第八章 水路
ゲイル・イグナティアが討たれてから、五日が経った。
第一領は混乱の中で、ゆっくりと形を取り直しつつあった。
弟フィン・イグナティアが暫定領主として就任した。本邸の執務室にはダンテさんと、サイラスさんと、アドニスが詰めていた。日々運ばれてくる嘆願書、配水路の管理権限の引き継ぎ、ゲイル時代の不正の洗い出し、それらを片付けていた。
俺はそういうものに関わる立場ではなかった。
俺は剣士だ。書類は読めない。書けない。だから屋敷の警備に回された。エルクとノルベルトと一緒に、屋敷の門と庭と廊下を交代で見張った。
屋敷の警備は、退屈だった。
退屈で、時々、配水路の管理権限の引き継ぎ作業を遠目に見ていた。屋敷の中庭に大きな図面が広げられて、サイラスさんと配水技師たちが線を引いていた。
第一領の配水路網。
ゲイル時代に末端の村への流量を絞っていた箇所が、いくつもあった。それを順次、解除していく作業だった。
俺はその図面を見るたびに、ドゥナ村のことを考えた。
ドゥナ村にはもう水が届いている、と斥候が言っていた。完全には戻っていないが、井戸が枯れる前の量に近づいている。母さんとアネットは、今、何をしているだろう。父さんは、ヨナスじいさんは、どうしているだろう。
考えても、すぐには会えない。
* * *
五日目の夕方、ダンテさんが反乱軍全員を屋敷の前庭に集めた。
集まった兵士は、ゲイル襲撃に参加した五十二人、それから後続で合流した十八人、合計七十人。屋敷の中で動いているサイラスさんとフィンの執務班は別だった。
ダンテさんが石段の上に立った。
「お前たちに、伝えておくことがある」
ダンテさんの声は、いつもより低かった。
「第一領のゲイルは討った。だが、これは戦争の終わりじゃない。始まりだ」
ダンテさんは間を置いた。
「腐敗貴族はゲイル一人じゃない。第二領、第三領、その他の領にも、ゲイルと同じことをしている貴族がいる。そして、それを許してきた構造そのものが、王朝中央にある。中央を変えなければ、第二、第三のゲイルが生まれ続ける」
兵士たちが頷いた。
「俺たちの次の目標は、王都だ」
兵士たちの間にざわめきが走った。
「王都へ進軍する。アルジャール王朝中央を倒し、新しい統治を立てる。これが、俺たちの戦争の最終目標だ」
ダンテさんは、それから振り返った。
「アドニス、来い」
アドニスが石段に上がった。
* * *
アドニスはフードを脱いでいた。
銀色の髪が夕陽に反射した。整った顔が露わになって、兵士たちの何人かが息を呑んだ。彼の正体は、ゲイル襲撃の前日にダンテさんから全兵士に開示されていた。だが顔をはっきり見るのは、多くの兵士にとって今日が初めてだった。
「お前たちに、私から話すことがあります」
アドニスは静かに切り出した。
声は大きくはなかった。だが、夕方の風の中で、よく通った。
「私は、私自身を、皆さんに紹介します。私の名はアドニス・イグナティア。第一領前領主ゲイルの長男です。先日、私は父を、自らの手で斬りました」
兵士たちは黙って聞いていた。
「私が父を斬った理由は、家督を捨て、父の罪と決別するためでした。それは、私個人の理由です。皆さんの戦争とは、別の話です」
アドニスは間を置いた。
「皆さんが戦っている理由は、それぞれ別です。水のため、家族のため、税のため、自由のため。理由は人それぞれで、私が一つの言葉でまとめるべきではない」
俺は黙って聞いていた。
俺の理由は、村に水を戻すことだった。それは今、現実になりかけている。なら、なぜ俺はまだ戦うのか。それを、アドニスは今、整理しようとしている、と思った。
「ですが、皆さんと私が共通して持っているものが、一つあります」
アドニスは続けた。
「それは、配水路に対する怒りです」
兵士たちが、わずかに身を乗り出した。
「アルジャール王朝の支配の根幹は、水の配分にあります。中央が水を握り、貴族領が中継し、村が末端で受ける。この構造の中で、中継の貴族が腐敗すれば、村が干上がる。それが、私たちの目の前で起きていたことです」
アドニスはそこで、屋敷の中庭の方を指した。
配水路の図面が広げられている方向だった。
「ゲイルを斬っても、構造は変わりません。フィンに代えても、フィンが腐敗しないとは限らない。次の代の腐敗を防ぐには、配水路を中央集権から外す必要があります。配水路を、王朝の独占から、民の共同管理へ。それが、私の戦後の構想の核です」
兵士たちが、初めて反応した。
頷く者、戸惑う者、声を上げる者。
「民の共同管理って、どういう意味だ」
誰かが叫んだ。
「議会、と仮に呼びます」
アドニスは答えた。
「各領から代表者を選び、議会を作る。議会が水の配分を決める。王ではなく、議会が。これは、これから議論を重ねて詰める構想です。今日、ここで完成させる話ではありません」
「お前、それを今、話すのか」
「話します。なぜなら、皆さんが命を懸ける戦争の先に、何があるかを、皆さんに知っておいてほしいからです」
兵士たちは黙った。
「皆さんの理由は、それぞれです。水のため、家族のため、税のため、自由のため。それは正しい。それぞれの理由で、皆さんは命を懸けてくれています。ですが、戦争の先には、皆さんがそれぞれの理由を持ち寄って、議論する場が必要になります。その場を、私は議会と呼びたい」
アドニスは間を置いた。
「私個人の構想です。皆さんに押し付けるつもりはありません。ですが、戦争の先を、私はこう考えている。それを、皆さんに知っておいてほしかった」
兵士たちが、しばらく動かなかった。
動かない時間が、長かった。
最初に動いたのはノルベルトだった。
「アドニスさん」
ノルベルトは石段の下から声を上げた。
「俺は、書類が読めない。議会ってのも、よくは分からん。だが、お前が言ってることが正しいかどうか、判断する場があるってことは、分かる」
「はい」
「俺は、それでいい」
ノルベルトは肩をすくめた。
誰かが声を出した。それから別の誰かも。同意の声が、少しずつ広がっていった。
アドニスは深く頭を下げた。
* * *
演説の後、ダンテさんが進軍の日程を発表した。
明日、王都に向けて進軍を開始する。
第一領を出発し、配水路に沿って王都へ北上する。距離は十日。途中で第二領、第三領を通過する。両領の貴族と接触し、可能なら同調者を取り込む。同調しない領は迂回する。
兵士たちは粛々と頷いた。
集会が解散して、兵士たちは天幕に戻り始めた。
俺はその場に残った。
石段を降りてきたアドニスが、俺の前で止まった。
「アッシュ」
「ああ」
「聞いていただいて、ありがとうございました」
「お前のあの話、いつから考えてた」
「半年です」
「半年」
「家を出る前から、考えていました。父の腐敗を見ながら、何が必要なのかを。家を出てから、反乱軍に来てから、考え続けてきました」
「だから、毎晩書きものをしてたんだな」
「はい」
アドニスは少し笑った。
「あなたは、最初から私が何かを書いているのを見ていましたね」
「最初の夜から見てた」
「気づいていましたよ」
俺は驚いた。
「気づいてたのか」
「気づいていました。あなたが私を見ていることも、あなたが何度も話しかけようとして止めたことも」
「お前」
「すみません。気づいていて、応えませんでした。あの頃、私は誰とも話す気になれませんでした」
アドニスは俺の目を見ていた。
「今は、違います」
夕陽が、屋敷の壁を赤く染めていた。
アドニスの銀色の髪が、その赤い光の中で、別の色になっていた。
* * *
その夜、屋敷の屋上にいた。
屋上には誰もいなかった。屋敷の中の執務班も、兵士たちも、それぞれの天幕や部屋で休んでいた。明日の進軍に備えて、早く寝る者が多かった。
俺は寝つけなかった。
昼の集会のことが、頭の中で繰り返されていた。アドニスの声、兵士たちの反応、ノルベルトの「俺はそれでいい」という言葉。
俺は議会のことを、まだよく分かっていなかった。
分かっていないが、何かが変わろうとしている、ということは分かった。
屋上の縁に座って、星を見ていた時、足音が聞こえた。
アドニスだった。
いつもの巻物を持っていた。
「ここでしたか」
「ああ」
「隣、いいですか」
「どうぞ」
アドニスは俺の隣に座った。少し離れて。
しばらく、二人で星を見ていた。
夜空。第一領の屋敷から見る星空は、砂漠の野営地から見るものより、少しだけ明るく見えた。屋敷の中の灯りが空に滲んでいるせいだった。
「アッシュ」
「ああ」
「今日の集会、あなたには合わない話だったかもしれません」
「合わなかった」
俺は素直に言った。
「議会、ってのが、よく分からん」
「分からなくていいです」
「お前、分からん奴のために議会を作るのか」
「そうです」
アドニスは少し笑った。
「議会というのは、分かる人間だけのものではありません。分からない人間が、自分の言葉で意見を言える場でなければ、意味がない」
「俺の言葉なんて」
「あなたの言葉は、一番重要です」
「俺が」
「あなたの『村に水を戻したい』という言葉が、議会で議論される最初の言葉になるべきです」
俺は黙った。
黙って、星を見ていた。
アドニスはそれ以上、議会の話をしなかった。
俺たちは、しばらく無言で並んでいた。
* * *
夜風が冷たくなってきた頃、アドニスが口を開いた。
「アッシュ」
「ああ」
「明日から、進軍が始まります」
「ああ」
「進軍中、私はサイラスさんと共に作戦本部にいる時間が長くなります。あなたとの距離が、今より遠くなる」
「分かってる」
「ですから」
アドニスは俺の方を見た。
「ですから、今のうちに、言っておきたいことがあります」
俺はアドニスの顔を見た。
夕陽の時とは違って、月の光だけがアドニスの顔を照らしていた。
「アッシュ」
「ああ」
「あなたが反乱軍に来てくれて――よかった」
アドニスはそれだけ言って、俺の肩に手を置いた。
手は温かかった。
昼の警備の時とは違う、確かな温度の手だった。
何と返していいか分からなかった。
返さないまま、アドニスの手をしばらくそのままにしておいた。
アドニスも、しばらくそのままにしておいた。
* * *
しばらくして、アドニスは手を引いた。
「すみません」
「謝るな」
「お休みなさい」
アドニスは立ち上がって、屋上を出ていった。
俺は星を見ていた。
星はずっと同じ場所にあった。動かなかった。
だが、俺の中で、何かが少しだけ動いた、気がした。
動いた、というか、置き場所が変わった。
あの男に届きたい、という思いは、まだ俺の中にあった。レイヴン・アルドリック。あの灰色の目。あの白銀の鎧。重剣。それは消えなかった。
だが今夜、俺の中には、もう一つ別の場所があった。
アドニスのいる場所だった。
届きたいでも、倒したいでもない。隣にいる、という場所だった。
その場所が、いつできたのか、俺には分からなかった。岩陰の砂嵐の時か、傷を縫ってもらった時か、父を斬った時に肩を抱いた瞬間か、それとも今夜、肩に手を置かれた瞬間か。
たぶん、全部だった。
俺は星を見ていた。
星は綺麗だった。
* * *
翌朝、進軍が始まった。
反乱軍七十人が屋敷の前に集結した。フィン・イグナティアと領内の有志で構成された後方支援組三十人が、俺たちと共に北上する。合計百人。
ダンテさんが先頭に立った。
アドニスはサイラスさんと共に、隊列の中央付近にいた。フードを被り直していた。
俺は前衛の組にいた。エルクとノルベルトと並んで。剣の柄を握って、握り直して、もう一度握り直した。
進軍開始の合図が出た。
俺たちは動いた。
屋敷の前を北に向かって歩き出した。配水路に沿って。配水路は屋敷の北側を通って、王都の方角へ伸びていた。水路の脇を、兵士たちが進んでいく。
水路の中を、水が流れていた。
ゲイル時代に絞られていた流量が、解除されて、本来の量に戻っていた。水音が聞こえる。十日前まで、こんな音は配水路から聞こえなかった、と斥候が言っていた。
俺は水路の水を一度見て、それから前を向いた。
水路は、王都へ続いている。
王都には、ゼファー・アルジャール十三世がいる。
そして、レイヴン・アルドリックがいる。
俺は剣の柄を握り直した。




