第七章 父
配水路中継地点の襲撃から、半月が経った。
末端の村々に、水が流れ始めていた。ドゥナ村にも届いた、と斥候が報告してきた。完全に元通りではないが、井戸が枯れる前の量に近い水が、配水路から汲み出せるようになった。
その報告を聞いた時、しばらく息ができなかった。
息ができなくなって、それから笑った。エルクが「お前、笑うとこか泣くとこかどっちかにしろ」と言った。俺は両方やった。
だがダンテさんは笑わなかった。
水が流れ始めた、ということは、王朝側がそれを許している、ということだ。レイヴン・アルドリックを率いる王朝直属が、俺たちが押さえた中継地点を奪還しに来ない。それは奇妙だった。
ダンテさんは集会で言った。
「賢王は、俺たちに中継一つを譲った」
兵士たちがざわついた。
「譲った、と言うのは正しくないかもしれん。放置した、だ。中継一つを失っても王朝は崩れない。賢王はそう判断した。同時に、奪還して水を止めれば、民は王朝を恨む。それも避けたかった」
「賢いな」
ノルベルトが呟いた。
「賢いが、それは俺たちにとっては好機だ」
ダンテさんは続けた。
「賢王が中継を譲るなら、俺たちは次の手を打つ。第一領の領主、ゲイル・イグナティアの本邸を襲う」
領主の名前が出た瞬間、空気が変わった。
ゲイル・イグナティア。腐敗貴族の中枢。俺の村を干上がらせた張本人。
剣の柄を握った。
握っただけで、手が熱くなった。
* * *
集会の後、ダンテさんが俺とエルクとアドニスの三人を天幕に呼んだ。
天幕の中にはサイラスさんもいた。地図が広げられていて、その地図はバルディオの屋敷でもなければ中継地点でもない、第一領の中心部の地図だった。
「ゲイルの本邸の作戦を、お前らに先に話す」
ダンテさんが言った。
「アッシュ、エルク、サイラス、アドニス、それと俺。この五人で詰める。他の兵士には作戦本決まりで伝える」
頷いた。
頷いて、隣に立つアドニスを見た。
アドニスはフードを脱いでいた。銀色の髪が、天幕の中の蝋燭の光を反射していた。
その表情に、いつもの距離はなかった。
覚悟、という言葉が一番近かった。
* * *
「アドニス」
ダンテさんがアドニスを呼んだ。
「お前から話せ」
アドニスは頷いた。
俺の方を見た。
「アッシュ」
「ああ」
「私のことを、話します」
俺は何も言わずに頷いた。
アドニスは少し息を吸った。
「私の名は、アドニス・イグナティア。第一領領主、ゲイル・イグナティアの長男です」
俺はその名前を、頭の中で何度か繰り返した。
アドニス・イグナティア。
領主の長男。
俺の村を干上がらせた男の、息子。
「お前」
「はい」
「お前、それを、ずっと黙ってたのか」
「黙っていました」
アドニスは俺の目を見ていた。逸らさなかった。
「半年前、私は家を出ました。父の腐敗政治に耐えきれなくなり、家督を弟のフィンに譲るつもりで、夜に屋敷を抜け出しました。母にも、弟妹にも、何も告げずに」
「お前」
「ダンテさんに拾われ、反乱軍に入りました。最初の三ヶ月は素性を隠していました。その後、ダンテさんに正体を明かしました。サイラスさんは知っています。他の兵士は知りません」
エルクの方を見た。
エルクも、俺と同じように驚いた顔をしていた。
「お前、知らなかったのか」
「知らねえよ。今初めて聞いた」
エルクは肩をすくめた。
「俺はまだマシだ。お前は、こいつと組んで偵察も襲撃もやってきた」
その通りだった。
最初の偵察、バルディオの屋敷襲撃、中継地点の襲撃。全部、こいつと一緒にやった。岩陰で身の上を話した。傷を縫ってもらった。それで、こいつの正体は知らなかった。
深く息を吐いた。
* * *
「アドニス」
「はい」
「なんで、今、話す気になった」
アドニスは少し黙った。
「ゲイルの本邸を襲うからです」
「お前の家、だろ」
「家でした。私はもう、あの家の人間ではありません」
「父親は」
「父は、私が斬ります」
アドニスは、その一言を、長い時間をかけて口にした。
長い時間、と言っても、実際には数秒だった。だが俺には長く感じた。アドニスがその一言を口にするまでに、何度それを呑み込んできたかが、見えた気がした。
「お前が斬るのか」
「私が斬らねばなりません。父を斬ることで、初めて私は、家督を捨てたと自分に証明できる。それまでは、私はまだ家の人間です」
俺は何も言えなかった。
何かを言うべきだった気がしたが、何を言えばいいか分からなかった。
「弟妹は、どうする」
俺は訊いた。
「フィンとアレンとノエル」
「フィンは二十歳。私が出奔した時点で、家督を継ぐ覚悟はある男です。アレンは十七で、まだ若い。ノエルは十四、何も知らない子です」
「斬らないんだろうな」
「斬りません。母も斬りません。父だけです」
アドニスはそう言って、ダンテさんの方を見た。
「ダンテさんに、それを条件にしました」
「俺も同意した」
ダンテさんは頷いた。
「ゲイル一人を仕留めれば、第一領は崩れる。妻と子供を斬る必要はない。家族の身柄は反乱軍が拘束し、戦後の処遇は政治の議論で決める」
「了解です」
短く返した。
* * *
作戦の詳細をサイラスさんが説明した。
ゲイルの本邸は第一領の中央、配水路の上流に位置する。本邸の警備は厚い。常駐兵士百二十、流動的な巡回が四十、合計百六十。反乱軍の動員可能人数を完全に上回る。
正面突破は不可能。
だから、内部の構造を熟知している人間を使う。それがアドニスだった。
アドニスは屋敷の図面を頭に入れていた。隠し通路の場所、警備の死角、夜の交代時刻、台所から地下水路に抜ける経路。全部知っていた。
「私が先導します」
アドニスは図面を指で辿った。
「夜半、隠し通路から本隊を屋敷内に入れます。警備の死角を抜けて、父の私室に直行します。私室には父一人で就寝しているはずです。母は別棟、弟妹は更に別の部屋です」
「妻子に気づかれる前に終わらせる」
ダンテさんが補足した。
「父を仕留めて、本邸の制圧を完了したら、母と弟妹の身柄を確保する。傷つけるな。アドニスの言う通りに動け」
「了解です」
頷いた。
* * *
作戦決行は三日後の夜と決まった。
その三日間、俺はアドニスとほとんど会話をしなかった。
会話しなかった、というか、できなかった。何を話せばいいか分からなかった。アドニスも、必要以上に近づいてこなかった。お互い、それが今は正しい距離だ、と分かっていた。
ただ、夜になるとアドニスはまた岩の上で書きものをしていた。
俺は天幕の入り口から、それを遠くから見ていた。アドニスは三日間、毎晩、長く書いていた。覚え書きとは違う、もっと長いものを書いている気がした。
四日目の朝、出陣の前。
アドニスが天幕の俺のところに来た。
手に小さな包みを持っていた。
「アッシュ」
「なんだ」
「これを、預かってください」
「これは」
「私が三日間で書いていたものです。私が考えていることを、書き留めました」
「なんで俺に」
「もし私が、今夜、戻らなければ、ダンテさんに渡してください。戻れば、私が回収します」
包みを受け取った。手のひらに収まる大きさ、結構な厚みがあった。
「アドニス」
「はい」
「お前、戻る気はあるか」
「あります」
アドニスは俺の目を見ていた。
「戻る気はあります。ただ、保証はできない、というだけです」
包みを懐に入れた。
包みの重みが、思ったより重かった。
* * *
夜半、俺たちはゲイルの本邸の南の谷に集結した。
反乱軍の動員人数、五十二人。少ない。少ないが、奇襲なら戦える人数だ。
ダンテさんが小声で指示を出した。アドニスが先頭に立ち、本隊三十人がアドニスの後ろにつく。残り二十二人は屋敷の外を取り囲む配置。
俺はアドニスの斜め後ろにつく組だった。エルクとノルベルトも一緒。
アドニスがフードを下ろした。
月の光に銀色の髪が見えた。
「行きましょう」
アドニスは小さく言った。
俺たちは動いた。
* * *
隠し通路は、屋敷の北側の岩盤の隙間にあった。
外から見れば、ただの岩の割れ目にしか見えない。だがアドニスはその割れ目に手を入れて、岩の裏側にある古い木の扉を開けた。
扉の奥に、地下通路が続いていた。
「行きます」
アドニスが先頭で入った。
俺たちは続いた。
通路は狭く、湿気があって、空気が悪かった。何百年か前に作られた緊急脱出路らしい。最後に使われたのがいつか、誰も知らない。アドニスだけが、子供の頃に父からこの通路の存在を教えられて覚えていた。父は息子に、自分を殺しに来る経路を教えていたことになる。
通路は屋敷の地下、ワインセラーに通じていた。
ワインセラーから、台所、食堂、廊下と進む。アドニスは迷わなかった。完全に屋敷の構造を覚えていた。
二階への階段を上った。
二階の廊下で、見張りに出くわした。
二人。
俺とノルベルトが前に出た。
無音で済ませた。剣の柄を首筋に。一発で意識を落とす。倒れた音だけが響いた。
「行きます」
アドニスが続けた。
二階の廊下の奥、左から三番目の部屋。
父の私室。
* * *
扉の前で、アドニスが止まった。
俺はその後ろにいた。
アドニスの肩が、わずかに上下していた。呼吸を整えていた。
「アドニス」
俺は小声で言った。
「俺が一緒に入る」
「いえ」
「一緒に入る」
「アッシュ」
「いい。お前、一人で行くな」
アドニスは俺の目を見た。
しばらく黙ってから、頷いた。
「では、後ろにいてください。前は、私が」
「分かった」
アドニスが扉を押した。
扉は鍵がかかっていなかった。
* * *
部屋の中は暗かった。
月の光だけが、奥のベッドを照らしていた。
ベッドには、太った男が寝ていた。年は五十前後。腹が膨らんでいて、喉から低い鼾が漏れていた。
ゲイル・イグナティア。
俺の村を干上がらせた男。
俺は剣を握った。柄が熱かった。一歩出かけて、止まった。アドニスの背中が、俺の前にあった。
アドニスは剣を抜いた。
無音で。
ベッドに近づいた。
ゲイルの首筋に、剣の切っ先を置いた。切っ先が肌に触れた瞬間、ゲイルが目を覚ました。
ゲイルは目を開いて、剣の先を見て、それから視線を上げて、アドニスの顔を見た。
数秒、何も起きなかった。
ゲイルの口が動いた。
「アドニス」
「父上」
「お前、生きていたか」
「生きておりました」
「家を、出たままだと、思っていた」
「出たままです。今夜、戻ってまいりました」
ゲイルは寝起きの濁った目で、息子の顔を見上げた。
「……剣を、引け」
「引きません」
「アドニス」
「父上、私はあなたを斬りに来ました」
ゲイルの目が、わずかに動いた。
動いて、それから、止まった。
ゲイルは何かを言いかけた。
言いかけて、止めた。
止めて、もう一度言葉を探したが、出てこなかった。
最後に、彼は短く息を吐いた。
「そうか――」
それだけだった。
アドニスの剣が、動いた。
* * *
アドニスの剣は、確実に首筋を貫いた。
血が飛んだ。シーツが赤く染まった。ゲイルの体が一度跳ねて、それから動かなくなった。
部屋の中に、血の匂いだけが残った。
アドニスは剣を引いた。
引いた剣の刃に、血が滴っていた。アドニスはそれを見つめていた。長くは見つめなかった。だが、見つめる時間が必要だった。
俺は何も言わなかった。
言うべき言葉がなかった。
アドニスは剣を布で拭い、鞘に収めた。
動作は完璧だった。
完璧すぎた。
「行きましょう」
アドニスは振り返らずに言った。
「次は母の部屋です。母を起こし、弟妹も起こし、安全な場所に移します」
「アドニス」
「はい」
「ちょっと、待て」
俺はアドニスの肩に手を置いた。
アドニスは止まった。
俺の手の下で、アドニスの肩が震えていた。
完璧な動作の下に、震えが隠れていた。
俺は手に力を込めた。
肩を、抱いた。
* * *
アドニスは、俺の肩に額を預けた。
預けた、というか、預けてしまった、という方が近かった。彼自身、そうするつもりではなかったらしい。膝が崩れかけて、それを支えるために、俺の肩に額を預ける形になった。
しばらく、二人とも動かなかった。
部屋の中の血の匂いだけが、二人の周りにあった。
アドニスは何も言わなかった。
泣いてはいなかった。涙は出ていなかった。だが、音にならない呼吸が、彼の胸の中で震えていた。
俺はアドニスの背中に、もう片方の手を回した。
強くは抱かなかった。
ただ、支えるためだけに。
しばらくして、アドニスが顔を上げた。
俺の肩から離れた。
目元が赤かった。だが涙はなかった。
「申し訳ありません」
「謝るな」
「取り乱しました」
「取り乱してない」
「アッシュ」
「行こう。母さんと弟妹を起こす。お前が先に行け。俺は後ろにつく」
「はい」
アドニスは部屋を出た。
俺は最後にゲイルの遺体を一度だけ見て、扉を閉めた。
* * *
屋敷の制圧は、夜明け前に完了した。
母ミレイユは、アドニスの顔を見て泣き崩れた。何も言わなかった。涙だけが流れていた。
弟フィンはアドニスを見て、それから自分の足元を見た。長く、足元を見ていた。それから顔を上げた。
「兄上、私が家督を継ぎます」
フィンは静かに言った。
「父の罪は、私が引き受けます」
アドニスは答えなかった。
答える代わりに、弟の肩に手を置いた。それだけで、二人の間で何かが終わって、何かが始まった、ということが、見ていた俺にも分かった。
アレンは混乱していた。
ノエルは泣いていた。何が起きたか理解していなかった。十四歳の妹が、夜中に起こされて、父が死んだと聞かされて、混乱しないわけがなかった。
ミレイユが妹を抱いた。長い間、そうしていた。
* * *
夜が明け始めた頃、ダンテさんが屋敷の前で兵士たちを集めた。
ゲイル・イグナティア討伐の宣言を、ダンテさんは公式に出した。屋敷の外に集まり始めていた領民たちに向けて。
「腐敗貴族ゲイル・イグナティアは、本日未明、討たれた」
ダンテさんの声は、屋敷の前に集まった領民たちに届いた。
「今後、第一領の統治は、彼の長男フィン・イグナティアが暫定的に引き継ぐ。配水路の管理は、反乱軍と協議の上、末端の村まで水が届くように再編する。これは、始まりだ」
領民たちがざわついた。
歓声を上げる者、戸惑う者、無言で立ち尽くす者。様々だった。
俺はその場に立って、ダンテさんの隣のアドニスを見ていた。
アドニスは何も言わなかった。
だが、その横顔には、夜明けの光が当たっていた。
* * *
屋敷の裏手で、俺は懐から包みを取り出した。
アドニスが俺に預けたもの。三日間、書き続けていたもの。
「アドニス」
「はい」
「これ、返す」
俺は包みをアドニスに差し出した。
アドニスは受け取って、包みを開けた。中には何枚かの巻物が入っていた。アドニスはそれを少し見て、それから包み直した。
「アッシュ」
「ああ」
「これは、私の戦後の構想です」
「戦後」
「父を斬った今、私には戦後を考える資格があります。父を斬らなければ、私は家督を捨てたとは言えなかった。だから書けなかった。今は書けます」
「何を考えてる」
「王朝が崩れた後、何を作るか。それを考えています」
アドニスは包みを懐に納めた。
「これは、これから何度も書き直します。書き直しながら、戦争を続けます。戦争が終わった時、これが完成しているように」
「お前」
「はい」
「お前、考え続けるんだな」
「考え続けるしか、できません」
アドニスは俺の方を見た。
目が、いつもとは違った。覚悟が、宿っていた。
「これは、始まりです」
アドニスが言った。
ダンテさんが領民たちに向けて言ったのと同じ言葉だった。
だが、アドニスが言うと、意味が違った。
ダンテさんの「始まり」は政治の始まりだった。アドニスの「始まり」は、もっと別の何かの始まりだった。
俺はそれを、まだ言葉にできなかった。
ただ、頷いた。
頷いて、夜明けの空を見た。
空は、赤く染まっていた。




