第六章 囁き
王城の朝は、いつも同じ手順で始まる。
近衛騎士団長レイヴン・アルドリックは、夜が明ける前に起床する。鎧の点検を自ら行う。重剣の刃を布で拭く。刃のない剣だが、傷んでいないかを毎朝確かめる。それが終われば白銀の鎧を身に着け、玉座の間の隣室で陛下の朝の支度を待つ。
今朝はその手順が一つ崩れていた。
肩に巻いた包帯のせいだった。
昨夜、配水路中継地点での戦闘で、矢を受けた。鎧の隙間に深く入った。傷そのものは浅い。だが、首筋を狙った矢だったことを、レイヴンは知っていた。
あの一射は、首筋に届いていた。
届いた。届いた、はずだった。
レイヴンは肩の包帯を指で押さえた。鈍い痛みが走った。
届いていれば、自分は今ここにいない。
* * *
扉が叩かれた。
「失礼いたします」
ヘリオスの声だった。レイヴンの部下、近衛騎士団の副官格。二十六歳。実直で、無駄口を叩かない男。
「入れ」
ヘリオスが入ってきた。蜂蜜色の短髪、細身の体に磨き上げられた鎧。手に布と薬を持っている。
「肩の包帯を換えに参りました」
「自分でやる」
「お一人では届きません。失礼します」
ヘリオスはそう言って、レイヴンの肩の包帯を解き始めた。動きに迷いがない。長く部下をやっている男の手つきだった。
古い包帯が外れた。傷口が露わになる。傷の縁は赤く腫れているが、出血は止まっていた。
「思ったより浅い」
ヘリオスが小声で呟いた。
「コーデリア殿の祈りが、間に合ったのですね」
レイヴンは答えなかった。
答える必要がなかった。コーデリアの祈りが間に合った。それは事実だった。
ヘリオスは慣れた手つきで薬を塗り、新しい包帯を巻いていった。指先が一度、レイヴンの肩に長く触れた。長く、と言っても二秒ほどだ。意図的かどうかは判然としなかった。レイヴンはそれに気づかなかった。
あるいは、気づいていて、気づかないふりをしていた。
ヘリオスは包帯を結び終えると、手を引いた。
「終わりました」
「ご苦労」
「レイヴン様」
ヘリオスが少し間を置いた。
「お休みになられた方が」
「陛下の朝の報告がある」
「ですが」
「ヘリオス」
レイヴンは振り向いた。
「俺は大丈夫だ。お前は持ち場へ戻れ」
ヘリオスは深く頭を下げて、退室した。
* * *
ヘリオスの足音が廊下を遠ざかっていく。
レイヴンはしばらく扉を見ていた。
あの男は、何かを言いかけて飲んだ。レイヴンには分かっていた。分かっていて、聞かなかった。聞いてしまえば、応えなければならない。応える術を、レイヴンは持っていなかった。
近衛騎士団長は陛下の剣だ。
剣以外の役割を、レイヴンは自分に許していなかった。
* * *
玉座の間で、ゼファー・アルジャール十三世が執務をしていた。
二十八歳。先代王の遺志を継いで即位して五年目。痩せた体、長い指、机の上に積まれた書類。書類の半分は地方領からの嘆願書だった。
レイヴンが入室すると、ゼファーは顔を上げた。
「レイヴン」
「陛下、おはようございます」
「肩は」
「軽傷です」
「軽傷で済んだのは、誰の働きだ」
ゼファーは穏やかに訊いた。
穏やかな声の下に、何かを見透かす冷たさがあった。レイヴンはそれを知っていた。賢王の声だった。理念を持つ若き王の声だった。
「コーデリアです」
「あの娘か」
「はい」
「お前は、あの娘の祈りに、どれほど依存している」
レイヴンは一拍置いた。
「戦場での身体強化、感覚強化、いずれも依存しております」
「依存している、と認める。お前らしい」
ゼファーは微かに笑った。
「今回の襲撃の報告を聞かせよ」
「反乱軍の本隊が、配水路中継地点のポンプ室に侵入しました。私が到着した時には、既にポンプ室の制圧は完了しておりました」
「制圧された」
「はい。管理人を生かしたまま捕らえ、配水を再設定したと推察されます」
「末端の村に水を流したか」
「おそらく」
ゼファーは黙った。
しばらく書類を見ていた。書類の上で指が止まったまま、動かなかった。
「賢明だな」
ゼファーは呟いた。
「水を奪うのではなく、流す。民の支持を得る最短の方法を、彼らは選んでいる」
「陛下、いかがいたしますか」
「戻すこともできる。私が再設定を覆せば、水は再び中継地点で堰き止められる。だが、それをすれば、民が恨むのは私だ。彼らに支持されるのは私ではなく反乱軍となる」
ゼファーは視線を上げた。
「放っておけ」
「放置を、ですか」
「中継地点を一つ失ったところで、王朝は崩れない。失った中継から末端の村に水が流れるならば、それは民にとって必要なことだ」
レイヴンは黙った。
賢王の判断だった。理念に従った判断だった。
だが、レイヴンの中には、別の感情があった。中継地点を奪われたという事実は、王朝の支配構造の一角が崩れたことを意味する。次は別の中継、その次は別の領地と、反乱軍は順次手を広げてくる。賢王の理念に従って放置すれば、王朝はゆっくりと食い破られていく。
レイヴンは進言できなかった。
できなかった、というより、進言する資格がなかった。政治はわからない。剣だけがわかる。剣を握る人間が政治を語れば、賢王の判断を歪める。
「もう一つ報告がございます」
「申せ」
「反乱軍の中に、弓の名手がおります。私の首筋を正確に狙う技量を持つ者が」
「狙撃か」
「はい。鎧の隙間を狙い撃つ精度です。コーデリアの祈りがなければ、私は昨夜命を落としていました」
ゼファーは少し目を細めた。
「貴族出身の弓手か」
「推測ですが、おそらく」
「第一領か」
「第一領の可能性は高いと思われます」
ゼファーはそれ以上問わなかった。
問わない、ということが答えだった。第一領の貴族出身の弓手と聞けば、誰の名前が浮かぶかは、賢王の頭の中にも明白だった。
* * *
報告を終えて退室する直前、ゼファーが声をかけた。
「レイヴン」
「はい」
「お前が持って帰ってきた肩の傷は、お前の傷ではない」
レイヴンは振り返った。
「コーデリアの傷だ。あの娘がいなければ、お前は死んでいた。あの娘が、お前の代わりに矢を受けたのと同じだ」
「ご賢察の通りです」
「お前は、あの娘を、どう思っている」
レイヴンは答えなかった。
「答えなくていい」
ゼファーは言った。
「答えなくていい、というのは、お前を追い詰めるためではない。お前の答えを、私は既に推察している。それでも、あの娘は使え。使うことが、王朝のためだ」
「陛下」
「私はお前に酷なことを命じている。承知している――」
ゼファーの声に、初めてわずかな揺らぎがあった。
「だが、戦争は酷だ。私は賢王と呼ばれているが、賢王であることと、酷さを引き受けることは、両立する。むしろ両立せねばならぬ」
「はい」
「行け、レイヴン」
レイヴンは深く一礼して、玉座の間を出た。
* * *
廊下を歩きながら、レイヴンは無意識に右手を腰のあたりに動かしていた。
腰には何も帯びていない。剣はもう一本、私室に置いてあった。動かした手は、何かを探しているような動きだった。
ふと、ゼファーの腰元を思い出した。
玉座の隣の机の上、ゼファーがいつも置いている小さな短剣。銀色の鞘。簡素な作り。あれを、ゼファーは即位の日からずっと身近に置いている。執務中も、就寝時も、常に手の届く場所に。
あの短剣は、レイヴンが十六歳の時に打って贈ったものだった。
ゼファーが十歳だった頃。当時の第三王子だったゼファーが、家臣たちから「賢いが体が弱い」と評されていた頃。レイヴンが「私の主はこの方だ」と決めた頃。
お守りのつもりだった。剣として未熟だった自分が、未熟さを認めた上で打った最初の作品。短すぎて武器としては役に立たない。装飾も簡素。だが、御身を守るお守りに、と渡した。
ゼファーはそれを片時も離さない。
二十年近く経った今も、変わらず。
レイヴンは廊下を曲がって、自分の私室に向かった。
* * *
私室の扉を開ける前、コーデリアが廊下の隅に立っていた。
ローブを羽織って、フードを目深に被って、俯きがちに。
茶色のみつあみが、フードの中から覗いていた。
レイヴンを見つけて、彼女は深く頭を下げた。
「コーデリア」
「は、はい」
「報告はあるか」
「い、いえ。お、お役に、立てて」
コーデリアの声は、いつも通り途切れがちだった。一語一語が、口の中で何かを乗り越えてからようやく出てくるような音をしていた。
コーデリアは伏目のまま、胸の前で手を合わせていた。
「肩のお傷は」
「浅い。問題ない」
「よ、よかった、です」
彼女はそれだけ言って、また頭を下げた。
退こうとして、止まった。
止まった、というか、彼女自身が動けなかった。何か言いたいことがあって、しかし言えないでいる、という空気だった。
「コーデリア」
レイヴンは静かに言った。
「ご苦労だった」
「い、いえ」
「次も、頼む」
「はい。い、いつでも」
彼女は深く頭を下げて、廊下を退いていった。
ローブの裾が、石床を擦る音だけが残った。
* * *
レイヴンは私室の扉を閉めた。
扉を閉めて、しばらく動かなかった。
コーデリアの祈りに、どれほど依存しているか。陛下に問われた言葉が頭の中で繰り返された。依存している。それは事実だ。彼女がいなければ、自分の戦闘能力は半減する。彼女の常時の祈りで、身体能力が底上げされている。
そして、自分は知っていた。
彼女がそれを、誰のためにやっているか。
戦場での身体強化なら、王朝のためだと言える。だが彼女の祈りは、王朝の他の兵士には向けられていない。彼女が祈る対象は、レイヴンだけだ。
彼女は、レイヴンのために祈っている。
レイヴンを、傷つけたくないから祈っている。
それを、レイヴンは知っていた。
知った上で、利用していた。
陛下のために。
* * *
コーデリアは、王城の裏手の小さな礼拝堂で過ごすことが多かった。
午前中の祈りの時間、彼女は石床に膝をついて、両手を組んでいた。
誰もいなかった。彼女が祈る時、礼拝堂には他に人を入れない。それは慣例として皆が知っていた。コーデリアは規格外の祈り手で、王朝の戦況を支える存在で、彼女の祈りの時間は神聖視されていた。
彼女は祈っていた。
声には出さなかった。出ない、というよりも、彼女の祈りは元々、声を必要としていなかった。
彼女の頭の中で、言葉が流れていた。
レイヴン様の身体を守れ。レイヴン様の感覚を研ぎ澄ませよ。レイヴン様の動きを補強せよ。レイヴン様、レイヴン様、レイヴン様。
言葉は次々と流れて、形を持って、彼女の体から外へ流れ出ていく。流れ出た言葉は、王城の壁を抜けて、レイヴンのいる場所に届く。届いて、レイヴンの身体に染み込む。
彼女自身は、そのことを知っていた。
知っていて、嬉しかった。
昨夜、矢が首筋に届きそうになった瞬間、彼女は祈りを最大に強めた。レイヴンの身体が、わずかに動いた。指の幅一つぶん、矢の軌道から急所を逸らす方向へ。あれは反射神経ではない。あれは、彼女の祈りで届けられた、身体の補強だった。
助かった。
助かったレイヴンが、今朝、王城に戻ってきた。
その事実だけで、彼女は今日も祈れる。
彼女は両手を組んだまま、目を閉じた。
唇が、声にならない言葉を形作った。
レイヴン様。
わたしは、なんでも、いたします。
あなたが、ご無事である、ためなら――。
* * *
その日の午後、レイヴンは王城の中庭で剣の鍛錬をしていた。
肩の傷は痛んだ。だが鍛錬を止める理由にはならなかった。重剣を一度抜いて、振った。風が動いた。中庭の砂が吹き上がった。
離れたところで、ヘリオスが立っていた。
磨き終わった鎧を腕に抱えて、レイヴンの鍛錬を見ていた。見ている、と気づかれない距離で。レイヴンが鍛錬を終えて顔を上げた時には、ヘリオスは既に視線を外していた。
ヘリオスは懐に何かを忍ばせていた。
小さな何か。手のひらに収まる程度の、四角いもの。
彼はそれを取り出さなかった。取り出して、レイヴンに渡そうとして、しかし渡さない、ということを、もう何度繰り返したか。
今日も渡さなかった。
夕陽が中庭を赤く染めた頃、ヘリオスは持ち場に戻っていった。
懐の中の小さなものは、そのまま彼と共に動いていた。
* * *
夜、王城の屋根の見張り台で、レイヴンは一人で立っていた。
砂漠の夜空。星が出ていた。風が冷たかった。
南の方角に、微かな野営地の光が見える気がした。気のせいかもしれない。反乱軍の野営地は、ここから数日の距離にある。光が見えるはずがない。
だが、レイヴンには見える気がした。
あの新兵がそこにいる。
昨夜、二度目に剣を交えた若者。最初に出会ったあの場で、自分の灰色の目に喰らいついてきた青年。今夜、彼は何を考えているのだろう。
レイヴンは知らない。
知らないが、想像はできる。
彼は、また自分に向かってくるだろう。
次に出てきた時は、もう少し強くなっているかもしれない。彼の隣の弓手が、もう少し精度を上げてくるかもしれない。コーデリアの祈りが、もう少し限界に近づくかもしれない。
いずれにせよ、戦いは続く。
続く以上、自分は陛下の剣であり続ける。
ゼファーの理念が末端に届かない構造を、レイヴンは現場感覚で察していた。だが進言はしない。進言する代わりに、剣を振り続ける。それしか自分にはできない。
レイヴンは見張り台の手すりに手を置いた。
肩の傷が、また脈打った。
脈打つたびに、コーデリアの祈りが流れ込んでくるのが分かった。
彼女は今も、どこかで祈っている。
彼女の祈りは、声にならない囁きとして、夜の風の中をレイヴンに向かって流れてくる。
レイヴン様。
彼女の声が、聞こえる気がした。
聞こえる気がしたが、レイヴンはそれに答えなかった。
答える術を、彼は持たなかった。




