第三章 白銀
反乱軍に来て三週間が経った。
訓練の毎日だった。基礎の剣技、隊列の組み方、合図の覚え方、装備の手入れ、見張りの順番。新兵生活の全部を覚えた。エルクを始めとした先輩兵士たちにも気に入られた。アドニスとは偵察任務を二度こなした。会話は少ないままだった。それでもいい、と思っていた。
三週間目の朝、ダンテさんが全兵士を中央に集めた。
「バルディオ卿の屋敷を襲う」
声は短かった。
「明日の夜明け前、谷を抜けて屋敷を囲む。包囲後、門を破って中に入る。捕虜は取らない。逃がした奴は追わない。屋敷の中の文書は全部押収する」
兵士たちの間に緊張が走った。
俺もだ。
最初の本格的な襲撃だ。バルディオ卿は腐敗貴族の中堅で、ゲイル・イグナティアの腹心。ここを潰せば、ゲイルへの一手が見えてくる。サイラスさんがそう言っていた。
「配置はサイラスから伝える。準備しろ」
ダンテさんが踵を返して天幕に戻った。
深呼吸した。
手のひらに汗が滲んでいた。汗が滲んでいるのに気づいた瞬間、指先が冷たくなった。
大丈夫だ、と自分に言った。モンスター討伐で何度も戦ってきた。砂蜥蜴も大型の猪も倒した。人を斬るのは初めてだが、剣を振るのは同じだ。
同じだ、と二度言い聞かせた。
* * *
その夜、サイラスさんから配置の説明があった。
俺は前衛。エルクと一緒に門を最初に突破する組だ。アドニスは後方の射手。屋敷の窓から顔を出した敵兵を狙撃する役。
配置を聞いた後、エルクが俺の肩を叩いた。
「お前、緊張してるな」
「そうか」
「顔に出てる」
「平気だ」
「平気じゃない奴ほど『平気だ』って言う」
エルクは笑った。
「初陣はみんな同じだ。死なないように動け。それだけ覚えとけ」
「ああ」
「それと、ダンテさんの命令は守れ。前に出すぎるな」
頷いた。
* * *
夜明け前、谷を抜けた。
月はなかった。星明かりだけが頼りだった。兵士たちが無言で歩く。砂を踏む音だけが続いた。
屋敷が見えてきた。三週間前に偵察した時と変わらない要塞のような造り。だが今は、塀の見張り台に明かりが見える。動く影が二つ。
ダンテさんが手を上げた。
全員が止まった。
ダンテさんが指で合図を出す。射手組が右に回り込む。前衛組が左から正面に近づく。後方支援組が中央に残る。
俺はエルクの後ろについて左に回った。
心臓が大きく鳴っていた。一回ずつ、はっきりと鳴っていた。剣の柄を握って、握り直して、もう一度握り直した。
ダンテさんが手を下ろした。
突撃の合図だ。
「行くぞ!」
誰かが叫んだ。
俺たちは走った。
* * *
門までの距離は思ったよりあっという間だった。
見張り台から弓矢が飛んできた。エルクが盾を構えて受ける。盾の影を抜けて、門に取り付いた。
門は閉じていた。だが内側から閂を抜く音がした。誰かが内側から開けてくれている。サイラスさんが言っていた、内通者だ。
門が開いた。
俺たちは中に雪崩れ込んだ。
屋敷の庭で、敵兵が慌てて武器を取っていた。十人ほど。寝ぼけた顔で、鎧も半分しか着ていない奴もいる。
「やれ!」
ダンテさんの声が後ろから飛んだ。
剣を抜いた。
最初に正面から来た男に剣を振り下ろした。男は刃を盾で受けた。受けた瞬間、剣を引いて、男の脇腹に蹴りを入れる。男が体勢を崩したところに二撃目を入れた。剣が肩から胸まで斬り下ろした。
血が飛んだ。
俺の顔にかかった。
手が止まりそうになった。
止まらなかった。隣からエルクが叫んだ。
「アッシュ、右!」
右から斧を振り上げた男が来ていた。身を屈めて斧をかわし、男の腿を斬る。男は崩れた。崩れたところに、もう一撃で済ませた。
もう一人、もう一人と続いた。
数えていない。数えている余裕がなかった。
体が勝手に動いていた。三週間の訓練と、村でのモンスター討伐の経験が、頭ではなく体に染み込んでいた。
* * *
庭の敵兵を片付けて、屋敷の中に踏み込んだ。
階段、廊下、部屋、また廊下。敵が出てくれば斬る、出てこなければ進む。エルクと俺は二階を任されていた。バルディオ卿の私室があるはずの階だ。
廊下の奥で人影が動いた。
「行くぞ」
エルクが先に走った。
後を追った。
人影は若い貴族風の男だった。バルディオの息子か甥か、何かだ。剣を抜いて、震えていた。
「逃げろ」
思わず言った。
言ってから、自分でも驚いた。命令は「逃がした奴は追わない」だった。捕虜は取らない、と。だが斬る理由が見つからなかった。震えている若造を斬る理由が。
若造は俺の声に驚いた顔をして、それから本当に逃げた。窓を割って外へ飛び降りた。二階だ。骨を折るかもしれないが、死にはしないだろう。
エルクが俺を見た。
「お前」
「報告するなら好きにしろ」
「しねえよ」
エルクは肩をすくめた。
「だが、そういうのは今回までだ。次は斬れ」
「ああ」
二階の奥でバルディオ卿の私室の扉が見えた。
* * *
扉を蹴り破ると、中にバルディオ卿がいた。
四十代の太った男だった。ナイトガウンを羽織って、震える手で短剣を構えていた。短剣は俺たちに向けたものではなかった。自分の喉に向けていた。
「来るな」
バルディオが叫んだ。
「来たら俺は自分で死ぬ。お前らに殺される名誉なんかやらん」
俺とエルクは扉の前で止まった。
ダンテさんから事前に指示があった。バルディオは生きて捕らえろ、と。情報が要るから、と。
エルクが先に動いた。
「バルディオ卿。俺たちの目的は情報だ。あんたの命じゃない。短剣を下ろせ。命は保証する」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。俺たちの頭は約束を守る」
「お前らの頭が誰だか知らないのか。俺は知ってるぞ。あの隻眼の悪党だ。約束なんか守ったためしがない」
バルディオは短剣を喉にもっと近づけた。
床を蹴った。
バルディオが短剣を引く前に、俺の剣の柄が彼の手首を叩いた。短剣が床に落ちた。バルディオは尻餅をついた。
「捕縛しろ」
エルクが縄を出した。
窓を見た。窓の外で、夜が明け始めていた。
* * *
バルディオを縛り終えて、廊下に出た時だった。
屋敷の外で、馬の蹄の音がした。
複数。
多い。
俺とエルクは顔を見合わせた。
「援軍か」
「速すぎる。誰だ」
階段を駆け下りて、玄関の窓から外を見た。
屋敷の門の外に、騎馬が並んでいた。
二十騎、いや、三十騎はいる。先頭に一人、突出して前に出ている男がいた。
白銀。
月の残光と、夜明けの薄い光の両方を吸い込んで、白銀の鎧が光っていた。馬上で兜を取った男の髪が、銀色に近い灰だった。男は剣を抜いていなかった。代わりに、馬の鞍に重そうな剣を提げていた。鞘から少し見えるのは、刃ではなく、刃を潰したような分厚い金属の塊だった。
あれは、剣じゃない。
あれは、何だ。
ダンテさんの声が背後から響いた。
「総員、撤退! 予定外だ、王朝直属が来た!」
王朝直属。
あの白銀が。
窓から目が離せなかった。
白銀の男は門の前で馬を止めた。それから馬を下りた。鞍の重剣を引き抜いた。両手で持って、地面に立てた。剣の先が地面に着いた瞬間、ずん、と低い音がした。重さの音だった。
あの男はあれを片手で振るのか。
馬鹿げた話だ。
* * *
撤退命令が出た。
屋敷の裏口から逃げる手筈だった。バルディオは縛ったまま連行する。サイラスさんが先導して、新兵組は中衛で動く。前衛組は後ろを抑える役だった。俺はエルクと一緒に屋敷の正面側を抑える役を割り振られた。
だが、白銀は門を抜けて庭に入ってきていた。
二十騎が後ろに続く。
最初に飛び出したのは、前衛組の三人だった。ベテラン兵士たち。剣を構えて、白銀に向かって走った。
白銀は止まらなかった。
歩きながら、重剣を振った。
一振りだった。
三人が飛んだ。
飛んだ、という以外に表現が見つからなかった。剣が当たって、三人がまとめて宙に浮いて、地面に叩きつけられた。一人は動かなくなった。二人は転がって呻いた。
刃のない剣だ。
刃のない剣で、人を吹き飛ばしている。
唾を飲んだ。
唾を飲んでいる場合じゃないと頭は分かっていた。撤退しろ、とダンテさんは言った。だが俺の足は動かなかった。
白銀は重剣を担いだまま、こちらに向かって歩いてきた。
眼前には、白銀の鎧を纏う騎士がいた。
俺よりも明らかに別格。佇まいからして違う。こいつは強敵だと直感する。
強敵、なんてもんじゃない。
別格だ。
「アッシュ、下がれ!」
エルクの声が右から飛んできた。
「お前じゃ無理だ!」
無理。そう、無理だ。
無理だ、と分かっている。
分かっているのに。
「おもしれぇ」
俺の口から声が出た。
自分で言ったのに、自分で驚いた。
「敵の頭ぶっつぶせるチャンスだ。アッシュ、前に出る!」
「アッシュ!」
エルクの声と、後ろから走ってきたダンテさんの声が重なった。
「お前は中衛で支援しろ! 命令だ!」
ダンテさんの声が聞こえた。
聞こえた。聞こえたが、無視した。
あいつは、俺が倒す。
倒せると思ったわけじゃない。
ただ、誰かが行かなきゃ、俺たちは全員ここで吹き飛ばされる。前衛の三人がもうやられた。次は中衛だ。後衛だ。逃げる暇もなく、あの重剣で全員が地面に貼り付けられる。
誰かが時間を稼がないといけない。
なら、俺だ。
「おらぁ!」
剣を構えて、白銀に向かって走った。
* * *
白銀の男は、俺が走ってくるのを見ていた。
止まりも、避けもしなかった。重剣を肩から下ろして、両手で構え直した。それだけだった。
最初の一撃を、横から斬り上げで入れた。
剣が、白銀の鎧に当たる前に、止まった。
止まった、というか、当たらなかった。重剣が俺の剣を弾き上げた。一瞬で。男の腕は動いていないように見えた。重剣の先端だけが、ふっと動いて、俺の剣を上に弾いた。
それだけで、俺の体勢が崩れた。
崩れたところに、重剣の柄が来た。
胸に。
息が止まった。
地面に叩きつけられた。叩きつけられた、と思った瞬間、もう体が転がっていた。本能で転がっていた。転がっていなければ、次の一撃が頭に来ていた。
地面に重剣が叩きつけられる音がした。
その音を聞きながら、必死で立ち上がった。
立ち上がって、もう一度剣を構えた。
白銀の男が、俺を見ていた。
兜の下から、目が見えた。
灰色の目だった。
その目は、俺を哀れんでいなかった。怒ってもいなかった。困惑してもいなかった。ただ、見ていた。あの目は、何かを見極めようとしていた。
誰かを、見るように。
俺ではなく、俺の向こうに何かを見ているような、そんな目だった。
だが、その目が一瞬、俺と合った。
合った瞬間、息ができなくなった。
* * *
二撃目を、受けた。
受けた、と言うか、受け切れなかった。白銀の重剣が俺の剣を打ち砕くように振り下ろされて、俺の剣はかろうじて折れずに済んだが、両腕が痺れた。痺れた腕で、それでも構え直した。
「やめろ」
白銀の男が、初めて声を出した。
低い声だった。
「お前、新兵だな。下がれ。死ぬぞ――」
助言だった。
憐憫ではなく、助言だった。
息を吸った。
「断る」
前に出た。
もう一撃。当たらない。当たらないが、振った。次の一撃。当たらない。振った。当たらない。振った。
届かない。
届かないが、振った。
白銀の男は俺の剣を全部弾いていた。弾きながら、こちらの体勢が崩れる方向だけに重剣を動かしていた。最小限の動きだった。まるで俺の剣の軌道が全部読まれているかのように。
読まれていた。
完全に。
「クソが」
俺は呟いた。
* * *
三撃目を白銀が振った。
避けようとして、避けきれず、肩に当たった。鎧が裂けた。鎧の下の肉も裂けた気がした。だがまだ立っていた。
立っているのが奇跡だった。
四撃目が来る。
来る、と分かった。
来ると分かったが、避けられる気がしなかった。
その時、空気を切る音がした。
矢だ。
白銀の右から矢が飛んできた。白銀は重剣を振る動作の最中だった。だが矢に気づいた。重剣の柄で矢を弾いた。矢は地面に落ちた。
二本目の矢が来た。
白銀はそれも弾いた。
弾く動作の隙に、誰かが俺の腕を掴んだ。
「アッシュ!」
アドニスだった。
フードが脱げて、銀色の髪が見えていた。整った顔が見えていた。だが俺は顔を見ている余裕がなかった。アドニスは俺の肩を支えて、強引に後ろに引きずった。
「下がれ! 今すぐ!」
アドニスの声に、ようやく動いた。
白銀がこちらを見た。
矢を放った射手の方向を確認していた。
ほんの数秒の隙だった。
その数秒で、俺たちは屋敷の裏に回り込んだ。
* * *
屋敷の裏で、ダンテさんとエルクが待っていた。
「無事か」
「肩を斬られた」
「立てるか」
「立てる」
「なら走れ。話は後だ」
ダンテさんは俺の腕を掴んで、走らせた。
俺たちは砂漠を走った。馬を持っていない反乱軍は、走るしかなかった。幸い、白銀の騎士団は俺たちを深追いしなかった。バルディオの屋敷を確保することが優先だったのか、あるいは別の理由があったのか。
砂漠を半時間走って、谷の入り口で休んだ。
岩に座り込んだ。肩から血が滴っていた。アドニスが布を出して、傷を縛ってくれた。手つきは慣れていた。貴族の家で看護を学んだのか、それとも反乱軍に来てから覚えたのか。どちらでもいい。今はそれを訊く気力もなかった。
「アッシュ」
アドニスが手を止めずに言った。
「あなたは馬鹿です」
「知ってる」
「本気で言っています。あなたは死にかけました」
「死ななかった」
「私が間に合っただけです」
「お前のおかげだ」
アドニスはそれ以上何も言わなかった。布の端をきつく縛った。痛かった。痛かったが、痛みは生きている証拠だった。
* * *
野営地に戻ったのは昼近かった。
バルディオは無事に連行された。襲撃自体は成功と言えば成功だった。だが死者が三人。負傷者が七人。新兵組はほぼ全員無傷だったが、ベテラン兵が四人やられた。
ダンテさんは集会で全員に告げた。
「今日の襲撃で、王朝直属の騎士団が出てきた。先頭にいた白銀の男は、近衛騎士団長レイヴン・アルドリック。王の白き剣と呼ばれる男だ」
名前。
あの男に名前がついた。
「あの男が出てくるとは、俺も予想していなかった。バルディオの屋敷一つに王朝直属が動くのは、想定外だ。これからは王朝が本気で動くと考えて行動する。各員、訓練を倍にしろ」
ダンテさんは俺を見た。
短い視線だった。
その視線で、何を言われるか分かった。
* * *
集会が終わった後、俺はダンテさんの天幕に呼ばれた。
ダンテさんは机の前で腕を組んでいた。
「アッシュ」
「はい」
「お前、命令違反だ」
「分かっています」
「下がれ、と言った。お前は無視した」
「無視しました」
「理由は」
答えなかった。
答えられなかった、というより、答えがなかった。あの瞬間、誰かが時間を稼がなきゃと思って前に出た。だが、それは後付けの理屈だ。本当はもっと単純だった。
俺は、あの男から目が離せなかった。
あの灰色の目を見た瞬間、引き返せなくなった。
言えば言い訳になる。言わない方がいい。
「次はないぞ」
ダンテさんは短く言った。
「次があったら、お前を兵から外す。前衛から下げる。後方支援に回す。それでも命令違反したら、追放する」
「分かりました」
「いい返事だ」
ダンテさんは俺を見た。
「ただし、お前があの男の前に出たことで、俺たちの撤退時間が稼げたのも事実だ。アドニスがお前を引きずる時間が出来た。それで死者が三人に収まった」
「は」
「次はやるな。今回は、結果として助かった、というだけだ」
「はい」
天幕を出た。
* * *
夜になった。
俺は天幕の外で、肩の傷を押さえていた。痛みはあったが、深い傷ではなかった。アドニスが縛ってくれた布の上に、布をもう一枚巻いて止血を強めた。
星が出ていた。
星を見ていても、頭に映るのは星じゃなかった。
灰色の目だった。
白銀の鎧の縁。重剣の重さ。「下がれ。死ぬぞ」と言ったあの低い声。レイヴン・アルドリック。王の白き剣。
目を閉じても、消えなかった。
あの瞬間、目が合った瞬間、俺の中で何かが起きた。それが何なのか、まだ分からない。怒りでも憎しみでもない。恐怖でもない。何か、もっと別のものだ。
あの男に届きたい。
届きたい、と思った。
倒したい、ではなかった。届きたい、だった。今の俺の剣ではあの男に届かない。届かせたい。一撃でいい。あの灰色の目を、もう一度こっちに向かせたい。
馬鹿げている。
馬鹿げているが、それが本当のところだった。
俺は星を見るのをやめて、目を閉じた。
目の裏に、灰色の目があった。




