第九章 幼馴染
第一領を出てから、八日が経った。
反乱軍は配水路に沿って北上していた。第一領の北端を抜けて、第二領との境界の砂漠に入っていた。
進軍の列は長かった。前衛、本隊、後方支援、それぞれ数十人ずつが間を置いて歩く。先頭はダンテさんで、その後ろにサイラスさん、本隊の中央にアドニス、後方支援組はフィン・イグナティアが指揮していた。俺は前衛にいた。エルクとノルベルトと並んで。
進軍中、戦闘はまだ起きていなかった。
第二領の貴族は領民への支配力が弱く、反乱軍の進軍に抵抗を見せなかった。第二王子が領主だが、ゼファー王から見放されている、とサイラスさんが言っていた。第二王子は王位継承から外れて久しく、領内の腐敗を放置して引きこもっているらしい。反乱軍が来ても、領兵を動かさない可能性が高かった。
戦闘がない、というのは、奇妙なものだった。
俺たちは進軍しているのに、敵がいない。砂漠を歩いて、配水路を見て、夜は野営して、朝にまた歩く。それの繰り返しだった。
* * *
八日目の夕方、野営地に来客があった。
小柄な中年の男だった。四十前後、髭は短く整えられて、商人風の衣服を着ていた。腰には荷物袋が複数、馬には木箱が積まれていた。荷馬車を一台引いていた。
「反乱軍の頭領にお目通り願いたい」
男は見張りに告げた。
声は軽かった。商人らしい、人当たりの良い声だった。
ダンテさんとサイラスさんが対応に出た。俺は護衛として後ろに立った。アドニスもいた。フードを被ったまま、ダンテさんの斜め後ろにいた。
男はダンテさんを見ると、軽く頭を下げた。
「ヴェルナーと申します。流れ者の行商人です」
「商人が反乱軍に何の用だ」
ダンテさんは短く訊いた。
「物資の取引、ではありません」
ヴェルナーは少し笑った。
「ご依頼を受けて参りました。私の依頼主から、こちらの方々への伝言を預かっております」
「依頼主は誰だ」
「ルシアン殿下です」
ダンテさんが眉を上げた。
俺は一瞬、誰のことだか分からなかった。
アドニスが、初めて顔を上げた。フードの下から、目だけが見えた。
* * *
ヴェルナーをダンテさんの天幕に通した。
天幕の中には、ダンテさん、サイラスさん、アドニス、それから俺がいた。アッシュも護衛として残れ、とダンテさんに言われたからだ。
「ルシアン殿下からの伝言をお伝えします」
ヴェルナーは天幕の中央に立って、軽く一礼した。動作が貴族の作法に近かった。商人にしては所作が綺麗すぎる、と俺は思った。
「殿下は反乱軍と直接お会いしたいと仰せです。場所は王都郊外、レゼルの村の宿屋。明後日の夜。お会いになるのは、こちらでは三名まで。殿下はお一人でいらっしゃいます」
ダンテさんがサイラスさんを見た。
サイラスさんは眼鏡を押し上げた。
「罠の可能性は」
「ありません」
ヴェルナーは即答した。
「殿下はこの会合に身を賭しておられます。罠を仕掛ける側ではなく、罠を仕掛けられる側です。殿下が王城を抜け出すこと自体が、命懸けの行為です」
「お前は」
ダンテさんがヴェルナーを見た。
「お前自身は、何だ。商人と言うが、所作が違う」
ヴェルナーは少し笑った。
「私は流れ者の商人です。それは事実です。ただ、十年ほど前まで王都郊外の小さな町で薬種を扱っており、当時、まだ幼かった第八王子殿下と関わりがありました。殿下が町に治療を受けに来られた折、私の店で薬を調合した縁です」
「治療」
「殿下は幼少期、お体が弱くていらした。王城の医師では治せない症状を、町の薬種屋に相談に来られた。それで、ご縁ができた」
ヴェルナーは肩をすくめた。
「以来、何度かお会いしました。私は流れ者です。王朝にも反乱軍にも縁故はない。ですが、ルシアン殿下のご依頼であれば、動きます。それだけです」
ダンテさんはしばらく黙っていた。
サイラスさんも黙っていた。
判断が必要な沈黙だった。
* * *
判断を出したのはアドニスだった。
「会いましょう」
アドニスは初めて声を出した。
ヴェルナーがアドニスを見た。フード越しに、何かを察したような目になった。
「あなたは……」
「アドニス・イグナティアです」
アドニスはフードを下ろした。
銀色の髪が露わになった。
ヴェルナーは少し息を呑んだ。
「殿下は、あなたがここにいると、薄々お察しです。今夜の伝言にも、『アドニスがいるなら、必ず連れてきてくれ』とございました」
アドニスは頷いた。
頷くだけで、何も言わなかった。
* * *
ヴェルナーが天幕を出た後、ダンテさんが俺に言った。
「アッシュ、お前も同行しろ」
「俺が」
「会合の三人は、俺、アドニス、お前だ。サイラスは野営地に残って軍を統括する」
「俺、護衛役か」
「護衛もそうだが、アドニスの隣にお前を置きたい」
ダンテさんは少し笑った。
「お前、最初の偵察の砂嵐の岩陰でアドニスと話した時から、こいつとはペアで動かされてる。ルシアン殿下との会合も、お前が隣にいた方が、アドニスが揺れなくて済む」
「揺れる、って」
「幼馴染との再会だ。何が起きるか分からん。お前が隣にいれば、アドニスは現実に踏み止まれる」
ダンテさんはそう言って、天幕を出ていった。
* * *
俺はアドニスの方を見た。
アドニスは天幕の机の上に、何か地図を広げて見ていた。会合の場所、レゼルの村の位置を確認しているらしかった。
「アドニス」
「はい」
「ルシアンって、どんな男だ」
アドニスは地図から顔を上げた。
しばらく、何と答えるか考えていた。
「私の幼馴染です。それ以上の説明は、難しい」
「幼馴染って、子供の頃からの友達か」
「そうです。子供の頃から」
「貴族の子供同士の付き合い、ってことか」
アドニスは少し黙った。
「アッシュ、伝えていなかったことがあります」
「なんだ」
「私の母、ミレイユは、第一王女です」
俺はアドニスを見た。
「第一王女、って」
「先代アルジャール王の長女です。つまり、現王ゼファーの姉にあたります」
俺は天幕の中で、しばらく動けなかった。
動けなかった、というか、頭が追いつかなかった。
第一王女。ゼファー王の姉。それがアドニスの母。つまり、アドニスは。
「お前」
「私はゼファー王の甥にあたります」
アドニスは静かに言った。
「血筋としては、王家に連なります。ただ、母が嫁いだ先がイグナティア家であり、私は貴族の子として育ちました。王家の継承権は持っていません」
「ルシアンは」
「ルシアンは、第八王子です。先代王の末子。私の母から見れば、ルシアンは末弟になります」
「弟」
「血縁上は、ルシアンは私の叔父です」
深く息を吐いた。
「叔父、って言ったって、同い年だろ」
「同い年です。ルシアンが生まれた時、母はもう嫁いでいて、私が生まれた半年後でした。先代王が高齢になってから生まれた末子で、私とは年の差がほぼないのです」
「だから、子供の頃から一緒にいた」
「はい。王家の親戚として、儀式や祝祭で頻繁に会いました。子供同士、馬が合った。年が近かったこともあります」
俺は天幕の床を見た。
俺たちが倒そうとしている王朝の血が、隣の男に流れていた。アドニスの中にも、ルシアンの中にも。
何と言っていいか、分からなかった。
黙っていた。
黙っていると、アドニスが俺の方を見た。
「アッシュ」
「ああ」
「離れますか」
その声は、いつものアドニスより、少しだけ震えていた。
「お前、何言ってんだ」
顔を上げた。
「離れるかよ。俺はアドニス・イグナティアの相棒だ。お前がゼファー王の甥だろうが、何だろうが、俺の隣にいるのはお前だ」
アドニスは俺を見ていた。
しばらく、黙っていた。
「ありがとうございます」
アドニスは小さく頭を下げた。
* * *
二日後、俺たちはレゼルの村に着いた。
王都郊外の小さな村だった。配水路の終端近く、王都の外壁が遠くに見える距離。村は数十軒の家と、宿屋が一軒だけ。商人や旅人が休憩する場所、という体裁だった。
ダンテさんとアドニスと俺の三人で、宿屋に入った。
宿屋の主人は、何も訊かずに俺たちを奥の部屋に通した。事前に話が通っていたらしい。ヴェルナーの仕事だろう。
奥の部屋には、二つの椅子と一つの机があった。蝋燭が一本灯っていた。窓は閉じられていた。
部屋の隅に、一人の男が立っていた。
平民の旅装。フードを目深に被って、顔を隠していた。背格好は華奢で、アドニスより一回り小さく見えた。
男はゆっくりとフードを下ろした。
* * *
銀色の髪だった。
アドニスと同じ銀色だが、質感が違っていた。アドニスの髪は硬質で、剣の刃のような艶があった。この男の髪は、もっと柔らかく、月の光のような淡さを帯びていた。
目が見えた。
薄紫色だった。
深い色ではなく、淡い、儚い紫だった。蝋燭の光に揺れて、瞳の縁がさらに薄く滲んでいた。
顔立ちは、繊細だった。アドニスのような硬質な美貌ではなく、もう少し少年めいた線の柔らかさがあった。だが、その柔らかさの奥に、冷たいものが見えた。一瞬で見えた。儚さと冷静さの両方が、同時にその男の中にあった。
ルシアン・アルジャール。
第八王子。
俺は初めてその顔を見た。
「アドニス」
ルシアンが先に口を開いた。
声は澄んでいた。少し低く、しかし高すぎず、耳に心地よく届く声だった。
「アドニス、お前、生きていたか」
「ルシアン」
アドニスがフードを下ろした。
二人の銀髪が、同時に蝋燭の光に揺れた。
* * *
二人は、しばらくお互いを見ていた。
言葉を交わさなかった。ただ、見ていた。
長い時間ではなかった。たぶん、十秒ほどだった。だが、その十秒の中に、子供の頃からの何年分かが詰まっているように、俺には見えた。
最初に動いたのはアドニスだった。
アドニスがルシアンに近づいて、肩に手を置いた。
ルシアンも、アドニスの肩に手を置いた。
二人は短く抱擁した。
短く、という以外の言い方が見つからなかった。お互いに、長く抱き合うことを許さなかった。許したら、何かが崩れる、という空気だった。
ダンテさんは入り口で立ったまま、それを見ていた。何も言わなかった。
俺はアドニスの少し後ろにいた。距離を取って。
アドニスとルシアンが離れた時、ルシアンが俺の方を見た。
薄紫の目が、俺を見ていた。
「あなたが、アドニスの相棒の方ですか」
「アッシュです」
「アッシュ。聞いていました。ヴェルナー経由の情報で。あなたが、バルディオの屋敷でレイヴン・アルドリックに突進した新兵だ」
「知ってるのか」
「王城内では話題でした。新兵が一人、白銀の重剣に突っ込んで、それでも生き残った、と」
ルシアンは少し笑った。
冷たい笑い方ではなかった。だが、温かい笑い方でもなかった。距離を保った笑い方だった。
「ありがとうございます」
ルシアンは小さく頭を下げた。
「アッシュさん、アドニスを支えてくれて」
* * *
席に着いて、本題に入った。
ルシアンは王朝側の動きを淡々と説明した。
「ゼファー兄上は、配水路中継地点を反乱軍に譲った後、王朝中央の防御を固める方針に切り替えました。各領主への支配は維持しつつ、王都の防衛に重点を置く戦略です」
「中央集権の縮小と、首都防衛への切り替えだな」
ダンテさんが頷いた。
「はい。ですが、それは表向きの戦略です。兄上の真意は、別にあると私は見ています」
「真意」
「兄上は、戦争を引き延ばすつもりです。長引かせて、反乱軍の補給を消耗させ、領民の反乱軍への支持を疲弊させる。最終的に、反乱軍が自然に分裂するのを待つ戦略です」
「賢いな」
「賢いです。だからこそ、兄上の戦略が成立する前に、王都に到達せねばなりません」
「お前、自分の兄を売るのか」
ダンテさんが訊いた。
ルシアンは少し黙った。
「兄上は賢王です。それは私も認めます」
ルシアンは静かに言った。
「ですが、賢王であることと、現場が見えていることは、別です。兄上は王城から動きません。地方領の腐敗を、報告書でしか知らない。報告書には書かれない苦しみが、領民の中にある。それは私が宮廷の隅で十年見てきました」
「お前、十年見てきたのか」
「私は第八王子です。誰も私の動向に関心はない。だからこそ、宮廷の隅で、あらゆることを見ることができた。兄上が見落としていることを、私は見ていた」
「それで反乱軍に協力する」
「協力する以外に、私にできることはありませんでした」
ルシアンはそう言って、視線を下げた。
その視線の先で、彼の指がわずかに震えていた。
俺はそれに気づいた。
気づいたが、見なかったふりをした。
* * *
戦略の打ち合わせが続いた。
ルシアンが王城内の情報を提供した。
レイヴン・アルドリックは現在、王城の内勤に戻っている。前線への出陣は、反乱軍が王都に近づいた時点で再開される。
ヘリオス・ローズベルは王城警護専任。前線には出ない。
そして、ルシアンが新しい情報を出した。
「コーデリアという女性がおります」
「コーデリア」
俺は反応した。
「祈り手です。レイヴン殿の戦場での補佐役として、常に近くにおります」
「祈り手って、教会のか」
「はい。ですが、彼女は規格外です。通常の祈り手ではない」
「規格外、って」
ルシアンは少し言葉を選んだ。
「彼女の祈りは、レイヴン殿の身体を強化します。常時。距離による減衰はあるが、一定の範囲内であれば、祈りの効果が持続する」
「身体強化、って」
「具体的には、反応速度、感覚、筋力、それらが補強されます」
俺は息を呑んだ。
あの不可解現象。アドニスの矢が、レイヴンの首筋から肩に逸れた。指の幅一つぶん体を捻って、矢の軌道から急所を外す動き。あれが、コーデリアの祈りの効果だった。
反射神経ではなかった。
補強された反射神経だった。
俺は隣のアドニスを見た。
アドニスも同じことを考えている顔をしていた。
「彼女を倒せば」
アドニスが訊いた。
「レイヴン殿は、ただの強い剣士に戻ります」
ルシアンは答えた。
「規格外の領域から、人間の領域に下りる。そうすれば、あなた方にも勝機が見えるはずです」
ダンテさんが頷いた。
「次の作戦で、コーデリアを狙う」
「彼女の動きは、私が伝え続けます。連絡はヴェルナーを通じて」
「了解した」
* * *
会合が終わったのは、夜半過ぎだった。
ルシアンが立ち上がって、フードを被り直した。アドニスも立ち上がった。
「ルシアン」
「はい」
「お前、王城に戻るのか」
「戻ります。私が消えれば、すぐ反乱軍と通じていることが露見します」
「危険じゃないか」
「危険です」
ルシアンは少し笑った。
「ですが、危険でない選択肢を、私はもう持っていません」
アドニスは何か言いかけて、止めた。
止めた言葉が、宙に残った。
ルシアンはそれに気づいていた。気づいていて、応えなかった。
二人は、もう一度短く抱擁した。
ルシアンの腕が、最初の抱擁よりも、少しだけ強くアドニスの背中を抱いた。一瞬だけ。それからすぐに離した。
「アドニス、生きていろよ――」
「ルシアン、お前もだ」
ルシアンは部屋を出ていった。
ヴェルナーが廊下で待っていた。彼の馬車に乗せて、夜の道を別の場所まで運ぶ手筈になっていた。
扉が閉まった。
部屋の中に、俺たち三人だけが残った。
* * *
ダンテさんは何も言わずに、宿屋を出ていった。
俺とアドニスが部屋に残った。
アドニスは机の前に立ったまま、扉の方を見ていた。
扉はもう閉まっていた。ルシアンの姿はもうなかった。だがアドニスは、しばらくその扉を見ていた。
「アドニス」
「はい」
「お前、ルシアンの気持ち、知ってるのか」
アドニスは俺を見た。
「気持ち、というのは」
「あいつ、お前のことが」
俺は言葉を止めた。
止めて、別の言い方を探した。
「あいつ、お前のために、王城を抜け出してきた」
「はい」
「危険を承知で」
「はい」
アドニスは俺の目を見ていた。
「アッシュ。ルシアンの感情は、私も気づいています」
「知ってたのか」
「知っています。子供の頃から」
「で」
「応えていません」
アドニスはそれだけ言って、視線を逸らした。
「私は、ルシアンに応えられない。応えてしまえば、ルシアンを王城に縛り付けることになる。彼を王城から出して、自由にするためには、私が応えないことが必要です」
俺は何も言わなかった。
アドニスは続けた。
「彼が王城に残るのは、私のためだと、彼自身は思っているかもしれません。けれど私が応えれば、彼は王城を捨てて私の隣に来てしまう。それは、彼の生き方を奪うことになります」
「お前」
「ルシアンは、王朝の中で生きてきた人間です。私が彼を王朝から引きずり出せば、彼は何者でもなくなる。それを、私は彼にさせたくない」
俺は黙った。
黙って、アドニスの横顔を見た。
月の光が、宿屋の窓の隙間から差し込んでいた。アドニスの銀髪を、青く染めていた。
アドニスは、自分の感情について、誰よりも冷静だった。
冷静すぎて、それが残酷に見えるくらいだった。
* * *
宿屋を出たのは、明け方近くだった。
空が白み始めていた。
俺とアドニスは、ダンテさんの後について、宿屋の前の道を歩いていた。レゼル村は静かだった。誰も起きていない時刻だった。
アドニスは何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
ただ、アドニスの少し後ろを歩いていた。
砂漠の砂が、靴底で鳴っていた。
俺は、ルシアンのことを考えていた。
あの薄紫の目を。指の震えを。一瞬だけ強くなった抱擁を。「アドニス、生きていろよ」という声を。
あの男も、何かを抱えていた。
俺と同じ種類のものではない。アドニスへの感情の質も、俺がレイヴンに抱くものとも違う。だが、何かを抱えていた。
抱えたまま、王城に戻っていく。
戻って、また宮廷の隅で、見られないものを見続ける。
俺は剣の柄を握り直した。
その握り直しは、戦闘のためではなかった。何のためだったかも、自分では分からなかった。
ただ、握り直した。




