アメリカ独立の罠をかわす
1776年の春、大西洋の彼方から届いた一通の報せは、ヴェルサイユ宮殿の静寂を一瞬にして引き裂いた。
英領北アメリカの13植民地がイギリス本国からの独立を宣言し、武力闘争の火蓋を切ったというのだ。
このニュースは、瞬く間にフランス宮廷の隅々にまで駆け巡り、貴族たちや軍部を狂喜乱舞させた。
「ついに宿敵イギリスに天罰が下ったぞ!」
「七年戦争の屈辱を晴らす絶好の機会だ! すぐに軍を派遣し、アメリカの反乱軍を全面的に支援すべきだ!」
廊下やサロンのあちこちで、血気盛んな若き士官や、イギリスへの復讐心に燃える旧来の貴族たちが声を大にして叫んでいた。長年イギリスの海洋覇権と植民地競争に敗れ続け、悔し涙を呑んできたフランス軍部にとって、この独立戦争は「失った威信を取り戻すための聖戦」に他ならなかった。
しかし、その熱狂の只中で、国王執務室の窓辺から庭園を冷ややかに見下ろすルイ16世の表情は、どこまでも凍りついていた。
(――来たか。史実では、ここで当時のルイ16世は周囲の主戦論に流され、多額の軍資金と海軍をアメリカへ派遣した。その結果、目も当てられないほどの莫大な戦費が国家財政を完全に圧迫し、数年後の国庫破産、そして自らを破滅へと導く革命の引き金を引くことになった……)
前世の記憶を持つルイにとって、このアメリカ独立戦争への介入こそが、フランス王国を地獄へ突き落とす最大の「罠」であった。
どれほど大義名分が美しかろうとも、どれほどイギリスを叩きたいという衝動に駆られようとも、今のフランスが他国の戦争に全力を注ぐ余裕など一文もない。テュルゴーの必死の財政再建や、自らが断行した宮廷費のカットによってようやく息を吹き返しつつある国家経済が、大規模な遠征費と海軍の維持費によって一瞬で粉砕されることは火を見るより明らかだった。
「陛下、外の者たちが騒がしゅうございます」
重厚な木製の扉が静かに開き、特命外交官としての任を帯びたアクセル・フォン・フェルセンが入ってきた。彼の端正な顔立ちには、かすかな緊張の色が浮かんでいる。
「外相のヴェルジャン伯爵をはじめとする主戦派の閣僚たちが、ただいま謁見を求めて参っております。彼らは、アメリカの特使であるベンジャミン・フランクリンを受け入れ、直ちに義勇兵と艦隊を派遣すべきだと息巻いています」
ルイは振り返り、ゆっくりと執務机の椅子に腰掛けた。
「分かっている。奴らは『イギリスを弱らせれば、フランスの覇権が戻る』という古い夢から一歩も抜け出せていない。だが、その夢の代償がどれほど重いか、彼らは計算すらしていないのだ」
「おっしゃる通りです」フェルセンは深く頷いた。「我が国が直接参戦すれば、イギリス海軍との全面衝突は避けられず、戦費は雪だるま式に膨れ上がります。しかも、北米での勝利がそのままフランスの利益になる保証などどこにもない」
「そうだ。血を流すのはアメリカ人で、借金を背負うのはフランス人。そんな愚かしい構図に、この私が乗るわけにはいかない」
ルイが冷徹に言い放ったその時、執務室の扉が勢いよくノックされ、許可も待たずに外務大臣のヴェルジャン伯爵が飛び込んできた。その後ろには、数名の軍高官たちが険しい顔つきで続いている。
「陛下! お耳に入っていることと存じますが、北米の英植民地が独立のための立ち上がりを見せました! 今こそ我がフランスが彼らを支援し、イギリスの鼻を明かす絶好の機会にございます!」
ヴェルジャン伯爵は興奮した面持ちで一気にまくし立てた。
「我が国の誇りにかけて、直ちに軍資金の提供と、ラ・ファイエット侯爵ら志願兵の渡海、そして大西洋艦隊の派遣をご決断ください!」
部屋にいる他の官僚たちも、一斉に賛同の声を上げた。
「そうだ! 今こそ宿敵に一撃を加えるべきです!」
「王国の威信を示さねば、諸外国から臆病風に吹かれたと笑われますぞ!」
喧噪に包まれる部屋の中、ルイは一切動じず、ただ冷たい眼光を彼らに向けた。その沈黙の圧力に気圧されたのか、ヴェルジャン伯爵の声がわずかに小さくなった。
「……陛下? 何か、ご懸念でもおありでしょうか」
ルイはゆっくりと立ち上がり、机の上に置かれた国家財政の分厚い試算表を指で軽く叩いた。
「懸念、だと? ヴェルジャン、君は先ほどから『我が国の威信』や『イギリスへの復讐』と口にしたが、この試算表の数字を見たことがあるか?」
「は……それは、財政の数字にございますが……」
「そうだ。我が国の負債は、先代からの累積によりすでに限界に達している。私が即位して以来、宮廷費を削り、減税を行い、ようやく国家の血流を整えつつあるというのに、ここで大規模な海軍を派遣し、海外で戦争を行えば、戦費は優に数億リーブルを超える。その膨大な資金を、一体どこから調達するつもりだ?」
ルイの鋭い問いかけに、ヴェルジャン伯爵は言葉につまった。
「そ、それは……国債を発行し、国内外の銀行家から借り入れを……」
「借金の上塗りで戦争を買うというのか!」
ルイの声が執務室の空気を震わせた。その圧倒的な気迫に、周囲の軍高官たちが思わずたじろぐ。
「他国の独立のためにフランスの財政を破綻させ、自国の農民たちを再び飢えと重税の苦しみに突き落とす。それが君たちの言う『王国の威信』か! 自分の足元が崩れ落ちていることも見えずにおいそれと他国の喧嘩に首を突っ込むなど、愚か者の極みだ!」
「し、しかし陛下! アメリカを見捨てれば、我が国は国際的な信義を失い、イギリスに単独で処理されてしまいます!」
「見捨てるとは言っていない」
ルイは冷たく言い放ち、手元の別の書類を彼らの前に放り投げた。
「我が国が直接軍を派遣し、血を流す必要はない。だが、イギリスを苦しめる方法が武力行使だけだと思っているなら、君たちの外交官としての脳ミソは飾り物以下だ」
書類を拾い上げたヴェルジャン伯爵が、そこに書かれた文字を目にした瞬間、目を見開いた。
「こ、これは……『中立貿易による物資供給および非公式支援』……?」
「そうだ」ルイは冷徹に微笑んだ。「我々は直接参戦しない。イギリスとの公式な戦争状態には入らず、あくまで『中立国』の立場を貫く。だが、中立商船を通じて、北米の独立派に対し、銃器、火薬、軍衣類などの必要物資を密かに、しかし大量に売り渡すのだ」
「なっ……! それではまるで、商売ではありませんか!」
「そうだ、ただの商売だ。だが、考えてもみろ。血を流さずにイギリス軍を苦しめ、なおかつアメリカの独立派から莫大な代金を現金で回収する。さらに、イギリスが海上封鎖を行おうとも、中立国の権利を盾にしてヨーロッパ中の商船を我が国の港に集め、中継貿易で莫大な利益を上げる。戦争で金を失うのではなく、戦争を『巨大なビジネスチャンス』に変えるのだよ」
そのあまりにも現実的で、かつ冷徹な外交戦略を聞いたヴェルジャン伯爵たちは、絶句したまま動けなくなった。
イギリスと正面切って戦争をすれば破滅する。しかし、無視するわけにもいかない。その絶妙なバランスの上で、フランスは直接的な軍事リスクを一切負うことなく、裏からアメリカを支援しつつ、経済的な利益だけを根こそぎ吸い上げるというのだ。
「……陛下、それは……あまりにも狡猾な……いえ、見事なまでの経済外交にございます」
ヴェルジャン伯爵は冷や汗を拭いながら、深々と頭を下げた。軍高官たちも、もはや反論する言葉を持たなかった。感情的な復讐心ではなく、冷徹な国家利益と財政の維持を最優先するこの若い王の決断は、国を破滅から守るための唯一にして最高の防壁だったからだ。
「方針は決定した。フェルセン」
ルイは振り返り、側近として控えていたスウェーデン人の青年に目を向けた。
「御意に、陛下」
「裏ルートを通じて、北米の特使たちに我が国の条件を伝えろ。直接的な兵の派遣はしないが、武器弾薬と資金の融通、および中立港の提供は惜しまない。ただし、その代金と見返りとして、戦後の北米における貿易最恵国待遇を約束させよ」
「かしこまりました。完璧に遂行いたします」
フェルセンが静かに一礼して部屋を出て行くのを見送りながら、ルイは心の中で深く息をついた。
(これでいい。史実のようにフランスが自ら巨額の借金を背負ってアメリカのために血を流し、その結果として自国の財政を崩壊させるという最悪の未来は回避された。イギリスはアメリカとの泥沼の戦争で疲弊し、我が国は中立貿易の利益でむしろ国庫を潤す……!)
数日後、ルイのこの現実的な外交方針は、密かに、しかし着実に実行に移された。
フランスの造船所や商工業都市からは、表向きは「中立の商業活動」と称しながら、実際には大量の武器弾薬を満載した商船が次々と大西洋へ送り出された。イギリス海軍はこれを察知して猛抗議したが、フランスが正式な参戦をしていない以上、強硬な手段に出ることもできず、ただ歯噛みして悔しがるしかなかった。
パリのサロンやヨーロッパ各国の外交界では、このルイ16世の「驚異的なまでの冷徹さと経済的合理性」が大きな話題となった。
「若きフランス国王は、戦火を巧みに避けて漁夫の利を得る天才かもしれないぞ」
「かつての傲慢な軍事大国ではなく、実利と財政の健全化を重んじる賢王としての評判が、諸国の商人たちの間で高まっている」
宮殿の私室に戻ったルイを待ち受けていたのは、温かい笑顔を浮かべたマリー・アントワネットだった。彼女は手元の新聞記事から顔を上げ、夫に優しく微笑みかけた。
「あなた、すごい評判よ。パリの商工業者たちの間では、『我々の王様は、戦争をしないで金儲けをする最高の商人だ』って、みんな感謝しているわ」
ルイはソファに深く腰掛け、苦笑しながらワイングラスを受け取った。
「商人と褒められたいわけではないさ。ただ、我が国の民をこれ以上無意味な戦費の重圧で苦しめないための、当然の処置だ」
マリーはルイの隣に腰掛け、その肩にそっと頭を預けた。
「ええ、知っているわ。あなたがどれほどこの国と、民の暮らしを守るために心を砕いているか。……ねえ、あなたのおかげで、今のフランスはどんどん強くなっているわね」
窓の外では、夕暮れのヴェルサイユの空が美しく黄金色に染まり始めていた。
アメリカ独立戦争という世界規模の激動の嵐の中にあっても、ルイ16世の導くフランスは、かつての脆弱さを完全に脱ぎ捨て、強靭で揺るぎない富と秩序の王国へと着実に歩みを進めていたのである。




