第五章 矢
肩の傷が癒えるまでに、十日かかった。
縫った糸を抜く時、アドニスがまた天幕に来た。今度は呼びにいかなくても来た。エルクが俺の顔を見て笑った。「あいつ、お前が呼ぶ前に動くようになったな」と。俺は笑い返さなかった。
糸を抜く間、アドニスは一言も話さなかった。指先だけが動いていた。終わってから、「これで自由に動かせます」とだけ言って帰っていった。
肩を回した。動いた。少し痛むが、剣は振れる。
ちょうどその日の夕方、ダンテさんが集会を開いた。
「次の標的を決めた」
ダンテさんの声は短かった。
「セルバン卿。第一領の二番目の腹心。屋敷は配水路の中継地点にある」
配水路の中継地点。
反応した。
「中継地点」
「そうだ」
ダンテさんが俺を見た。
「セルバンの屋敷を落とせば、配水路の中継ポンプを直接押さえられる。末端の村への水の流量を、俺たちがある程度操作できる」
兵士たちが息を呑む音がした。
「水を奪う、という意味じゃない」
ダンテさんは付け加えた。
「ゲイル領主が今、末端への水を絞っている。俺たちが中継を握れば、その流れを反転させられる。村に水を戻せる」
剣の柄を握った。手が熱くなった。
* * *
作戦の説明はサイラスさんが引き継いだ。
地図が広げられた。第一領の中央、配水路が南北に走る場所。中継地点は配水路の岩盤を貫いた地点で、地下に大きなポンプ室がある。屋敷はその真上に建てられていた。
「警備は厚い」
サイラスさんは指で屋敷を示した。
「バルディオの屋敷の倍以上だ。固定の兵士が四十、流動的な巡回が二十。合計六十前後」
兵士たちがざわついた。
反乱軍の動員可能な人数は、襲撃に使える人数で五十前後。数で負けている。
「だから正面突破はしない」
サイラスさんは続けた。
「夜襲だ。三方向から同時に。一方向は陽動、一方向は屋敷外の警備を引きつける役、もう一方向が本隊で内部に入る。本隊は一気にポンプ室まで降りる」
「ポンプを破壊するのか」
誰かが訊いた。
「いや。制御を奪う」
サイラスさんは首を振った。
「ポンプを動かすには技術がいる。反乱軍に技術者はいない。そこで、ポンプの管理人を生かして捕らえる。管理人を脅して、配水を再設定させる」
「うまくいくのか」
「うまくいくしかない」
ダンテさんが横から答えた。
* * *
配置が決まった。
俺は本隊。前衛。アドニスは射手として、屋敷の外で本隊を援護する役だった。エルクとノルベルトも本隊で、俺の隣だ。
配置を聞いた後、アドニスが俺に近づいてきた。
「アッシュ」
「なんだ」
「次に出てきたら」
アドニスは少し言葉を切った。
「白銀のことです。次に出てきたら、私が射ます」
「お前が」
「私の弓の射程と精度なら、致命傷を取れる位置はあります。あの男の鎧の隙間、首筋、目元。狙えば届く」
「届くか」
「届きます」
アドニスは断言した。
その断言の仕方は、いつものアドニスではなかった。普段のアドニスは「届くと思います」「届く可能性はあります」と留保を置く男だ。今日のアドニスは、留保を置かなかった。
「なんで言い切れる」
俺は訊いた。
「練習していたからです」
「練習」
「あの男を射る練習を、あなたが寝ている間に毎晩やっていました」
黙った。
黙ってアドニスの顔を見た。フードの下、目だけが見えていた。冷たい目だった。冷たさの奥に、何かが燃えていた。
「あの男はあなたに重剣を振った」
アドニスは続けた。
「あなたが死にかけた。私が間に合わなければ、あなたは死んでいた。それは私にとって、許容できない事態でした」
「アドニス」
「だから次に出てきたら、私が射ます。あなたを再び危険に晒さないために」
何と返していいか分からなかった。
アドニスは俺の返事を待たずに、踵を返して天幕に戻っていった。
* * *
その夜、夜襲が始まった。
月のない夜だった。風はなかった。砂漠の夜は静かで、靴底が砂を踏む音だけが続いた。
屋敷が見えてきた。
バルディオの屋敷の二倍。三倍はあるかもしれない。煌々と松明が灯っていて、見張り台に複数の影が動いている。警備は厚い。
ダンテさんが手で合図を出した。
陽動隊が動き出す。屋敷の南側に火を放つ。藁の山が燃え始める。屋敷から大声と足音が上がる。半数の兵士が南に動く。
もう一つの陽動隊が東から弓矢を射かける。屋敷から残りの兵士が東に動く。
西側、屋敷の正面から、本隊が走った。
俺は走った。エルクとノルベルトと並んで。剣の柄を握る手が熱かった。
* * *
屋敷の門は内通者が開ける手筈だった。
走って近づくと、確かに門が開いていた。だが内通者の姿がなかった。代わりに、門の内側に屍体が転がっていた。
「裏切られたか」
ノルベルトが呟いた。
「まずいぞ」
ダンテさんが後ろから来て、屍体を一瞥した。
「踏み込む。中で待ち伏せされてる可能性がある。気をつけろ」
俺たちは中に入った。
庭には敵兵が八人、剣を構えて待っていた。陽動に釣られず、ここに残っていた精鋭部隊だった。
「やれ!」
ダンテさんが叫んだ。
前に出た。
* * *
最初に来たのは、左の長身の男だった。
身を屈めて剣をかわし、男の腿を斬った。男は倒れた。倒れたところに二撃目を入れた。
次。右から短剣の男。剣の腹で短剣を弾き、男の腹に膝を入れる。男が屈んだところに、剣の柄を首に叩きつけた。男は崩れた。
体が動いた。
最初の襲撃の時より、体が軽かった。十日前と今で、何が変わったのか分からない。だが軽かった。
エルクとノルベルトも斬り進んでいた。庭の敵兵八人は、五分とかからずに片付いた。
「行くぞ」
ダンテさんが先に屋敷の中に踏み込んだ。
俺たちは続いた。
* * *
屋敷の中は迷路だった。
廊下が交差し、階段が複数あり、扉が次々と現れた。サイラスさんが事前に手書きの見取り図を持っていたが、見取り図の通りには動けなかった。途中で扉が封鎖されていたり、廊下が塞がれていたりした。
最終目的地はポンプ室。地下にある。
俺たちは階段を見つけて下りた。
地下は冷たかった。湿気があった。配水路の水が近いせいだ。空気が湿っているのに、村ではあれだけ水がないのが、改めて理不尽に思えた。
地下の通路の奥に、扉があった。
ポンプ室。
扉の前に兵士が四人立っていた。最後の防衛線だった。
「お前らで足止めするな!」
ダンテさんが叫んだ。
四人が剣を抜いた。
俺たちは斬りかかった。
* * *
四人を片付けた。怪我はあった。エルクが腕を斬られた。深くはない。ノルベルトの脛にも傷。俺は無傷だった。今回は無傷だった。
扉を開けた。
ポンプ室は思ったより小さかった。中央に大きな歯車の機構があり、その横に管理人らしい男が立っていた。手を上げていた。最初から抵抗する気がなかった。
「手を上げろ。お前を生かす。配水を再設定しろ」
ダンテさんが命じた。
管理人は震えながら頷いた。
その時、地下通路の入り口から声がした。
「来たぞ!」
屋敷の上で誰かが叫んでいた。
「白銀だ!」
白銀。
俺の体が、勝手に反応した。
* * *
ダンテさんが舌を打った。
「予想通りだ」
予想通り。それは聞いていなかった。だが言われて納得した。バルディオの屋敷でも来た男だ。第一領の中継地点が襲撃されれば、王朝直属が動かないはずがない。
「サイラス、ここを死守しろ。管理人を生かしたまま配水を変えろ。アッシュ、エルク、ノルベルト、来い。地上に戻る」
「ダンテさん、撤退じゃないんですか」
エルクが訊いた。
「撤退するにせよ、ここを抑えてからだ。中継を確保した状態で撤退する」
ダンテさんは階段を駆け上がった。
俺たちは続いた。
* * *
地上に出ると、屋敷の中庭にレイヴンがいた。
白銀の鎧。重剣。前回と同じ装備。違うのは、後ろに付き従う騎兵が今日は少ないことだ。十騎ほど。前回より三分の一だ。
たぶん、レイヴンは急いで来た。後続を待たずに先行した。
屋敷の中庭で、反乱軍の兵士たちが既にレイヴンと戦っていた。戦っていた、というより、薙ぎ払われていた。三人が地面に転がっている。
ダンテさんが叫んだ。
「アッシュ、囮になれ! あいつの注意をお前に向けろ!」
「了解!」
「アドニス!」
ダンテさんが屋敷の外に向かって叫んだ。
「狙撃の準備! お前の合図だ!」
屋敷の外から、アドニスの声が返ってきた。
「了解しました」
剣を抜いた。
* * *
レイヴンに向かって走った。
走りながら叫んだ。
「白銀! 俺だ! 覚えてるか!」
レイヴンは振り向いた。
灰色の目が、俺を見た。
あの目だった。
十日間、目の裏に焼き付いていた目。
「あの時の新兵か」
レイヴンの声は前回と同じ低さだった。
「下がれ、と言ったはずだ」
「断る! 今日はあの時とは違う!」
「違う、と言うほど鍛えたつもりか」
レイヴンは重剣を担ぎ直した。
「無理だ」
無理。前回と同じ評価。
無理だ、と俺も思っている。
だが今日は、無理を承知でやることに意味があった。
「俺が無理でも、俺だけじゃないんだよ!」
俺は叫んで、剣を振った。
* * *
最初の一撃。当たらない。前回と同じだ。
二撃目。当たらない。
三撃目。やはり当たらない。
だが、俺はあえて避けやすい角度で斬っていた。レイヴンに「対応する余裕」を与える振り方だ。レイヴンは余裕を持って俺の剣を弾いている。重剣を最小限の動きで動かしている。それだけで俺の剣を全部捌いている。
レイヴンの体は、俺に正対していた。
屋敷の外の射線は、レイヴンの右側面に開けていた。
俺の役目は、レイヴンを正対させ続けることだ。レイヴンが体勢を変えた瞬間、矢が来る。それまで俺はレイヴンを引きつける。
四撃目を、わざと深く踏み込んで振った。
踏み込みすぎて、体勢が崩れた。
レイヴンが俺の剣を弾いた。崩れた俺の体勢を、レイヴンの重剣の柄が横から押した。地面に膝をついた。
レイヴンが重剣を振り上げた。
止めの一撃。
俺はそれを待った。
「今だ、アドニス」
心の中でだけ、呟いた。
* * *
空気を切る音がした。
矢だ。
レイヴンの右側面から、一本の矢が飛んできた。
レイヴンは重剣を振り下ろす動作の最中だった。だが、矢に気づいた。気づいたのが早すぎた。
いや、早すぎた、という言い方は違うかもしれない。あまりにも自然に、当たり前のように、レイヴンは矢に反応した。重剣の振り下ろしを止め、体をわずかに捻った。
わずか、だ。指の幅一つぶんくらい。
その指の幅一つぶんで、矢の軌道が変わった。
矢はレイヴンの首筋を狙っていた。
首筋ではなく、肩に刺さった。
肩に刺さった、というか、肩の鎧の隙間に刺さった。
刺さった瞬間、レイヴンが少しよろめいた。だが倒れなかった。よろめいただけで、すぐに体勢を立て直した。
俺はその光景を、地面に膝をついたまま見ていた。
二本目の矢が来た。
レイヴンはそれを重剣で弾いた。今度は完全に弾いた。
三本目は来なかった。
来ない、と思った瞬間、屋敷の外から声がした。
「アッシュ、撤退してください! 届きません!」
アドニスの声だった。
* * *
届かない。
届かない、ではなく、届いた。
届いた、と俺は見た。最初の一矢は、確実にレイヴンの首筋を狙っていた。アドニスがそう言っていた。練習した、と。届く、と。届かないと言うはずのアドニスじゃなかった。
なのに、届かなかった。
レイヴンが、致命傷の位置だけを、わずかに外した。
偶然じゃなかった。
反射神経でもなかった。
あの動きは、何か別のものだった。
地面に手をついて立ち上がった。
レイヴンが俺を見ていた。肩に矢が刺さったまま。
「お前の仲間か」
レイヴンは矢の刺さった肩を、片手で押さえた。
「腕がいい。あの距離から首筋を狙ったのは見事だ」
「……」
「だが、届かなかったな――」
「届いた」
俺は言った。
「届いた。そのはずだ」
「届いていない」
「そうじゃない」
俺はレイヴンを見ていた。
「何が違う。お前、何が違うんだ――」
レイヴンは答えなかった。
答えずに、矢を肩から引き抜いた。引き抜くと、血が滲んだ。たいした出血ではなかった。
その時、ダンテさんが俺の肩を掴んだ。
「アッシュ、撤退! 今すぐ!」
「ダンテさん」
「サイラスがポンプ室を確保した。引くぞ。お前、立てるか」
「立てる」
「走れ」
走った。
走りながら、振り返った。
レイヴンは、追ってこなかった。
肩から矢を抜いた手で、もう片方の腕で重剣を持ったまま、俺たちが撤退するのを見ていた。追わなかったのは、追えなかったからかもしれないし、追う必要を感じなかったからかもしれない。
わからなかった。
* * *
砂漠を半時間走って、谷の入り口で集合した。
反乱軍の損害は、死者四人、負傷者九人。前回より重い。だがポンプ室の確保には成功した。サイラスさんが管理人を脅して、配水の再設定を実行した。中継地点の流量が、末端の村に向かって増えるように設定された。
成功だった。
成功だが、誰も喜んでいなかった。
アドニスが俺の隣に来た。フードを下ろしていた。月明かりの下で、銀色の髪と、冷たい目元が見えた。
「外しました」
「外してない」
「外しました。私の腕では、あれが限界でした」
「アドニス、聞け」
俺はアドニスの腕を掴んだ。
「お前は外していない。当てた。あの男が外させた」
アドニスは俺を見た。
目が大きく開いた。
しばらく、二人とも黙っていた。
* * *
ダンテさんとサイラスさんが集合した時、俺はあの場で見たことを話した。
「あの白銀は、矢を見てから動いたんじゃない。矢が当たる位置を、当たる前に変えた」
「位置を変えた、って」
エルクが訊いた。
「指の幅一つぶん体を捻った。それだけで、首筋を狙った矢が肩に逸れた」
「そりゃ反射神経だ」
「反射神経じゃない」
俺は言った。
「反射神経なら、避けるか、弾くかだ。位置を『調整する』って動きじゃない。あいつは、矢の軌道を見ながら、自分の体を矢の方に少しだけ寄せた。傷を浅くするためにだ」
ダンテさんがサイラスさんを見た。
サイラスさんは眼鏡を押し上げた。
「考えにくい動きだな」
「考えにくいですが、そう見えました」
「アドニスはどう見た」
ダンテさんがアドニスに訊いた。
アドニスは少し黙ってから、口を開いた。
「私の矢は、首筋に届くはずでした。練習通りに射れば届く距離と角度で射ました。それなのに、肩に逸れた。理由は、二つしか考えられません。一つは、私の腕が思っていたより悪かった。もう一つは、あの男に何か別の要素が働いている」
「別の要素」
「私には判断できません」
サイラスさんが眼鏡をかけ直した。
「二度目の襲撃でも、あの男が出てきた。そして、致命傷を負わせるはずの矢が、なぜか首筋を逸れた。これは、何か考えるべきことだ」
「考えても今は分からん」
ダンテさんが言った。
「持ち帰ろう。野営地に戻ってから、もう一度考える」
* * *
野営地に戻ったのは、明け方近くだった。
俺は天幕には戻らずに、岩の方に向かった。
いつもの岩。アドニスが書きものをしている岩。
今夜はアドニスもそこにいた。書きものはしていなかった。岩に座って、空を見上げていた。空はまだ暗く、星が消えかかっていた。
アドニスの隣に座った。少し離れて。
「アドニス」
「はい」
「お前の腕、悪くなかった」
「ありがとうございます」
「悪くなかった、っていうか、信じられないくらい良かった」
アドニスは少し笑った。
「だが届かなかった」
「そう」
「なら何だったんだ、あれは」
「分かりません」
「お前にも分からないか」
「分かりません。だが」
アドニスは空を見上げたまま続けた。
「次に出てきた時には、もっと考えて射ます。あの男に、あの動きをさせない射ち方を、考えます」
「できるか」
「できなければ、考え続けます。考え続けることはできます」
俺はアドニスの横顔を見た。
月の最後の光が、銀色の髪を青く染めていた。
「お前、強いな」
「弱いです」
「強い」
「弱いですよ。私はあなたの代わりに前に出ることもできない。後ろから矢を射ることしかできない。それでも届かなかった」
「届くまで射ればいい」
俺は言った。
「届くまで射ろ。お前が射るなら、俺は何度でも前に出る。次も、その次も」
アドニスは俺を見た。
しばらく黙ってから、頷いた。
「そう、しましょう」
空が白み始めていた。
俺たちはしばらく、二人で空を見上げていた。




