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第十二章 宝剣

 馬を駆って王城に戻った時、王都はすでに夜だった。

 城門の警備兵が、レイヴンの姿を見て道を空けた。彼の白銀の鎧には、コーデリアの血が乾いて染みになっていた。鎧を脱ぐ時間はなかった。彼は馬を厩に預けず、そのまま王城の正門前で下りた。

 馬車は先に着いていた。

 馬車の前で、御者が頭を下げた。

「お、お運びを、どちらに」

「礼拝堂へ」

「はい」

 レイヴンは馬車の中の彼女を、一人で抱き上げて運んだ。

 近衛兵が手を貸そうとした。ヘリオスもいた。だが、レイヴンは首を振った。

「俺が運ぶ」

 短い言葉だった。

 ヘリオスは深く頭を下げて、一歩下がった。


 * * *


 礼拝堂は、コーデリアが祈りを捧げていた場所だった。

 石床に膝をついて、両手を組んで、声を出さずに祈っていた場所。誰もいない時間が、彼女には許されていた。彼女の祈りの時間は神聖視されていた。

 レイヴンは、彼女の体を礼拝堂の中央に横たえた。

 石床の冷たさが、彼女に伝わる。彼女が冷たさを感じることはもうない、と分かっていた。それでも、彼は彼女の下に布を敷いた。

 布を敷く動作の間、彼の指は震えていなかった。

 震えるのは、もう少し後のはずだった。

 彼は彼女の胸に刺さった矢を抜いた。抜いた矢を、礼拝堂の隅に置いた。彼女の傷口を、布で覆った。彼女の顔を、整えた。みつあみが乱れていたので、それも整えた。

 茶色のみつあみは、砂で汚れていた。砂を、彼は指で払った。

 払いながら、彼は思い出した。

 彼女は、子供の頃、いじめられっ子だった。彼女が十二歳の時、レイヴンは町を通りがかった。彼女が町の子供たちに囲まれて、何か言われていた。彼女は何も言い返せなかった。吃音のために、口の中で言葉が崩れていた。

 レイヴンが子供たちを散らした。

 彼女は震えながら、頭を下げた。

 「あ、ありがとう、ご、ございます」と、何度もつかえながら言った。

 その時のみつあみが、今と同じ茶色だった。同じ三つ編みだった。

 彼女は、十二歳から二十年、髪型を変えなかった。

 レイヴンはそれを、今夜まで知らなかった。


 * * *


 礼拝堂の入り口で足音がした。

 ゼファーだった。

 ゼファー・アルジャール十三世は、近衛兵を伴わず、一人で礼拝堂に入ってきた。彼は普段の執務服のまま、夜の冷気の中を歩いてきた。

「レイヴン」

「陛下」

「彼女の元へ来た」

 レイヴンは膝をついたまま、頭を下げた。

 ゼファーが彼女の傍に立った。彼女の顔をしばらく見ていた。

「あの娘の名を、私は今まで一度しか呼んだことがなかった」

 ゼファーは静かに言った。

「お前の戦場の補佐役として、彼女を運用してきた。私の口からあの娘の名を呼ぶ機会は、なかった」

「陛下」

「これからもう、私は彼女の名を呼べない」

 ゼファーはそれだけ言って、しばらく黙った。

 レイヴンは何も言わなかった。

 言うべき言葉がなかった。


 * * *


 葬儀は翌朝に行われた。

 簡素な儀式だった。コーデリアの身寄りはなかった。彼女を町で拾ったのはレイヴンで、彼女を王城で育てたのは祈り手の養成施設で、彼女には家族と呼べる存在はいなかった。

 葬儀に出たのは、レイヴンとヘリオス、ゼファー、それから祈り手の養成施設の長老だった。

 火葬は王城の裏手の火葬場で行われた。

 レイヴンは火葬場の前で立っていた。火が彼女を包む間、彼は動かなかった。

 火が消えるまでに、半日かかった。

 火が完全に消えた頃、火葬場の係官が、灰の中から取り出されたものをレイヴンに差し出した。

 遺骨と、灰と、その中から取り出された一つの石。

 ――コーデリアの魔石であった。

 石は、淡く透き通る青色をしていた。

 獣の魔石とも、人の魔石とも違った。半ば光を通すほどに澄んでいて、淡い青が、彼女の声のように静かに揺れていた。

 係官が頭を下げて立ち去った後、レイヴンは石を手に取った。

 手のひらに収まる大きさだった。

 彼は石を、しばらく見ていた。

 彼女の中にあったものが、形になっていた。生きていた間、彼女が何を考え、何を祈り、何を願っていたか、その全部が、この小さな石の中に収まっている、と彼には思えた。

 彼は石を、自分の鎧の懐に納めた。

 懐の布が、石の冷たさを、わずかに伝えた。

 冷たさは、すぐに体温で温まり始めた。


 * * *


 葬儀の後、レイヴンは王城に戻らず、自分の私室に直行した。

 扉を閉めて、鎧を脱いだ。鎧の血の染みを布で拭った。乾いた血は完全には落ちなかった。彼は半時間、それを擦り続けた。落ちない部分があるまま、彼は鎧を架台に戻した。

 寝台に座った。

 懐の魔石を、もう一度取り出した。

 彼は石を見ながら、彼女の最後の言葉を思い出していた。

 馬車に寝かせた時、彼女の唇に、形が残っていた。

 彼はその形を、戦場では読まなかった。

 今、読めば、何だったかが分かる気がした。

 だが、読まなかった。読まないまま、彼は石を懐に戻した。

 読まないことが、彼が彼女に対してできる最後のことだ、と思った。

 応えられなかった彼が、応えられなかったことを認める唯一の方法だった。


 * * *


 その夜、王城の使者が彼の私室を叩いた。

「レイヴン様、陛下からのお呼びでございます」

「分かった」

 レイヴンは鎧を着直さなかった。普段着のまま、玉座の間に向かった。

 玉座の間には、ゼファーがいた。

 玉座に座っていなかった。机の前に立って、書類を見ていた。書類の山が、机の上にあった。

 レイヴンが入ると、ゼファーは振り返った。

「レイヴン」

「陛下」

「父上が、亡くなった」

 ゼファーの声は、いつもと同じ穏やかさだった。

 穏やかな声の下に、深い動揺があった。レイヴンには分かった。

「いつでございますか」

「お前が王城に戻った日の、夜半だ。お前が彼女の傍にいる時刻に、父上は息を引き取った」

 レイヴンは膝をついた。

「お悔やみ申し上げます」

「謝意は要らない」

 ゼファーは机に手をついた。

「父上は長く病んでおられた。これは予想されていたことだ。だが、よりによってこの日に、というのは、神意としか言いようがない」

「神意」

「私のことを試している。賢王は、母を失い、伯父も失い、今、父も失った。そして、お前から、彼女を奪った」

 ゼファーは少し笑った。

 笑いではなかったかもしれない。だが、笑いに似た顔をした。

「私には、もう、後ろを振り返る理由がない」

 レイヴンは膝をついたまま、頭を上げなかった。


 * * *


 ゼファーは机の引き出しから、小さな包みを取り出した。

 包みを開いた。中には、銀色の短剣があった。

 簡素な作り。装飾はほとんどない。短すぎて武器としては役に立たない、お守り程度の短剣。

 レイヴンが、十六歳の時に打ったもの。ゼファーが十歳の時に贈られたもの。二十年近く、ゼファーが片時も離さなかったもの。

「お前にこれを返す」

 ゼファーは短剣を、レイヴンの方に差し出した。

 レイヴンは顔を上げた。

「陛下、それは」

「お前のものだ。打ったのはお前だ」

「私は、それを陛下に贈りました。陛下のお守りとして」

「お守りにはもう、ならない」

 ゼファーはそう言って、短剣を机の上に置いた。

「私は、自分のお守りを必要としない時期に来ている。お前が持っていろ」

「陛下」

「これは命令だ」

 ゼファーの声に、ほんのわずか、揺らぎがあった。

 レイヴンは、その揺らぎを聞かなかったふりをした。

 立ち上がって、机の短剣を手に取った。

 手に取った短剣は、思ったより軽かった。十六歳の自分が打ったものは、やはり未熟な作りだった、と今になって分かった。それでも、二十年、ゼファーの傍にあった。

 彼は短剣を、自分の腰に下げた。

 懐の魔石と、腰の短剣。

 それが、今夜から、レイヴン・アルドリックの新しい装備だった。


 * * *


「陛下」

 レイヴンは短剣を下げた腰に手を置いて、言った。

「私から、申し上げたいことがございます」

「何だ」

「宝剣を、抜きたく思います」

 ゼファーが、レイヴンを見た。

 しばらく、何も言わなかった。

「宝剣、と言ったか」

「はい。陛下から賜った宝剣を、これより戦場で使わせていただきたく」

「お前の重剣では、もう足りないのか」

「足りません」

 レイヴンは断言した。

「コーデリアの祈りがなくなった今、私はただの剣士に戻りました。重剣では、反乱軍を抑えきれません。彼らは確実に王都に迫ってきます。彼らを止めるには、刃のある剣で、確実に殺さねばなりません」

「私は、お前に『誰も殺さずに圧倒的に制圧せよ』と命じた」

「はい」

「それを、お前に課したのは、私の理念のためだった。お前は、私の理念のために、長年その命令を守ってきた」

「はい」

「それを、撤回したいのか」

「撤回したい、と私が申し上げました」

「私の理念を、お前は裏切ることになる」

「裏切ります」

 レイヴンは頭を下げた。

「申し訳ありません」

 ゼファーは黙った。

 しばらく、机の上の書類の山を見ていた。書類は、地方領からの嘆願書だった。彼が読み続けてきた、領民の苦しみの記録だった。

「お前の判断を、私は止めない」

 ゼファーは静かに言った。

「私の理念は、お前が裏切ることで、初めて完成する」

「陛下、それは」

「お前が私の理念を貫いた結果、お前自身が殺される、というのは、私の理念ではない。私の理念は、お前と、私と、民が、共に生きることだった。お前が死ねば、その理念は半分しか成立しない」

 ゼファーは顔を上げた。

「だから、お前は宝剣を抜け。お前が生きるために。私の半分の理念のために」

 レイヴンは膝をついた。

「陛下、私の全てを、捧げます」

「分かっている」

 ゼファーは机の上の書類を見ていた。

「行け、レイヴン。お前は明日から、宝剣を持つ」

 レイヴンは深く頭を下げて、玉座の間を退室した。


 * * *


 ゼファーは、レイヴンが出ていった扉を、しばらく見ていた。

 扉は閉まっていた。

 レイヴンの足音が、廊下を遠ざかっていった。足音が完全に消えてから、ゼファーは机の前の椅子に座った。

 座って、深く息を吐いた。

 彼の指が、机の上で震えていた。

 震えに気づいて、彼は指を握った。指を握ると、手のひらに爪が食い込んだ。痛みが、震えを止めた。

 彼は知っていた。

 レイヴンが宝剣を抜いた時点で、レイヴン本人がもう戻れない場所に行く、ということを。

 彼の重剣は、ゼファーの理念の象徴だった。誰も殺さずに圧倒的に制圧する。それを長年、レイヴンは守ってきた。守ることが、レイヴンの存在意義だった。

 その存在意義を、レイヴン自身が今、捨てた。

 捨てた以上、レイヴンは宝剣で人を殺し続ける。殺し続けて、最終的に、自分も殺される。それは、ほぼ決まったことだった。

 ゼファーは、それを止められなかった。

 止めれば、レイヴンが今までよりさらに無理をして、もっと早く死ぬ。

 止めないことが、レイヴンを最も長く生かす方法だった。

 最も長く、と言っても、長くはない。

 ゼファーは、机の上の書類に手を置いた。

 書類は、地方領からの嘆願書。読んでも、彼にはもう応えられない。応える時間が、終わりに近づいていた。

 彼は、書類を一枚一枚、丁寧に読み始めた。

 読みながら、自分の中の何かが、整理されていくのを感じた。


 * * *


 その頃、王城の別棟、ヘリオス・ローズベルの居室では、ヘリオスが鎧を磨いていた。

 彼の居室は、近衛副官の役職に相応しい、簡素な部屋だった。鎧を吊るす架台、書きものをする机、寝台、それだけ。装飾はほとんどなかった。

 鎧の上半身、肩、胸甲、それぞれを布で丁寧に磨いた。動作に迷いはなかった。長年やってきた仕事だった。

 磨きながら、彼の頭の中には、レイヴンのことがあった。

 レイヴン様は、コーデリア殿を喪った。それだけではない。先代王が亡くなり、ゼファー陛下も動揺している。私はその動揺を遠くから見ている。私には、何ができるのか。

 ヘリオスは答えを持っていなかった。

 答えがないまま、彼は磨き続けた。

 磨き終わった鎧を架台に戻して、彼は寝台に腰掛けた。

 机の引き出しを開けた。

 中に、布で包まれた小さな箱があった。手のひらに収まる大きさ。木製の、簡素な箱。蓋に銀の留め金が付いていた。

 彼はそれを取り出して、布から開いた。

 箱を、ゆっくりと開けた。

 箱の中には、小さな機構が収まっていた。

 彼は箱を閉じた。閉じる時、わずかに、音が漏れかけた。彼はすぐに蓋を抑えて、音を止めた。

 音を、ここでは出してはいけなかった。

 彼はもう一度、箱を布で包んだ。

 包んで、それを胸の前で抱えた。

 長い時間、抱えていた。

 彼は何度も、これをレイヴンに渡そうとして、渡せなかった。レイヴンが前線に出ている時間、彼は王城警護で動けない。レイヴンが王城に戻ってきた時、彼は別の任務に就いている。タイミングが合わない、というのは事実だった。だが、本当の理由は別だった。

 渡したら、彼の中の何かが終わる、と彼は思っていた。

 渡せないまま、抱えていることが、彼にとっての形だった。

 その形を、彼は壊したくなかった。

 彼は箱を引き出しに戻して、寝台に横になった。

 目を閉じた。

 目を閉じても、レイヴンの後ろ姿が、彼の頭の中にあった。

 今夜、レイヴンは、ゼファーから何かを受け取ったらしかった。明日から、レイヴンの装備が変わるかもしれない、という噂が、王城内で広がりつつあった。

 ヘリオスは、それを聞いた。

 聞いて、何も言わなかった。

 言うべき立場ではなかった。


 * * *


 翌朝、レイヴンは王城の宝物庫に立っていた。

 宝物庫は、王朝の代々の宝物が収められている場所だった。武具、装飾品、書物、絵画。レイヴンの目的は、その中の一振りだった。

 奥の壁に、宝剣が架けられていた。

 ゼファーが即位の時、レイヴンに賜った剣。レイヴンはその時、受け取って礼を述べたが、抜くことはなかった。理念を持つ王から、剣として支える臣下に贈られた象徴。それは、振るうものではなく、守るものだった。

 レイヴンは宝剣に手を伸ばした。

 手のひらに、柄の冷たさが伝わった。

 彼は剣を、ゆっくりと壁から外した。

 鞘から半分、抜いてみた。

 刃は、磨かれていた。長年、宝物庫の番人が手入れを続けていた。彼が抜く日が来るとは思っていなかったはずだ。それでも、手入れだけは欠かさなかった。

 レイヴンは刃を見ていた。

 刃に、自分の顔が映った。

 灰色の目。乱れた灰色の髪。鎧の乾いた血の跡。それらが、刃の中に映っていた。

 彼はもう、誰も殺さずに圧倒的に制圧する剣士ではない。

 彼は、刃のある剣で、人を殺す剣士だ。

 ゼファーから、それを許された。許されることが、最も重い命令だった。

 彼は鞘に剣を戻した。

 戻して、宝物庫を出た。

 懐の魔石、腰の短剣、そして手の中の宝剣。

 それが、レイヴン・アルドリックの新しい装備だった。


 * * *


 その日の昼下がり、レイヴンは王城の中庭で剣の鍛錬をしていた。

 宝剣を鞘から抜いた。

 刃の重みは、重剣とは違っていた。軽くて、鋭い。武器として、最高の作りだった。

 彼は素振りを始めた。

 最初の十振りは、感覚を確かめるための動きだった。次の十振りは、敵を想定した動きだった。次の十振りは、確実に殺すための動きだった。

 三十振り目で、彼は剣を止めた。

 懐の魔石が、わずかに動いた気がした。

 錯覚かもしれない。だが、動いた気がした。

 彼は懐に手を置いた。

 石の冷たさが、布越しに伝わってきた。

 石は、彼の体温で温まり続けていた。彼が動くたびに、彼女の名残が、彼の中で揺れた。

 彼は剣を鞘に戻した。

 遠くで、ヘリオスが立って彼を見ていた。

 ヘリオスは何も言わなかった。何も差し出さなかった。何も求めなかった。

 ただ、見ていた。

 レイヴンも、ヘリオスを見た。

 二人は、しばらく目を合わせていた。それから、ヘリオスが深く頭を下げて、持ち場に戻っていった。

 レイヴンはその後ろ姿を、見送った。

 見送りながら、彼は懐の魔石に、もう一度、手を置いた。


 * * *


 夜、王城の屋上で、レイヴンは一人で立っていた。

 砂漠の夜空。星が出ていた。風が冷たかった。

 南の方角に、反乱軍の野営地が、どこかにある。

 彼は懐から魔石を取り出した。

 手のひらの上で、石が淡く光っているように見えた。星明かりの反射かもしれない。あるいは、彼女の名残が、まだそこにあったのかもしれない。

 彼は石を見ていた。

「コーデリア」

 声に出して、言った。

 彼が彼女の名を、自分の口から出したのは、初めてだった。

 長年、「お前」「コーデリア」と事務的に呼んだことはあった。だが、誰もいない場所で、彼女の名だけを呼んだのは、今夜が初めてだった。

 彼の声に、応える者はなかった。

 応える者がないまま、彼は石を握りしめた。

 握りしめた手が、わずかに震えた。

 今夜、彼は初めて、震えることを許した。

 それから、石を懐に戻した。

 懐の中で、石は、彼の心臓の近くで、温まり続けた。

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