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第十三章 決断

 ヴェルナーが反乱軍の野営地に来たのは、昼過ぎだった。

 第二領北部の戦闘から、五日が経っていた。反乱軍は北上を続けていて、第三領との境界付近の砂漠に布陣していた。第三領は迂回ルートで通過する予定だった。王都までの距離は、あと三日。

 ヴェルナーは荷馬車を引いて野営地に来た。荷馬車の上には木箱がいくつか積まれていた。だが彼の用件は荷物ではなかった。

 俺はその時、ダンテさんの天幕の前にいた。サイラスさんの呼び出しで、エルクと一緒に作戦本部に呼ばれていた。

 ヴェルナーは荷馬車を野営地の入り口に置いて、ダンテさんの天幕に直行した。歩く速度が、いつもより速かった。

「ダンテ殿、サイラス殿」

 ヴェルナーは天幕の中で軽く頭を下げた。

「火急の伝言でございます」

「申せ」

「先代王が、崩御されました」

 俺は息を呑んだ。

 ダンテさんとサイラスさんも、しばらく黙っていた。

「いつだ」

「三日前です。王城内では喪が始まり、宮廷は今、混乱しております」

 サイラスさんが眼鏡を押し上げた。

「ゼファー王の動きは」

「動きが鈍っております。ゼファー王自身は冷静ですが、宮廷の慣性が動きません。貴族の出仕が遅れ、軍の指揮系統も混乱しています。喪の手続きが優先され、戦時体制への切り替えが滞っている状態です」

「いつまで続く」

「ルシアン殿下のご判断では、今後三日から五日が、王朝の混乱の頂点になるとのことです」

 ダンテさんが机を叩いた。

 強い音だった。

「アドニス、サイラス、来い」

 ダンテさんが叫んだ。

 アドニスがすぐに天幕に入ってきた。


 * * *


「電撃作戦だ」

 ダンテさんはそれだけ言った。

 地図が広げられた。第三領の境界、王都の外周防衛線、王都中心部までの経路。サイラスさんが指で道を辿った。

「迂回ルートを変更します。第三領の南側を通らず、北側を一気に抜ける。王都外周防衛線を直撃する」

「直撃か」

 アドニスが地図を見た。

「正面突破ではなく、奇襲です。王朝側が混乱している今、外周防衛線の警備が薄いはず。三日以内に外周を突破して、王都に到達する」

「外周防衛線にはレイヴンが出ているのか」

「ヴェルナー、確認だ」

 ダンテさんがヴェルナーを見た。

 ヴェルナーは少し考えてから、答えた。

「レイヴン殿は王城に詰めています。先代王の喪に立ち合っているため、外周には出ていません。ただし、反乱軍の動きを察知すれば、すぐに前線へ出るとのことです」

「察知される前に、外周を突破する」

「はい」

 アドニスが頷いた。

「短期決戦です。今動かなければ、王朝の混乱は収まり、この機会は失われます」

 ダンテさんが俺を見た。

「アッシュ、お前の小隊も先発組だ。明朝、出発する」

「了解です」

 短く答えた。


 * * *


 会議が続いた。

 奇襲作戦の詳細を、サイラスさんとアドニスが詰めていた。経路、所要時間、補給、夜営地の選定、王朝側の予想される対応。情報の精度が高かった。ヴェルナーが運んできた情報は、ルシアンが命懸けで集めたものだ、と分かった。

 話が一段落した時、ヴェルナーがもう一つの伝言を出した。

「ルシアン殿下から、もう一つ、お言葉がございます」

「申せ」

「『私のことは構わない。電撃作戦が私の内通を露見させる結果になっても、それで作戦が成立するなら、それでよい。私を犠牲にしても、王朝を倒してくれ』」

 天幕の中が、しばらく静かになった。

 俺は反射的にアドニスを見た。

 アドニスは地図を見ていた。顔を上げなかった。

 その顔の下で、何が起きているのか、俺には見えなかった。

 ヴェルナーがアドニスの方に体を向けた。

「アドニス様」

「はい」

「殿下からは、もう一言、別の伝言を預かっております」

「申せ」

「私個人宛か」

「アドニス様個人宛です」

 ダンテさんとサイラスさんが、わずかに視線を逸らした。

 ヴェルナーは、声を低くして続けた。

「『お前が判断しろ。お前の判断を、俺は受け入れる』」

 アドニスは、しばらく地図を見ていた。

 地図から目を上げなかった。


 * * *


「アドニス」

 ダンテさんが声をかけた。

「お前の判断だ」

 アドニスは、しばらく黙っていた。

 その沈黙は、長くはなかった。だが、俺には長く感じた。アドニスの中で、何かが動いていた。動いて、それから、止まった。

「電撃作戦を実行します」

 アドニスは静かに言った。

「ルシアン殿下のご意志を、受け入れます」

 ダンテさんが頷いた。

「決まりだ。明朝、進軍を開始する」

 アドニスは地図に目を戻した。

 俺はアドニスを見ていた。彼は俺の方を見なかった。一度も、俺の方を見なかった。

 俺が見ているのは知っている、はずだった。それでも、見なかった。


 * * *


 会議が解散した後、俺は天幕の外でヴェルナーに声をかけた。

「ヴェルナーさん」

「はい」

「ルシアンって男、王城に戻ってから、どうしてた」

「殿下は、ご自身の身辺整理を始めておられました」

「身辺整理、って」

「書類の処分、私物の整理、書状の準備。先代王崩御の混乱に紛れて、私と落ち合われたのが昨夜です。その時には、ご自身の終わりを覚悟しておられました」

「覚悟、って」

「電撃作戦が成立するためには、王城内の動きを攪乱する内通者が必要です。殿下は、ご自身がその役を引き受けると決めておられました」

 ヴェルナーは、少し声を落とした。

「殿下は、ご自身が露見した後、処刑されることを想定しておられます」

 俺は地面を見た。

「アドニスは、それを知ってるのか」

「殿下から、私に託された伝言を、アドニス様にそのままお伝えしました。アドニス様は、お分かりです」

 ヴェルナーは深く頭を下げて、立ち去った。

 俺はしばらく、天幕の外に立っていた。


 * * *


 夜になって、出発準備が始まった。

 兵士たちは無駄口を叩かず、装備の手入れをしていた。出発は明朝。三日後には王都外周。その先は、王朝中央との最終決戦。誰もが、そのことを意識していた。

 俺は剣の手入れを終えてから、アドニスの天幕に向かった。

 天幕の入り口で声をかけた。

「アドニス」

「どうぞ」

 中に入った。

 アドニスは机に向かっていた。地図と書類が広げられていた。彼の手は、書類に何か書き込んでいた。

 俺が入ってきても、彼は手を止めなかった。

「アッシュ、何ですか」

 声は冷静だった。

「お前、今日の判断、正しいのか」

 俺は訊いた。

 アドニスの手が、一瞬止まった。

 止まったが、すぐにまた動き始めた。

「正しい判断です」

「ルシアンは死ぬかもしれない」

「死ぬでしょう」

「それでもいいのか」

「よくありません」

 アドニスは書きながら答えた。

「よくないが、それを選びました。それが、戦争を勝つために必要な判断です」

「アドニス」

「アッシュ」

 アドニスは初めて手を止めた。

 止めたが、俺の方は見なかった。書類を見ていた。

「あなたが今、私に問おうとしていることに、私は答えられません」

「答えなくていい」

「答えなくていい、と言われても、答えるわけにはいかないことを、あなたは聞こうとしている」

「聞いてない」

「聞こうとしている顔をしています」

 アドニスは小さく笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。

「アッシュ、あなたは、今夜、私の天幕に来てくれた。それで、十分です」

「アドニス」

「私の判断について、あなたに認めてもらう必要はない。あなたが正しさを保ったまま、私の隣にいてくれる。それだけで、私は今夜、判断を実行できます」

 俺は何も言えなかった。

 言えないまま、しばらく立っていた。

 アドニスは机に向かったまま、続けた。

「アッシュ、明朝、行きましょう」

「ああ」

「あなたは、剣を握ってください。私は、書類を書きます。それぞれの仕事です」

「ああ」

 俺は天幕を出た。

 出る時、アドニスは一度も俺の方を見なかった。


 * * *


 外に出ると、星が出ていた。

 俺は天幕から離れて、野営地の外れに歩いた。

 歩きながら、頭の中で、いろいろなものが整理されようとしていた。整理されようとして、できなかった。

 アドニスは冷徹だった。彼は判断した。ルシアンを利用する判断。利用して、彼が死ぬかもしれない判断。

 その判断を、アドニスは「よくない」と認めた。よくないが選んだ、と。

 俺はそれを責められなかった。責める立場ではなかった。

 俺には、よくわからなかった。

 剣を握って、走って、戦う。

 俺の役割は、まず見ることだった。

 判断するのはアドニスとダンテさんだ。

 見て、それから、覚えること。

 あの夜、コーデリアを射った後、アドニスが言った。「私が射った人間の顔を、忘れません。全員、覚えています」と。

 俺は、アドニスが今夜下した判断を、覚えるしかなかった。

 覚えて、何になるか分からない。だが、覚えるしかなかった。

 空を見上げた。

 星が綺麗だった。星はずっと綺麗だった。砂漠の星空も、王城の屋上から見るはずの星空も、たぶん、同じ星だった。

 今夜、ルシアンも、たぶん、星を見ているだろう。

 あの男は王城のどこかで、自分の最後の数日を整理している。

 俺はそれを、想像した。

 想像して、それ以上は想像しないようにした。


 * * *


 その頃、王城の玉座の間で、ゼファー・アルジャール十三世は一人で立っていた。

 玉座には座っていなかった。机の前に立っていた。机の上には、地方領からの報告書、軍部からの動員報告、宮廷の喪の手続きに関する書類、そして父の遺品が、それぞれ整理されて積まれていた。

 ゼファーは父の遺品の一つを、手に取った。

 古い書状だった。

 父が彼に即位の日に渡したもの。父の筆跡で、こう書かれていた。

 「お前が、お前の正しさを通せ」

 ゼファーは書状を、しばらく見ていた。

 見て、それから、机の上に戻した。

 彼の正しさを、彼は通そうとしてきた。賢王として、理念を持って、地方領の腐敗に対応しようとしてきた。だが、地方領の末端まで、彼の理念は届かなかった。届かないまま、反乱軍が起こり、第一領が陥ち、第二領を抜けられ、今、王朝中央に迫りつつある。

 彼の理念は、王朝の構造に阻まれた。

 その構造を変えられなかったのは、彼の責任だった。


 * * *


 扉が叩かれた。

「陛下」

 軍部の長官の声だった。

「お入りください」

 長官が入ってきた。深く頭を下げて、報告を始めた。

「外周防衛線の警備強化につきまして、各貴族領への動員命令を発出いたしましたが、出仕の遅れが続いております」

「理由は」

「先代王の崩御に伴う喪の手続きに、各家が忙殺されているためです。喪の手続きを優先する慣例に従わざるを得ない、と各家から返書が」

「慣例を破れと、命令は出した」

「はい。命令は出ましたが、現場の動きが追いついておりません」

「いつ動く」

「最短で、五日後と見込まれます」

 ゼファーは黙った。

 五日後では、遅い。反乱軍が王都に到達するのが、おそらく三日後。動員が間に合わない。

「分かった。下がれ」

 長官は深く頭を下げて、退室した。

 ゼファーは机の前で立ち尽くしていた。


 * * *


 彼は知っていた。

 王朝の組織が動かないのは、彼個人の能力の問題ではない。組織の慣性の問題だった。先代王の時代から続く宮廷の慣例、貴族の出仕の手順、軍の指揮系統の繁文。それらすべてが、戦時に切り替えるための速度を持っていなかった。

 彼が王として動かそうとしても、組織は動かなかった。

 動かないまま、反乱軍が来る。

 彼は、もう一度、机の上の父の書状を見た。

 「お前が、お前の正しさを通せ」

 通せなかった。

 通せなかったことを、認めなければならなかった。

 彼は机の前から動かなかった。

 動かないことが、今、彼の唯一の決断だった。


 * * *


 扉が叩かれた。

 今度はレイヴンだった。

「陛下」

「入れ」

 レイヴンは入ってきた。鎧を着ていた。腰には宝剣と、銀色の短剣。懐には、コーデリアの魔石。

 彼の装備が変わっていた。彼が変わった、ということを、ゼファーは見て分かった。

「反乱軍の動きを察知いたしました」

 レイヴンは報告した。

「電撃作戦と思われます。第三領の北側を抜けて、王都外周に迫っています。三日以内に外周到達と推測されます」

「動員は」

「五日後です。間に合いません」

「お前は、どう動く」

「外周防衛線で、彼らを止めます」

「お前一人でか」

「近衛騎士団を率いて参ります。動員可能な兵を率いて、外周で迎え撃ちます」

「数で負ける」

「負けます。ですが、私が宝剣を持っております。コーデリアの魔石もあります。私一人で、相当数を抑えられます」

「死ぬ可能性がある」

「あります」

 レイヴンはそれだけ言った。

 ゼファーはしばらく黙った。

 しばらく黙ってから、彼は言った。

「行け、レイヴン」

「はい」

「ただし、生きて戻れ」

「陛下」

「お前が死ぬことを、私は望まない」

「私の役目は、外周で彼らを止めることです。生きて戻ることが優先順位ではありません」

「優先順位を、私が変える」

 ゼファーはレイヴンを見た。

「お前は、生きて戻れ。それが、お前への命令だ」

 レイヴンは深く頭を下げた。

「陛下、私の全てを、捧げます」

「捧げなくていい」

 ゼファーは小さく笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。

「捧げなくていい。お前が生きていれば、それで十分だ」

 レイヴンは何も言わなかった。

 答えるべき言葉が、なかった。


 * * *


 レイヴンが玉座の間を退室した後、ゼファーは机の前に立っていた。

 立って、しばらく動かなかった。

 彼は、自分が玉座から動かないことを、決めていた。

 反乱軍が王都に来る。レイヴンが外周で抑える。レイヴンが負ければ、反乱軍は王城に来る。来た時、彼は玉座にいる。玉座にいて、彼らを迎える。

 迎えて、何を言うか、何をするか、それは決めていなかった。

 決める時間が、もう残っていなかった。

 彼は机の上の父の書状を、もう一度手に取った。

 手に取って、自分の懐に納めた。

 父のお守りを、彼は、これから持っていく。

 持っていって、最後の場面に備える。

 彼は玉座に戻った。

 玉座に座って、目を閉じた。

 目を閉じても、彼の中の整理は終わらなかった。

 終わらないまま、夜が更けた。


 * * *


 翌朝、反乱軍は出発した。

 俺は前衛の組にいた。エルクとノルベルトと並んで。剣の柄を握って、握り直して、もう一度握り直した。

 アドニスは本隊の中央にいた。フードを被っていた。彼は俺の方を見なかった。出発の合図が出る瞬間まで、見なかった。

 合図が出た。

 俺たちは動いた。

 砂漠を北に向かって。三日後の王都外周防衛線に向かって。

 俺は走りながら、頭の中で、いろいろなことを整理しようとしていた。整理されなかった。整理されないまま、足が動いていた。

 ルシアンは、王城のどこかにいる。

 レイヴンは、外周のどこかで待っている。

 ゼファーは、玉座のどこかにいる。

 その全部を、俺はこれから見届けに行く。

 見届けて、剣を振る。

 それが、俺の役目だった。

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