「……ここは、本物?」


 俺も分からない。

 だが“通路”の外側より、ずっと現実だ。


 背後の薄い壁は、もう見えない。

 閉じた。


 ……閉じたのに、鐘は止まらない。


 カン、カン。


 音が、コンクリートに反響して近づいてくる。


 リナが歯を食いしばり、俺の首元を見た。


「それ、切れないの?」


 俺は銀鎖に指をかける。

 冷たい。

 そして、妙に“生きている”。


 リナが剣を抜き、鎖へ刃を当てた。


 ギィン――。


 刃が弾かれた。

 金属というより、石を斬った時の反発。


 リナが目を見開く。


「……硬い」


 もう一度。

 今度は角度を変える。


 ギィン。


 同じ。

 剣が欠けそうになり、リナが手を止めた。


「……普通の鎖じゃない」


 俺は息を吸い、呟く。


「……処置は追跡になる、って言ってた」


 首輪は檻じゃない。

 位置情報でもない。


 もっと根本。

 “俺の存在”を教会の秩序に縫い付ける仕組み。


 胸の奥でアークが言った。


 ――切れない。

 ――それは金属ではなく“誓約”だ。

 ――教会の名簿と、お前の名前を繋いでいる。


 名簿。

 俺の名。

 処置:完了。


 喉が詰まる。


 リナが小声で言った。


「じゃあ、どうするの」


 俺は答えようとして、

 言葉が喉で焼けた。


 代わりに、視界の端に“貼り紙”が見えた。

 通路の壁。

 古い案内図。


 そこに、読める文字があった。


 ……日本語。


 でも、少しだけ形が歪んでいる。

 まるで誰かが、見えない手で真似したみたいに。


 案内図には、こう書かれていた。


 『避難経路→』


 リナが眉をひそめる。


「……この世界、文字まで作れるの?」


 作れる。

 裂け目は“繋ぐ”。

 繋ぐために必要なものは、模倣できる。


 俺は矢印の先を見る。

 通路の奥が暗い。

 そこに風が吸い込まれている。


 穴がある。


 そして穴の奥から、

 あの匂いがした。


 アスファルトの匂い。

 雨の匂い。


 “地球”の匂い。


 リナが囁く。


「行く?」


 行くしかない。

 でも行ったら、

 俺はもっと思い出す。


 思い出したら、

 銀鎖が“忘却”を強める。


 その時、

 背後のコンクリートに、影が映った。


 人影じゃない。

 輪だ。


 丸い影が、壁を滑る。

 天井の蛍光灯が揺れた。


 カン、カン。


 鐘が、すぐそこまで来ている。


 リナが俺の腕を掴んだ。


「健太!」


 呼ばれた瞬間、

 銀鎖がほんの一拍だけ緩んだ。


 ……名前。


 切れないのは鎖。

 でも切れるものがある。


 “結び目”だ。


 俺は口を開き、

 喉が焼ける前に言い切った。


「……俺の名前は、堀口健太だ」


 銀鎖が鳴った。

 痛みはない。

 代わりに、鎖の奥で何かが軋んだ。


 紙が裂ける音。


 そして胸の奥で、アークが低く言った。


 ――そうだ。

 ――名を守れ。

 ――鎖を切れないなら、

 ――“結びつける側”を切る。


 結びつける側。

 名簿。

 教会の秩序。


 俺は理解した。


 この銀鎖は、俺が“俺である限り”外れない。

 逆だ。

 俺が俺でなくなれば、外れる。


 だから教会は処置をする。

 堀口健太を消して、

 管理しやすい何かに変える。


 ……だったら。


 消される前に、

 こちらから“結び目”を壊す。


 俺は矢印の先へ走り出した。

 リナが追う。


 背後で、鐘が鳴り続ける。


 カン、カン。


 その音はもう、

 追跡じゃない。


 “回収”だ。

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