第十一章 祈り
第二領北部の平原は、開けていた。
砂漠の縁、岩盤の隆起と低木の散在する地形。視界が広く、伏兵が隠れる場所が限られている。陽動と狙撃の作戦を実行するなら、これ以上の地はなかった。
俺たちは早朝に布陣した。
反乱軍は本隊七十、後方支援三十、合計百。前衛をダンテさんが率い、本隊中央に俺の小隊。アドニスは右翼の岩盤の影に潜伏した。射手として、戦闘の隙にコーデリアを狙う位置だった。
太陽が昇り始めた頃、北の地平に砂塵が立った。
王朝軍が来る。
先頭に、白銀が見えた。
* * *
レイヴン・アルドリックは馬上に出ていた。
白銀の鎧が陽光を反射した。重剣を鞍に提げ、馬の歩を一定に保ちながら近づいてくる。後方には騎兵二十、歩兵五十、そして――馬車が一台。
馬車の後ろに、フード付きのローブを羽織った人影が見えた。
茶色のみつあみが、フードからわずかに覗いていた。
コーデリア。
ルシアン経由の情報通り、彼女はレイヴンと共に出陣していた。
俺は剣の柄を握った。
握って、握り直して、もう一度握り直した。
これから、あの女を射る。
そう思った時、奇妙な感覚があった。
あの女は、戦場に立つ祈り手だ。レイヴンの強さを支える女。倒すべき敵だ。それは分かっている。だが、俺は、あの女の顔を、まだ一度も見ていなかった。フードの中に隠れた女を、ただ「コーデリア」という名前と「祈り手」という役割で、これから射る。
顔を知らない人間を射る。
戦争とは、こういうものらしかった。
* * *
ダンテさんの合図で、俺たちは前進した。
反乱軍の前衛がレイヴンに向かって走った。エルクとノルベルトが俺の両側にいた。
レイヴンは馬を下りた。重剣を抜いて、地面に立てた。地面に重剣の先が触れた瞬間、ずん、と低い音が鳴った。聞き慣れた音だった。
「アッシュ、行くぞ」
エルクが叫んだ。
「ああ」
俺は走った。
レイヴンに向かって。
* * *
最初に飛び出したのはノルベルトだった。
ノルベルトはレイヴンに向かって剣を振り下ろした。レイヴンは重剣で受け、軽くノルベルトを弾き飛ばした。ノルベルトは地面に転がったが、致命傷ではなかった。
次にエルクが斬りかかった。
レイヴンはエルクの剣を弾き、エルクを後退させた。
俺はその間に、レイヴンの正面に走り込んでいた。
「白銀!」
俺は叫んだ。
「三度目だ!」
レイヴンが俺を見た。
灰色の目が、こちらに向いた。
「お前か」
レイヴンの声は、いつもと同じ低さだった。
「下がれ、と何度言わせる」
「断る」
剣を構えた。
「今日は、お前を倒しに来たんじゃない」
「では、何をしに」
「あんたの後ろにいる、あの女だ」
俺はそう言って、剣を振った。
レイヴンは重剣で受けた。受けながら、彼の表情が一瞬止まった。
* * *
レイヴンの動きが、わずかに止まった。
止まったのは、コーデリアの名を出されたからだった。たぶん。あるいは、彼女が狙われていることを察したからだった。
止まった、と言っても、戦闘の中では一瞬だった。だが、その一瞬を俺は捉えた。
俺は二撃目を振った。
レイヴンは重剣で弾いた。三撃目。弾く。四撃目。弾く。
俺は届かない。届かないのは分かっていた。届かせる気はなかった。今日は、届かせなくていい。レイヴンの注意を、コーデリアから俺に引き続けることが、今日の任務だった。
「あんたの後ろの女を、俺たちは射る」
俺は剣を振りながら言った。
「あの女がいなくなれば、あんたは、ただの強い男になる。そうしたら、俺は次にあんたを倒せる」
「お前は」
レイヴンは重剣で俺の剣を弾きながら、応えた。
「今、ここで死ぬ気か」
「死なねえよ」
俺は答えた。
「俺はまだ、あんたに届いてない。届くまで、死ねない」
* * *
レイヴンの眉が、わずかに動いた。
眉が動いた、というより、彼の灰色の目の奥で、何かが揺れた。
その揺れが何だったか、俺には分からなかった。だが、揺れた。確かに揺れた。
レイヴンは俺の剣を弾きながら、視線をわずかに後方に動かそうとした。
動かそうとして、止めた。
彼は、後ろを見ない、と決めていた。
戦闘中に後ろを見れば、隙が生まれる。隙が生まれれば、自分が倒される。倒されれば、後ろの女を守れない。
彼は前を見ていた。
俺だけを見ていた。
その判断は正しかった。だが、彼の判断の正しさが、彼自身を罠に嵌めていた。
俺がレイヴンの注意を引きつけている間、右翼の岩盤の影で、アドニスが矢を番えていた。
* * *
アドニスの矢は、戦場の喧騒の中を飛んだ。
最初の矢は、レイヴンの右側面を狙わなかった。コーデリアが立つ馬車の後方に向かって飛んだ。
矢は、コーデリアの護衛の一人、剣を構えていた騎士の首筋を貫いた。
騎士が崩れた。
二本目の矢が、すぐに続いた。別の護衛の脚を撃ち抜いた。護衛は地面に倒れた。
四人いた護衛のうち、二人が一瞬で機能を失った。
残った二人がコーデリアの前に立ち塞がった。だが、岩盤の影からの矢に対しては、盾を構える時間がなかった。
三本目の矢が、その盾の隙間を抜けた。
矢は、コーデリアのフードの中に飛んだ。
フードの内側で、湿った音がした。
* * *
コーデリアは、最初、何が起きたか分からなかった。
胸に、温かいものが広がっていた。
その温かいものが、自分の血だと気づくのに、彼女はわずかな時間を要した。
立っていた。立っていたはずだった。だが、膝が砂に触れた。地面に座り込んでいた。フードが脱げて、茶色のみつあみが砂の上に投げ出された。
胸に、矢が刺さっていた。
深く。
彼女は手で矢を触ろうとした。触ろうとして、指が震えた。指は動かなかった。動かなくなり始めていた。
頭の中で、言葉が崩れ始めていた。
いつもなら、彼女の頭の中には言葉が滑らかに流れていた。レイヴン様の身体を守れ、感覚を補強せよ、動きを強化せよ。それらの言葉が、彼女の体から外へ流れて、レイヴンに届いていた。
だが、今、言葉が崩れていた。
組み立てようとすると、欠片に砕けた。
欠片が、砂に零れた。
彼女は最後の力で、ひとつだけ言葉を組み立てようとした。
いつものような、戦場の祈りではなかった。
彼女自身の言葉を、自分の口から、出したかった。
二十年、口の中に閉じ込めてきた言葉を。
* * *
戦場で、レイヴンは異変を感じた。
異変は、まず体に来た。
体の動きが、わずかに鈍くなった。重剣を振る速度、矢を察知する反射、足元の砂を踏む踏ん張り。それらが、いつもの精度から、ほんの少しだけ落ちた。
いつもの精度。
いつも、と思った瞬間、彼は自分が「いつも」を持っていたことを認識した。
彼は剣士として、王朝随一と呼ばれる男だった。だが、その「随一」の中に、コーデリアの祈りの効果が組み込まれていたことを、彼は知っていた。知っていた上で、利用してきた。
今、その効果が、薄れていた。
彼は咄嗟に、後ろを見た。
禁じていた動作だった。だが、もう禁じられなかった。
馬車の後ろに、コーデリアの姿はなかった。
代わりに、地面に座り込んだ女がいた。
茶色のみつあみが、砂の上に投げ出されていた。
胸に、矢が刺さっていた。
レイヴンは、初めて声を出した。
「コーデリア――」
戦場の喧騒の中で、彼の声は届かなかった。届かなかったが、彼は呼んだ。
* * *
コーデリアは、最後の言葉を組み立てていた。
戦場の音は遠かった。風の音も、剣戟の音も、すべて遠かった。
彼女の頭の中には、ひとつの顔だけがあった。
白銀の鎧。灰色の髪。重剣を構える背中。彼女が初めて出会った日、彼女を助けてくれた人。彼女が、二十年、祈り続けてきた人。
彼女は口を開いた。
いつもの吃音が、そこにあった。だが今は、吃音を恐れる時間がなかった。
言いたかった。
最後に、言いたかった。
「レ、レイヴン様」
声は、戦場の風に混じって、消えた。
「お、お慕い、して――」
言葉は、最後まで形にならなかった。
形にならないまま、彼女は前に倒れた。
砂の上に、茶色のみつあみが広がった。
頭の中の白銀の鎧が、彼女の中で、最後に光った。
* * *
俺はレイヴンの剣戟を受け流していた最中だった。
受け流しながら、視界の端で何かを見ていた。
馬車の後ろで、何かが倒れた。砂が舞った。
次の瞬間、レイヴンの動きが変わった。
今までの動きと、明らかに違った。
今までは、最小限の動きで俺の剣を弾いていた。今は、振りが大きくなっていた。重剣の重さが、彼自身の体に乗りすぎていた。動きが重くなっていた。
レイヴンは、俺ではなく、後ろを見た。
後ろを見て、止まった。
「アッシュ――」
レイヴンが、初めて俺の名前を呼んだ。
いや、呼んでいない。彼が呼んだのは、別の名前だったかもしれない。「コーデリア」だったかもしれない。だが俺の耳には、何かを言いかけて止めた声に聞こえた。
彼は俺との戦闘を捨てた。
重剣を引きずるように、馬車の後ろへ走った。
* * *
俺はレイヴンを追わなかった。
追わない、というのは作戦通りだった。コーデリアを射た後、レイヴンが戦線を離脱した瞬間、俺たちは退く。それが今日の任務の終わりだった。
ダンテさんが叫んだ。
「撤退! 全軍、撤退しろ!」
兵士たちが反応した。
俺は走った。エルクとノルベルトを呼び戻し、後方の岩盤に向かって走った。
走りながら、視界の端で、レイヴンを見ていた。
白銀の男は、馬車の後ろに崩れ落ちている女の前に膝をついていた。
膝をついて、女の体を起こしていた。
起こした女の頭を、自分の胸に抱き寄せていた。
戦場で、近衛騎士団長が膝をついていた。
俺はその姿を見ながら、走った。
* * *
レイヴンは、コーデリアを抱き起こした。
彼女の体は、まだ温かかった。
彼女の目は、開いていた。だがもう、何も見ていなかった。
彼は彼女のフードを直そうとした。直そうとして、止めた。
直しても、彼女には届かなかった。
彼は彼女の額に手を置いた。
冷たくなり始めていた。
彼は、彼女の体を抱いたまま、しばらく動かなかった。
戦場の喧騒は、遠くなっていた。反乱軍の撤退の足音、王朝軍の混乱の声、味方の騎士の叫び。それらすべてが、彼の周りで、ぼやけていた。
彼の中で、ひとつの言葉が、繰り返されていた。
お前を、利用していた。
その事実が、初めて、痛みとして彼の中に入った。
今までは、痛みではなかった。陛下のためだ、と整理してきた。だが今、整理が効かなかった。
彼は彼女の体を、ゆっくりと抱き上げた。
馬車に運んだ。
馬車の中に、彼女を寝かせた。
寝かせる時、彼女の口元を見た。
彼女の唇が、わずかに何かを形にしようとしていた跡があった。
唇は動かない。だが、形は残っていた。
彼はその形を、読まなかった。
読めなかった、というほうが近かった。
* * *
馬車の御者に、レイヴンは指示を出した。
「王城へ戻れ。彼女を運べ」
「レイヴン様は――」
「私は後から行く。先に運べ」
御者は頷いた。馬車が動き出した。
馬車が遠ざかるのを、レイヴンは見届けた。
見届けてから、振り返った。
戦場には、もう反乱軍はいなかった。撤退していた。彼の足元には、味方の死体が数人と、護衛の騎士の倒れた姿があった。
彼は重剣を担ぎ直した。
担ぎ直した瞬間、体が、いつもより重く感じた。
彼の重剣は、変わっていない。だが、彼の身体は、変わっていた。
彼は知っていた。
彼は今、規格外ではなかった。
ただの剣士に、戻っていた。
* * *
反乱軍は、谷を抜けて南に走った。
半時間ほど走って、追撃が来ないことを確認してから、隊列を整えた。
犠牲を確認した。
反乱軍側の死者は六人。負傷者十四人。前衛組から多く出ていた。レイヴンが俺と剣を交えている間、他の前衛兵士たちが、レイヴンの周囲の護衛騎士と交戦していた。そこで死んだ。
俺は六人の名前を、すべて聞いた。
知っている顔と、知らない顔があった。第一領で合流した志願兵が三人含まれていた。彼らはアドニスの演説を聞いて志願した男たちだった。アドニスの言葉に動かされて、ここまで来た男たちだった。
その三人が、俺の隣で倒れていた。
俺は彼らの顔を、覚えようとした。
覚えようとして、覚えきれなかった。
* * *
夜の野営は、谷から十里離れた砂漠の縁に張った。
追撃の心配がない位置だった。
俺は天幕の外で、剣の手入れをしていた。
手入れと言っても、刃に砂を落として、布で拭うだけだった。だが、その作業をしていないと、頭が回らなかった。
戦場で、レイヴンを見た。
彼が膝をついていた。
女の体を抱き起こしていた。
戦場で、近衛騎士団長が、ひざまずいていた。
その姿が、俺の頭から離れなかった。
俺はあの男に届きたい、と思っていた。倒したい、ではなく、届きたい、と。
今日、俺は、届いていなかった。
届かないまま、あの男を、別の方法で揺らした。
あれは、届いた、と言えるのだろうか。
言えない、と俺は思った。
あれは、届いたのではなく、奪った、だった。
あの男から、彼が「規格外」でいるための支えを、奪った。あの男の隣に、長年立っていた女を、奪った。
俺がやったわけではない。アドニスが矢を放った。だが、俺はそれを陽動として支えた。俺もそこに加担している。
加担した結果、俺はあの男を、ひざまずかせた。
届いた、ではなかった。
* * *
足音がした。
アドニスだった。
フードを下ろしていた。彼の銀色の髪が、星の光に揺れていた。
彼の目元が、わずかに濡れていたように見えた。
濡れていた、と言っても、涙ではない。涙が出ているわけではなかった。だが、何かが彼の目元の下で、動いていた。
「アッシュ」
「ああ」
「無事で、良かった」
アドニスはそれだけ言って、俺の隣に来た。
来て、しばらく立っていた。座らなかった。立ったまま、星を見ていた。
俺も立ち上がって、剣を鞘に収めた。
二人で、しばらく星を見ていた。
最初に動いたのは、アドニスだった。
アドニスは、俺の方に向き直った。
俺の前に立った。
彼の手が、俺の肩に触れた。
触れた手が、震えていた。
「アドニス」
「すみません」
「謝るな」
「いいえ――謝らせてください」
アドニスは続けた。
「私の矢が、人を殺しました」
「そうだ」
「あれは、戦場の祈り手でした。武器を持たない、女でした」
「分かってる」
「私は、彼女を、射ました」
「お前がやらなければ、俺たちが死んだ」
「分かっています。分かっていますが――」
アドニスの言葉が、途切れた。
途切れた言葉の代わりに、彼は俺に近づいた。
額を、俺の肩に預けた。
預けた額が、わずかに震えていた。
俺はアドニスの背中に、片手を回した。
強くは抱かなかった。
ただ、支えるためだけに。
アドニスは、しばらく動かなかった。
俺も動かなかった。
二人で、しばらくそうしていた。
* * *
アドニスがようやく顔を上げた時、星の位置が変わっていた。
時間が、長く流れていた。
「アドニス」
「はい」
「お前、戦場で、何回もこういう目に遭うのか」
「どういう意味ですか」
「自分が射った人間の顔を、覚えてしまう」
アドニスは少し黙った。
「忘れません」
彼は答えた。
「全員、覚えています。私が今までに射った人間の顔を」
「忘れたくならないか」
「なります。けれど、忘れません」
アドニスは星を見た。
「私が忘れたら、私が射った意味が、なくなります」
俺は何も言わなかった。
言うべき言葉が、なかった。
アドニスは、それから少し笑った。
悲しい笑い方だった。
「アッシュ、あなたは今日、レイヴン殿の動きが変わるのを見ましたか」
「見た」
「彼は、彼女を抱き起こしていました」
「見た」
「彼女は、彼の祈り手でした。彼が、彼女に応えなかったことも、彼女が彼に応えてもらえなかったことも、私は知っていました。ルシアンから聞いていた。それでも、私は彼女を射った」
「お前は、それを選んだ」
「選びました。あれが、戦争を続けるための選択でした」
アドニスはそう言って、もう一度俺の方を見た。
「アッシュ。あの女性は、私が殺しました。あなたが殺したのではない。あなたは陽動でした」
「アドニス」
「私が、覚えます。あなたは、覚えなくていい」
「俺も覚える」
「アッシュ」
「お前が覚えるなら、俺も覚える。お前一人に背負わせない」
アドニスは何か言いかけて、止めた。
止めて、頷いた。
* * *
夜が明けるまで、俺たちは天幕の外にいた。
眠れなかった。眠ろうとも思わなかった。
砂漠の夜は冷たかった。アドニスが俺の隣に座っていた。距離は近かった。腕が触れる位置だった。
時々、アドニスが小さく息を吐く音が聞こえた。
俺は星を見ていた。
あの男は、今、王城に戻っていく途中だ。馬車の中に、彼女の遺体がある。彼は馬車の脇を、馬で並んで走っているのか、それとも先に王城へ走ったのか。分からない。
彼は、明日からの戦いをどう戦うんだろう。
彼女がいない戦場を、彼はどう生きるんだろう。
俺はそれを、知りたかった。
知りたいと思った自分を、また奇妙に感じた。
倒すべき敵の、明日のことを、考えていた。
倒すべき敵の、心の中を、覗き込もうとしていた。
届きたい、ではなかった。
今夜、俺がレイヴンに対して持っている感情は、別のものに変わっていた。
届きたい、ではなく、見届けたい、だった。
あの男が、これから何をするのか。彼女がいない戦場で、彼が何を見せるのか。それを、見届けたい。
倒すかどうかは、その後で決める。
それが、今夜の俺の覚悟だった。




