第四章 傷
翌朝、肩が動かなかった。
動かない、というのは正確じゃない。動かそうとすれば動くが、動かすたびに激痛が走る。布で縛った傷口の周りが熱を持っていた。
天幕の外に出て、井戸代わりの水桶のところで顔を洗った。片手で。右肩は使い物にならなかった。
エルクが俺を見て、舌を打った。
「お前、それ、やばいんじゃないか」
「動く」
「動いてないだろ」
「動く範囲では動く」
「医者に診せろ」
「軍医、いないだろ」
「いないが、傷の心得がある奴はいる。サイラスさんが詳しい。あとは、まあ」
エルクは少し言いよどんだ。
「アドニスも詳しい」
「アドニスが」
「貴族の家で育ってると、こういう傷の手当ては必ず教わるらしい。前にトルガが矢で腿を貫かれた時、アドニスが処置した。ベテランの軍医より上手いって話だった」
「そうか」
「行ってこい」
「いや、自分でやる」
「片手で布を巻き直すのか」
エルクは呆れた顔をした。
反論しなかった。反論できなかった。
* * *
アドニスの天幕は野営地の北端にあった。
他の兵士の天幕は二人か三人で一つだが、アドニスは一人で一つを使っていた。本人が望んだのか、それとも誰も同居を望まなかったのか、どちらだろうと思った。たぶん両方だ。
天幕の入り口で声をかけた。
「アドニス」
「どうぞ」
中から声が返ってきた。
中に入った。
天幕の中は整頓されていた。寝床、机、書きものをするための板。蝋燭が一本灯っていて、机の上に巻物が広げられていた。アドニスはその机に向かって、何か書いていた。
顔を上げた瞬間、アドニスが少し止まった。
俺の右肩を見ていた。
「肩」
「ああ」
「ひどくなりましたか」
「動かない」
アドニスは筆を置いた。立ち上がって、寝床の端の箱を開けた。中から布と、小さな瓶を取り出した。瓶の中は何か液体のようだった。
「座ってください」
寝床の端に座った。
「上着を」
「自分で脱げるか分からない」
「私が外します」
アドニスは俺の上着の留め金を外した。指先が肩に触れた。冷たい指だった。砂漠の夜に外で書きものをしていた指だ。
上着が落ちた。
肩の布は血で固まっていて、肌に貼り付いていた。アドニスは瓶の液体を布に浸して、固まった布をゆっくり剥がしていく。剥がす瞬間、痛みが走った。声を出さないように歯を食いしばった。
「すみません」
「いい」
「もう少し、です」
布が剥がされた。
傷口が見えた。アドニスはそれを見て、わずかに眉を寄せた。
「縫っていません」
「縫う必要があるか」
「あります」
アドニスは別の箱を開けた。針と糸を取り出した。
「縫います」
「分かった」
「痛いですよ」
「分かってる」
アドニスは瓶の液体を傷口に垂らした。沁みた。沁みただけで終わるかと思ったが、針が来た。針の先が肌を貫く感触は、想像以上に嫌な感覚だった。
息を止めた。
止めながら、アドニスの手元を見ないようにした。見ない方がましだった。
「アッシュ」
「なんだ」
「息を止めないでください。気を失います」
「分かった」
「ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。それだけ意識してください」
言われた通りにした。
* * *
縫い終わるのに、半時間ほどかかった。
アドニスは縫い目に薬を塗って、新しい布で巻いた。手つきは慣れていた。ベテラン軍医より上手い、というエルクの話は本当らしい。
「終わりました」
「助かった」
「無理は禁物です。三日は剣を振らないでください」
「三日も」
「三日です」
「ダンテさんの訓練に出れない」
「ダンテさんには私が言います。あなたが言うと無理をします」
アドニスは布の端を結んだ。手を引いた。
肩を試しに動かそうとして、止めた。痛い。痛いが、さっきの痛みとは違う。傷が閉じている痛みだ。
「なあ」
「はい」
「お前、貴族の家でこんなことまで習うのか」
「習います」
「何で」
「貴族は戦場に出ます。家督を継ぐ前に従軍経験を積むのが慣例です。戦場では兵士の傷の手当ても求められる。だから家庭教師に習います」
「お前も従軍したのか」
アドニスは答えなかった。
答えない、ということが答えだった。
深追いしなかった。
* * *
天幕を出ようとして、足が止まった。
机の上の巻物が目に入った。広げられたままだった。書きかけの何かが、月明かりではなく蝋燭の光で照らされていた。
文字は読めない。俺は字が書けないし、読めない。
だが、文字の並びの中に図のようなものがあった。線が引かれて、丸が並んで、矢印のような印が書き込まれていた。
「アドニス」
「はい」
「これは」
「私の覚え書きです」
「何の」
アドニスは少し黙った。
それから、巻物を巻き取った。
「戦略の覚え書きです。私が考えていることを、言葉と図で書き留めています」
「ダンテさんに見せるのか」
「必要があれば」
「いつもは」
「自分で考えるためです」
アドニスは巻物を箱の中にしまった。
「人に見せるためのものではありません。考えを整理するための、私の道具です」
「分かった」
それ以上訊かなかった。
* * *
昼の集会で、ダンテさんがバルディオから引き出した情報を共有した。
バルディオはあっさり喋ったらしい。命を保証されると分かった瞬間、知っていることを全部喋った。腹心ではあったが、忠誠心はそこまで深くなかった、ということだ。
情報の中身は重要だった。
第一領の他の腹心の屋敷の位置。ゲイル・イグナティアの最近の動向。配水路の管理権限の流れ。そして、王朝直属の騎士団の動き。
「レイヴン・アルドリックは王の白き剣だ」
ダンテさんは集会の最後に、その話に戻った。
「先代の近衛騎士団長から推挙されて、若くして団長になった男だ。剣の腕は王朝随一。だが、それより問題なのは、あいつが現王ゼファー・アルジャール十三世に深い忠誠を誓っていることだ」
ゼファー・アルジャール十三世。
現王の名前を、初めて聞いた。
「ゼファー王は若い。二十八歳。先代王が指名して即位して、まだ五年だ。だが評判は悪くない。賢王と呼ばれている。実際、王朝の統治は前代より良くなっている部分もある」
兵士たちがざわついた。
反乱軍の中で、現王を「賢王」と呼ぶのは奇妙な響きだった。
「ただし」
ダンテさんは続けた。
「賢王の理念は、貴族領の末端には届いていない。届けようとしていないのか、届かせる手段を持っていないのか、それとも届かない構造をそもそも理解していないのか。それは俺たちには分からない。分かるのは、末端で人が死んでいるという事実だけだ」
兵士たちの誰かが頷いた。
「俺たちが戦うのは、ゼファー王個人を倒すことが目的じゃない。ゼファー王と、彼の理念が末端まで届く構造を作ることが目的だ。今の構造では届かない。だから今の構造を壊す」
ダンテさんはそこで言葉を切った。
「だが、その壊し方を間違えれば、ゼファー王の白き剣が俺たちを薙ぎ払う。レイヴン・アルドリックは、王の理念を守るために重剣を振るう男だ。あの男を超えなければ、俺たちは王朝に届かない」
俺は無意識に、自分の右肩を押さえていた。
* * *
集会が終わった後、エルクが俺の背中を叩いた。
「お前、生き残ったんだから、もっと喜べよ」
「喜んでる」
「喜んでない顔だ」
「肩が痛い」
「そりゃそうだろ」
エルクは笑った。
「アドニスが縫ってくれたんだろ。よかったな」
「よかった」
「あいつ、お前にだけは妙に親切だ」
エルクを見た。
「妙に、って」
「あいつ、誰の手当てもやらない時はやらない。トルガの時はダンテさんが頼み込んでようやく動いた。でもお前のは、頼まれもしないのに自分でやった」
「俺が天幕に行ったから」
「お前が天幕に行く前に、もうすでに薬と針を出してたって話だ。アドニスの天幕の隣の見張りが言ってた」
答えなかった。
何と答えていいか、分からなかった。
* * *
昼下がり、天幕の中で剣の手入れをしていた。
右肩は使えないので、左手だけで布を動かして、刃の砂を落としていた。三日は剣を振るな、とアドニスに言われた。だが手入れはしておきたかった。先日の襲撃で、刃の隙間に砂と血が入り込んでいた。
天幕の入り口に、人影が立った。
顔を上げると、ノルベルトだった。最初の立ち合いの相手。あれから何度か食事を一緒にしている。気のいい男だった。
「アッシュ、ちょっといいか」
「どうした」
「お前、昨日の白銀のこと、どう思った」
ノルベルトは天幕の中に入ってきて、俺の隣に座った。
「強かった」
「強かったな」
「強かった、で済まないくらい強かった」
「だな」
ノルベルトは砂を蹴った。
「俺、最初に飛び出した三人のうちの一人を知ってる。ガイっていう、四十過ぎの古参兵だ。あの男、剣の腕は俺なんかより上だった。それが、一撃で吹き飛ばされて、起き上がらなかった」
黙った。
「俺、今日の朝、ガイの遺品を整理する手伝いをした。家族に渡すものを選別して、ダンテさんに預けた。ガイには嫁さんと、子供が二人いる」
「そうか」
「あの白銀の男は、ガイの家族のことなんか知らないだろうな」
ノルベルトの声に、初めて怒りが混じった。
俺はそれを聞きながら、奇妙なことを考えていた。
あの男はガイの家族のことを知らない。確かに知らないだろう。だが、知らないから振ったわけじゃない、という気がした。
あの男は、知っていても振った気がする。
それが、何の役にも立たない感想だということは、分かっていた。
* * *
ノルベルトが出ていった後、剣を鞘に収めた。
手入れは終わった。次に振れるのは三日後だ。
剣を寝床の脇に置いて、横になった。横になると、肩の傷が脈打った。痛みが鼓動に合わせて来る。痛みに集中していれば、他のことを考えなくて済む、と一瞬思ったが、無理だった。
灰色の目が、また浮かんだ。
あの目は、俺の向こうに何かを見ていた。誰かを見るような目だった。あの男が見ていたのは、誰だ。ゼファー王か。それとも、もっと別の何かか。
考えても分からない。
分からないが、考えてしまう。
目を閉じた。
* * *
夕飯の時、アドニスは離れた岩でいつも通り食っていた。
粥を椀に盛ってもらって、近づこうかどうか迷った。迷っているうちに、アドニスがこちらを見た。
目が合った。
アドニスは、目を逸らさなかった。
椀を持って近づいた。
「隣、いいか」
「どうぞ」
岩に座った。少し離れて。
二人で粥を食った。アドニスは何も話さなかった。俺も話さなかった。
話さないことが、嫌な感じではなかった。
* * *
夜、天幕の外に出た。
眠れなかった。
肩が痛むからじゃなかった。痛みは縫った傷の痛みで、覚悟していた痛みだった。痛い、と分かっている痛みは、眠れない理由にはならない。
眠れない理由は、別だった。
星を見上げた。砂漠の夜空。何度見ても深い。
あの男に届きたい、と昨夜思った。今夜も同じことを思っていた。同じことを思っているのに、昨夜とは少し違う気がした。昨夜は、目が合った直後の熱だった。今夜は、その熱が冷えて、もっと底の方に沈んでいた。
届きたい、ではなくて、届かないと俺は終われない、という形に変わっていた。
あの男に一撃届かせるまで、俺はこの戦争を終えられない。
ゲイル・イグナティアを倒すこと、村に水を戻すこと、それは目的のままだった。だがその目的の途中に、もう一つ別の何かが挟まった。あの灰色の目に、もう一度向き合うこと。
誰にも言わないと思った。
言ったらきっと笑われる。新兵が一度の戦闘で、敵の頭に執着している。馬鹿げている。エルクなら笑い飛ばすだろう。ダンテさんは怒るだろう。アドニスは、何と言うだろう。
アドニスのことを考えた瞬間、岩の方を見た。
いつもの岩に、アドニスがいた。
月明かりの下で、また書きものをしていた。今日は巻物ではなく、小さな板だった。今日は何を書いているんだろう、と思った。戦略の覚え書きか。それとも別の何かか。
アドニスは顔を上げなかった。
俺がここにいることに気づいているのか、気づいていて関心を持たないのか、分からなかった。
ただ、俺は今日、アドニスの天幕の中を見た。整頓された寝床。机。蝋燭。書きかけの巻物。アドニスがそこで一人で何かを考え続けている、という事実を、今日、自分の目で見た。
あの男も、何かを抱えている。
白銀の男とは違う種類の何かだ。だが、何かを抱えている。
俺はそれを知ったということだけ、覚えておこうと思った。
星を見上げた。
肩の傷が脈打った。
脈打つたびに、灰色の目が浮かんだ。
今夜も、たぶん眠れない。




