国王崩御と19歳の戴冠
1774年5月のヴェルサイユ宮殿は、特有の重苦しい熱気と、言い知れぬ不安の空気に包まれていた。
広大な宮殿の奥深く、国王ルイ15世の寝室の扉の前に、重臣や王族たちが息を潜めて集まっている。床を伝う足音さえも憚られるその静寂の中で、聞こえてくるのは荒い寝息と、かすれたうめき声だけだった。
天然痘に似た悪性の皮膚病である「天疱瘡」が、老いた国王の体を蝕んでから数日。高熱にうなされ、全身に広がったただれに苦しみながら、ルイ15世はその生涯の幕を閉じようとしていた。長年「愛妾」たちの政治介入を許し、フランスの財政を傾けた「最愛王」と呼ばれた男の最期は、あまりにも孤独で無残なものだった。
そのベッドのすぐ傍らに、背筋を真っ直ぐに伸ばして立ち尽くしている青年がいた。
若き皇太子、ルイ・オーギュスト――まもなくルイ16世として、この強大な王国の運命を背負うことになる19歳の青年である。
(ついに、その時が来たか……)
ルイは、目の前で苦しむ祖父の姿を見つめながら、静かに息を整えた。
史実において、ルイ15世が崩御したとき、19歳のルイは「私にはまだ若すぎる! 国を治める自信がない!」と泣き叫び、恐怖に震えながら妻のマリーと共に逃げ出そうとしたという。その気弱で決断力のない姿こそが、当時の宮廷に絶望を与え、最初から「頼りない王」という烙印を押される原因となった。
だが、今のルイの瞳に恐怖の色は微塵もなかった。
前世の記憶という圧倒的な知見を持ち、テュルゴーを登用し、じゃがいもの普及で飢饉への防壁を作り、フェルセンやマリーと共に着々と布陣を整えてきた彼にとって、この即位は運命に押し流される悲劇ではない。自らの手で歴史の軌道を完全に修正し、フランスを救うための「最大の好機」にほかならなかった。
やがて、主治医が深い絶望の色を浮かべた顔で頭を垂れ、小さく首を横に振った。
「……陛下が、息を引き取られました。国王陛下のご逝去であります……!」
その声が響いた瞬間、寝室の外で控えていた数百人の貴族や官僚たちが一斉に膝をつき、声を合わせて叫んだ。
「国王陛下万歳……! 国王陛下万歳――ッ!!」
こうして、歴史の歯車は音を立てて回り始めた。19歳の若きルイ16世の誕生である。
戴冠式の準備は、驚異的なスピードで進められた。通常であれば、新しい国王の即位には莫大な費用を投じて盛大な祝宴が催され、各地の貴族たちへ過剰な恩賞がばらまかれるのが慣例だった。しかし、即位したばかりのルイ16世が最初に出した下命は、周囲の予想を完全に裏切るものだった。
「祝宴の規模を三分の一に縮小し、余った予算はすべて首都パリおよび周辺地域の農村の備蓄金に回せ。さらに、私個人の即位に伴う宮廷費、および王室が抱える無駄な装飾品の購入予算を、今後一切凍結する」
この布告が宮廷に伝わったとき、大臣や古参の官僚たちは耳を疑った。
「な、何を考えておられるのだ! 即位の祝宴を縮小するなど、我がフランス王国の威信に関わる! 諸外国の使節団の前で、王家の権威が地に落ちるぞ!」
「宮廷費の凍結だと? 我々貴族に支給される年金や手当はどうなるのだ! このままでは生活が成り立たない!」
ヴェルサイユの廊下は、既得権益を脅かされた貴族たちの怒りと困惑のざわめきで連日満ち溢れていた。彼らにとって、王位の交代とは「自分たちへの恩給が増えるお祭り騒ぎ」であり、宮廷の華やかさこそが国の力の証明だったからだ。
しかし、ルイはそのような反対の声を一切聞き入れなかった。
財務総監として続投したテュルゴーを全面的にバックアップし、王室の無駄な支出を徹底的に削ぎ落とす「緊縮財政」の断行を宣言した。王自らが贅沢を慎み、財政の健全化に命を懸けている姿を見せなければ、国民からの信頼など勝ち取れるはずがないことを、ルイは骨身にしみて知っていたからだ。
そして迎えられた、ランス大聖堂での戴冠式の当日。
荘厳なパイプオルガンの音色が響き渡る中、聖油を注がれたルイ16世は、重い黄金の王冠を頭上に戴き、祭壇の前に進み出た。
集まった高位聖職者、諸侯、そして遠方から駆けつけた数多くの特権階級の者たちは、新しい若い王がどのような言葉を発するのかと、息を殺して注目していた。
ルイはマイク……ではなく、澄んだ声を大聖堂の隅々まで響かせるように、ゆっくりと前を向いた。その眼光は、19歳という年齢からは信じられないほど鋭く、圧倒的な威厳に満ちていた。
「――諸君、耳を貸せ」
その静かで、しかし揺るぎない声に、ざわめいていた大聖堂がぴたりと静まり返った。
「我が祖父、ルイ15世が遺したものは、華やかな宮廷の栄華だけではない。それは、重く暗い借金の山であり、日々のパンにも苦しむ数百万の民たちの疲弊した生活である。王家の権威とは、贅沢なドレスや無駄な祝宴の数で保たれるものではない。それを支える民衆の暮らしが豊かであってこそ、初めて真の光を放つものだ」
どよめきが広がりかけたが、ルイは鋭い手の動きでそれを制し、さらに声を大にして宣言した。
「本日この時より、我がフランス王国は国家の再建に向けた大方針を転換する。第一に、過酷を極めた地方の直接税――『タイユ税』および『ラヴェール税』の税率を、全面的に引き下げる。民衆の負担を軽減し、国内の商業と農業の血流を再び蘇らせる!」
「なっ……!?」
「減税だと!? それでは王室の財政が完全に破綻してしまうぞ!」
高位の貴族や大商人たちの間から、悲鳴に近い叫び声が上がった。自分たちの利益や年金が削られるだけでなく、一般の農民や市民への課税を引き下げるというのだから、彼らにとっては寝耳に水どころか、死活問題だった。
しかし、ルイの宣言はそこで終わらなかった。
「第二に、王室および宮廷にかかるすべての維持費を、これまでの半分以下にカットする。私自身、そして我が妻である王妃マリー・アントワネットは、贅沢品の購入を一切禁じ、質実剛健を王家の規範とする。国民が苦しんでいるときに、王族だけが贅沢に溺れることは、もはや絶対に許されない!」
その言葉を聞いた瞬間、大聖堂の隅で列に加わっていたマリー・アントワネットは、わずかに目を丸くしたのち、誇らしいような、そして愛おしいような深い笑みを浮かべた。彼女は自ら進んで豪華な宝石の装飾品を外し、上品かつシンプルで洗練されたリネンのドレスを纏ってこの場に立っていた。王が自ら率先して身を削り、民のために国を変えようとしている。その決意を、彼女は誰よりも深く理解し、支持していた。
「私は弱くない。逃げもしない。私は、フランスのすべての民と共に歩む王となる。――これより我が治世の幕を開ける!」
その即位演説は、従来の王権のあり方を根底から覆す、まさに「革命的な宣戦布告」であった。
伝統や特権にしがみつく保守派の貴族たちにとっては悪夢のような始まりだったが、噂を聞きつけたパリの市民や地方の農民たちの間には、瞬く間に熱狂的な歓喜の波が広がった。
「新しい王様は、我々の苦しみをわかっておられる……!」
「減税だ! これまで重税に苦しんでいた我々に、救いの手が差しのべられたぞ!」
パリの街頭では、民衆が歓声を上げ、若きルイ16世の即位を心から祝う祝祭ムードに包まれた。新聞や街頭のビラは、新しい王の「質素倹約と減税の誓い」を讃える言葉で埋め尽くされ、王家に対する信頼感はかつてないほど高まっていた。
ヴェルサイユ宮殿に戻ったルイは、長時間の儀式と緊張から解放され、執務室の椅子に深く腰掛けた。
心地よい疲労感が全身を包む中、扉が静かに開いて、マリーが入ってきた。彼女の手には、温かいハーブティーを入れた銀のカップが握られていた。
「お疲れ様、あなた」
マリーは優しく微笑みながらカップをルイの机に置き、その背中にそっと手を回した。
「今日のあなたの演説、素晴らしかったわ。大聖堂にいた古い貴族たちの顔なんて、青いレモンみたいになって震えていたもの。見ていて痛快だったわよ」
ルイはカップを受け取り、一口飲んでからふっと笑った。
「ありがとう、マリー。だが、本当の戦いはここからだ。宮廷費を削り、減税を行えば、当然ながら既得権益を奪われた連中が水面下でどんな陰謀を企てるか分からない。ミラボオーの諜報網をさらに強化し、反逆の芽を完全に摘み取らなければならない」
「ええ、わかっているわ」
マリーはルイの隣に腰を下ろし、その肩に自分の頭をそっと預けた。
「でも、あなたには私がいるし、フェルセンも、テュルゴーも、みんながついているわ。史実のあなたとは違う。あなたは、一人で背負い込んでいるわけじゃないもの」
その温かな体温と信頼の言葉に、ルイの胸の内に深い安堵と、さらなる闘志が湧き上がってきた。
19歳で王位に就いたルイ16世の治世は、こうして旧体制の膿を自らの手で抉り出すという、痛みを伴う改革の道へと踏み出した。
だが、その足取りに迷いはなかった。史実では断頭台へと続くはずだった悲劇のロードマップは、今や完全に書き換えられ、フランス王国を全く新しい未来へと導く「黄金の航路」へと姿を変えつつあったのである。




