第十章 減水
第二領に入って、四日が経った。
第二領の国境は静かだった。境界の砦には領兵が数人いただけで、反乱軍の進軍を見ると、彼らは武器を捨てて道を譲った。第二王子はゼファー王から見放されている。領兵は給料も士気も低く、戦う理由を持っていない。
反乱軍は無血で第二領に入った。
ダンテさんが先頭で、本隊が続く。俺は前衛の組にいて、エルクとノルベルトと並んで歩いていた。
配水路は第二領の中央を北に伸びていた。第一領のものより細かった。第二王子の領運営が雑で、配水路の整備が滞っているらしい。
「静かすぎる」
エルクが小声で呟いた。
「だな」
「気味が悪いくらい静かだ」
「俺は静かな方がいい」
ノルベルトは肩をすくめた。
「戦闘が無いってのは、悪くないだろ」
「悪くはない」
俺は短く返した。返してから、もう一度配水路の方を見た。
水量は、そんなに多くなかった。
* * *
六日目、最初の村に着いた。
第二領内の中規模の村だった。家は五十軒ほど。村の中央に集会所があり、その前で村人たちが反乱軍の到着を見ていた。
歓迎、という空気ではなかった。
ダンテさんが集会所の前で馬を下りた。村の代表らしい中年の男が、ダンテさんに歩み寄った。
「あんたが反乱軍の頭か」
「ダンテだ」
「俺は村長のオラフだ。話がある」
オラフという男は腕を組んでいた。腕の組み方が、明らかに敵意を含んでいた。
「あんたら、第一領のゲイルを倒したんだろ」
「倒した」
「で、第一領の水が回復した、ってのも聞いた」
「そうだ」
「俺たちの水は、減った」
オラフはそう言って、配水路の方を指した。
俺もその方を見た。
配水路の流れは、確かに細かった。村に来る前に通った第一領の配水路と比べると、半分以下の量しか流れていない。
「あんたらが、ゲイルが堰き止めていた水を末端に流したんだろう。流した分、上流の俺たちの水が減った」
「そうだ」
ダンテさんは認めた。
「水の総量は変わっていない。第一領の末端に水を流した分、第二領のお前らの水が減った。それは事実だ」
「事実、で済むのか」
オラフの声が荒くなった。
村人たちが集まってきた。三十人ほど。皆、村長の後ろに立って、反乱軍を見ていた。
「俺たちの村は、ゲイルの時代は十分な水が来ていた。今は半分だ。畑が枯れる。家畜の水も足りん。あんたらが俺たちの生活を壊したんだ」
俺は無意識に前に出ようとした。
出ようとして、止まった。
* * *
止まったのは、何を言えばいいか分からなかったからだった。
俺は反乱軍だ。第一領の村に水を戻した側だ。それは正しいことだ。腐敗貴族を倒して、配水路を解放した。その結果、ドゥナ村にも水が戻った。
俺がやってきたことは、間違っていない。
間違っていないのに、目の前の村人たちは怒っている。
俺は何をしたんだろう。
頭が回らなかった。
反乱軍は正義だと思っていた。腐敗貴族を倒して、民を救うのが俺たちの仕事だと思っていた。だが、ここにいる村人たちは、俺たちの「正義」のせいで水を奪われている。
「兄ちゃん」
オラフが俺を見た。
「あんた、若いな。あんたの村は、第一領か」
「ドゥナ村」
「そうかい。あんたの村に水が戻った。それは祝うべきだ。だが、その水が、俺たちの村から来てるってことは、知っていたか」
「知らなかった」
素直に答えた。
答えるしかなかった。
「知らなかった、で済むのか」
「済まない」
そう言った。
言ったが、その先が出てこなかった。
知らなかった、で済まないなら、何を言えばいいのか。謝るのか。詫びるのか。それとも反論するのか。何が正解か分からなかった。
黙った。
黙っていると、隣で誰かが動いた。
* * *
アドニスだった。
いつの間にか、俺の隣に立っていた。フードを下ろしていた。銀色の髪が陽の光に晒されていた。
「私から、お話しします」
アドニスは静かに言った。
オラフがアドニスを見た。
「あんた、誰だ」
「アドニス・イグナティアです」
オラフが眉を寄せた。
「イグナティアって、ゲイルの息子か」
「ゲイルの長男です」
村人たちがざわついた。
「父を倒したのが、私です」
アドニスは言った。
「父の腐敗政治を止めるために、私が父を斬りました。それは私の選択であり、責任は私にあります」
オラフは言葉を失った。
息子が父を斬った、という事実そのものに、彼は反応できなかった。
アドニスは続けた。
「皆さんの村の水が減った理由を、ご説明します」
アドニスは配水路の方を指した。
「アルジャール王朝の配水路は、王都を中心とした放射状の構造で、水が流れる順番が決められています。上流の領、中流の領、末端の村。各段階で、貴族が水を堰き止めて自分の領を肥やすことが可能な構造です」
「それは知っとる」
「父ゲイルは、第一領の上流で水を堰き止めていました。その分、末端の村が干上がっていました。私たちが父を倒して堰を解放した結果、末端の村に水が流れました。同時に、第二領の上流での水が減ったのです」
「だから、俺たちが減った」
「はい」
アドニスは認めた。
「水の総量は、王朝中央が決めています。各領への配分も、中央が決めています。私たちが第一領で堰を解放しても、王朝中央が配分を変えなければ、結局どこかが減ります。今回、減ったのは皆さんの村です」
オラフは黙って聞いていた。
「皆さんの怒りは正当です。私たちが第一領を解放した結果、皆さんが苦しんでいる。それは事実です」
アドニスはそう言って、深く頭を下げた。
貴族の作法ではなく、農民の作法でもない、ただ深い頭の下げ方だった。
「申し訳ありません」
オラフは何も言わなかった。
言えなかった、というほうが近かった。
* * *
頭を上げて、アドニスは続けた。
「私たちが目指しているのは、配水路の構造を、根本から変えることです」
「構造、って」
「現在の配水路は、王朝中央が独占的に配分を決めています。各領主は、その配分の中で、自分の利益を優先して水を堰き止める。その結果、末端の村が干上がる」
「分かっとる」
「私たちは、この構造を、各領の代表者による合議で決める形に変えたい。中央独占から、合議制へ。各領が自分の村のために発言できる場を作る。その場で、皆さんの村の水も、議論の対象になります」
「合議制」
「議会、と呼びます。各領から代表者を選び、議会で配分を決める」
「貴族の議会か」
「いいえ。貴族だけではありません。領民の代表も入ります」
オラフは少し黙った。
「俺らみたいなのが、議論の場に入れるのか」
「入れます。それが、私たちが目指す統治です」
「それを実現するために、王朝を倒すのか」
「はい」
「で、それまで、俺らはどうすればいい」
「それまでは、皆さんの村の水を、私たちが補填する案を提示します」
アドニスはダンテさんの方を見た。
ダンテさんが頷いた。
* * *
ダンテさんが前に出た。
ダンテさんは馬を下りていた。隻眼の顔で、村人たちを見渡した。
「俺はダンテだ。反乱軍の頭領だ」
声は低かった。だが、よく通った。
「お前らの怒りは正当だ。俺たちが第一領を解放した結果、お前らの水が減った。それは認める」
ダンテさんは間を置いた。
「だが、俺たちは進軍を止めない。王朝中央を倒すまで、戦争は終わらない。終わらせない」
オラフが眉を寄せた。
「なぜだ」
「王朝中央を倒さなければ、配水路の構造は変わらない。構造が変わらなければ、お前らの村も、俺の故郷の村も、いつまで経っても水で苦しむ。これは、お前らの怒りより、もっと長い時間軸の話だ」
ダンテさんはオラフの目を見ていた。
「俺たちは進軍する。お前らは耐えてくれ」
「耐えろ、って言うのか」
「言う」
ダンテさんは続けた。
「ただし、耐え方を、俺たちが支援する。第一領から備蓄の水を、お前らの村に運ぶ手配をする。完全に補填はできないが、畑が枯れない量は届ける。代わりに、お前らは俺たちが王都に進軍する間、後方支援をしてくれ。食料の供給と、情報の提供だ」
オラフは沈黙した。
長い沈黙だった。
村人たちも黙っていた。誰も何も言わなかった。
最後に、オラフがゆっくりと口を開いた。
「あんたら、本気で構造を変える気か」
「本気だ」
「失敗したら、俺らはどうなる」
「お前らは、俺たちと一緒に戦った村として、王朝に潰される。俺たちが負ければ、そうなる」
ダンテさんは正直に答えた。
「だから、俺たちは負けない。俺たちが勝つ前提でしか、お前らに支援を頼めない」
「賭けだな」
「賭けだ」
オラフは少し、笑った。
笑いではなかったかもしれない。だが、笑いに似た顔をした。
「分かった。話はここまでだ。村に水を運んでくれるなら、後方支援は引き受ける」
「ありがたい」
ダンテさんは頷いた。
オラフはそれだけ言って、村人たちに散るように指示した。
村人たちは三々五々、散っていった。
散る間際、何人かが俺たち反乱軍を振り返っていた。納得した顔ではなかった。だが、敵意の顔でもなかった。判断を保留している顔だった。
* * *
俺はその場に立ち尽くしていた。
立ち尽くしていることに、アドニスが気づいた。
「アッシュ」
「ああ」
「行きましょう」
「ああ」
歩き出した。
歩き出したが、足取りが重かった。
俺はさっき、何も言えなかった。アドニスが言葉を持っていた。ダンテさんが覚悟を持っていた。俺は、ただ立っていた。
俺の村は救われた。それは正しいことだった、はずだ。それなのに、その救いの裏で、別の村が苦しんでいた。俺はそれを知らなかった。知らずに、自分が正しいことをしたと思っていた。
俺は何をしたんだろう。
答えが出なかった。
* * *
夜の野営は、村の外れの平地に張った。
オラフから許可をもらって、村の縁の空き地を使わせてもらった。代わりに、第一領の備蓄から運ばせる水の手配を、サイラスさんが急いで進めていた。
俺は天幕の外で、星を見ていた。
寝つけなかった。
昼間の場面が、頭の中で何度も再生されていた。村人たちの目。ダンテさんの言葉。アドニスの謝罪。自分の沈黙。
俺は良いことをしたはずだった。
良いことをして、それで、なぜ責められる。
答えが、出なかった。
足音がした。
アドニスだった。
いつもの巻物は持っていなかった。手に、布で包んだ何かを持っていた。
「アッシュ」
「ああ」
「隣、いいですか」
「どうぞ」
アドニスは俺の隣に座った。少し離れて。
布の包みを開いた。中に乾パンと、小さな干し果実が入っていた。
「食べてください」
「いらない」
「食べてください」
アドニスは繰り返した。
受け取った。受け取って、口に運んだ。乾パンは硬かった。砂漠の乾パンらしい味だった。
「アッシュ」
「ああ」
「あなた、立ち止まりましたね」
「立ち止まった」
「正しい立ち止まりです」
俺はアドニスを見た。
「正しい、って」
「あなたが立ち止まらなければ、私は心配でした」
アドニスは星を見上げていた。
月は出ていなかった。星だけが、空を埋めていた。
「あなたは、自分のやってきたことが間違っていなかったか、と問うた。それは、立ち止まる人間にしかできないことです。立ち止まれない人間は、自分のやってきたことが正しいと信じ込んで、ずっと進み続けます。やがてそれが暴走します」
「俺、暴走はしてない」
「していません。だから今、立ち止まっている」
アドニスは少し笑った。
「私が父を斬った時も、私は立ち止まりました。父を斬って、これは正しかったのか、と問いました。問うても答えは出なかった。出なくていいのです。問い続けることが、正しさを保つ唯一の方法です」
「お前、難しいこと言うな」
「難しくないです」
アドニスは星を見ながら続けた。
「アッシュ、あなたは今日、言葉を持てませんでした。けれど、それでよかった。あなたが言葉を持つには、まだ早い。今は、剣で示してください。言葉は、私が持ちます」
「お前が」
「私が言葉を持って、あなたが剣を持つ。それが、私たちの組み合わせです」
俺は黙った。
黙って、乾パンを齧った。
アドニスはしばらく星を見ていた。それから、小さく続けた。
「アッシュ」
「ああ」
「あなたの真っ直ぐさが――私には眩しいです」
俺は乾パンを齧る手を止めた。
止めて、アドニスを見た。
アドニスは星を見ていた。横顔だけが見えた。
「眩しい、って」
「私は、子供の頃から、自分の中に冷たいものを抱えてきました。父を見ても、母を見ても、弟妹を見ても、何かを冷たく観察している自分が、いつもそこにいた。それが、貴族の家で生きるということでした」
「だろうな」
「あなたは、その冷たさが、ない。あなたの怒りも、悲しみも、立ち止まりも、全部、真っ直ぐです。私はそれを、眩しく思っています」
俺は何と返していいか分からなかった。
返さなかった。
アドニスもそれ以上、続けなかった。
二人で、しばらく星を見ていた。
* * *
アドニスは、しばらくして立ち上がった。
「お休みなさい」
「ああ。おやすみ」
アドニスは天幕に戻っていった。
俺は星を見ていた。
眩しい、という言葉が、頭の中で繰り返されていた。
俺はアドニスのような頭を持っていない。アドニスのような言葉を持っていない。だが、アドニスは俺を眩しく見ている、と言った。
俺は、アドニスのことを、何と見ているんだろう。
届きたい、ではなかった。それはレイヴンに対する感情だった。倒したい、でもなかった。それも違う。
隣にいてほしい、だった。
俺がレイヴンのことを考えている時、アドニスは隣にいる。俺が立ち止まった時、アドニスは隣に座る。俺が言葉を持てない時、アドニスは言葉を持って前に出る。
その全部が、俺がアドニスに望んでいることだった。
その全部を、アドニスは既にしていた。
俺は星を見ていた。
星は、綺麗だった。
* * *
翌日の朝、ダンテさんが本隊の幹部を集めた。
地図が広げられた。第二領の中央、ここから北東に三日進んだ場所が示されていた。
「ヴェルナー経由でルシアン殿下から新しい情報が来た」
ダンテさんは地図を指で叩いた。
「レイヴン・アルドリックが王城を出た。コーデリアも一緒だ。第二領北部に向かっている。三日後、ここで俺たちと会戦する」
幹部たちが頷いた。
「コーデリアを狙う」
ダンテさんが言った。
「ルシアンの情報通り、コーデリアを倒せばレイヴンの強さは規格外から人間に下がる。それが、俺たちが王都に到達するための最重要任務だ」
「コーデリアの位置は」
サイラスさんが訊いた。
「常にレイヴンの後方、距離にして百歩から二百歩。レイヴンの戦闘の隙を見て、彼女の方に矢を射る」
「彼女は祈り手だが、護衛は」
「いる。コーデリア専属の護衛が四人。ルシアンの情報では、いずれも王城の精鋭だ」
幹部たちが地図を覗き込んだ。
「アドニス、お前の弓で撃つ」
ダンテさんがアドニスを見た。
「了解です」
「ただし、レイヴンが戦闘中で、お前への射線が確保できるタイミングを作らねばならん。陽動が要る」
「私が陽動になる」
俺は反射的に言った。
ダンテさんが俺を見た。
「お前か」
「俺がレイヴンの注意を引く。最初の襲撃と中継地点の襲撃で、二度それをやった。俺はレイヴンに目をつけられている。俺が出れば、あいつは俺を見る」
「危険だぞ」
「分かってる」
「死ぬ可能性がある」
「死なない」
俺は答えた。
答えてから、自分の声が、思っていたより低かったことに気づいた。
ダンテさんは少しの間、俺を見ていた。
「分かった。お前を陽動の中心に据える」
「了解」
「だが、無茶はするな。今回はアドニスの矢が届くまでの時間を稼ぐのが任務だ。倒しに行くな。耐えろ」
「了解です」
* * *
会議が終わった後、アドニスが俺の隣に来た。
「アッシュ」
「ああ」
「無理は、しないでください」
「分かってる」
「分かっていない人が言う『分かってる』を、私は何度も聞いてきました」
アドニスは少し笑った。
俺も笑った。
「アドニス」
「はい」
「お前の矢が届くまで、耐える。それが俺の今回の役目だ」
「はい」
「俺は耐える。お前は射る。それでいいんだな」
「それでいいです」
アドニスは頷いた。
頷いた後、少しだけ続けた。
「ですが、アッシュ」
「ああ」
「無事に戻ってきてください」
アドニスはそれだけ言って、自分の天幕に戻っていった。
俺は剣の柄を握った。
握って、握り直して、もう一度握り直した。
三日後、コーデリアを射る作戦が始まる。
その時、俺はまた、レイヴンの前に立つ。




