第二章 岩陰
翌朝、ダンテさんに呼ばれた。
中央の天幕に入ると、ダンテさんと、眼鏡の男が地図を覗き込んでいた。眼鏡の男は昨日エルクが教えてくれたサイラスだ。三十代半ば、痩せていて、眼鏡の奥の目が鋭い。
「アッシュ、来たか」
ダンテさんが顔を上げた。
「偵察に行ってもらう」
「了解です」
「相棒はもう一人。お前と組ませる」
ダンテさんが目で天幕の入り口を示した。
外で待っていたのは、アドニスだった。
フードを被って、外套を羽織って、片手に弓を持っている。背中に矢筒。腰に短剣。剣ではなく弓と短剣の構成。
一瞬、目を泳がせた。
ダンテさんが少し笑った。
「不満か」
「いや」
「じゃあ行け」
天幕を出た。アドニスは何も言わずに歩き出した。俺はその後ろを追った。
野営地を出る前、エルクが見送りに来た。
「気をつけろよ」
「ああ」
「アドニスとは慣れろ」
エルクは小声で付け足した。
「あいつ、悪い奴じゃない。ただ近づきにくいだけだ」
頷いた。アドニスは聞こえたのか聞こえなかったのか、振り返らずに先へ歩いていく。
* * *
偵察対象はバルディオ卿の屋敷だった。
ダンテさんから渡された情報書類によれば、バルディオ卿は領主ゲイル・イグナティアの腹心の一人で、第一領の中央部に屋敷を構えている。屋敷の警備状況、出入りする人数、周辺の地形を確認するのが俺たちの仕事だ。
野営地から半日歩く。砂漠を抜けて、岩盤の多い地帯に入る。バルディオ卿の屋敷は岩盤の谷を抜けた先にあるらしい。
歩き始めて一時間、アドニスに声をかけた。
「アドニスさん」
「アドニスでいいですよ」
即答だった。
「アドニスさん、と呼ぶと距離を感じます」
はあ、と思った。
呼び名を「アドニス」に切り替えた。
「アドニス」
「はい」
「ダンテさん、これ、わざとだろ」
「と言うと」
「俺たちを組ませた」
アドニスは少し黙った。歩く速度は変わらない。
「同意します」
短い返事だった。
「やっぱりか」
「ダンテさんは新兵を見極める時、必ず誰かと組ませます。組み合わせは適当ではない。意図があります」
「意図」
「私とあなたを組ませる意図は、おそらく二つ」
アドニスは指を二本立てた。フードの下で。
「一つは、私の偏屈さに耐えられる人間かどうかの試験。耐えられない新兵は、長く反乱軍にいられません」
「俺、試されてるってことか」
「そうですね」
「もう一つは」
「あなたの素性の確認。新兵は最初の任務で観察される。砂漠を歩いている時、岩陰に隠れている時、休憩している時、人は本性が出ます。それを観察できる相手として、私が選ばれた」
アドニスの後ろ姿を見た。
白い顎、黒い外套、背中の矢筒、片手の弓。ダンテさんが「観察できる相手」として選ぶだけのことはある。
「お前、頭良いな」
「これは頭の良し悪しの問題ではありません。経験です」
「経験」
「私は反乱軍に来てから、もう何度もこの観察役をやっています」
アドニスはそこで初めて少し肩をすくめた。
「飽きました」
俺は笑った。
飽きました、と言うアドニスの声には、わずかに人間味があった。フードの下で何を考えているか分からない男ではなく、毎日同じ仕事を押し付けられて愚痴を漏らす男だった。
「お疲れ」
「あなたも」
* * *
岩盤の谷に入った。
左右に切り立った岩。日が陰って、急に空気が冷たくなる。風が谷を抜けて、砂を巻き上げる。
アドニスは地形を覚えるように、頭をゆっくり動かして左右を見ていた。俺も真似した。岩の出っ張り、影になる場所、足音が反響する位置。覚えておくべきことは多い。
「アッシュ」
アドニスが小声で呼んだ。
「はい」
「右の岩棚、上に何かいます」
右を見た。岩棚の上に、影。鳥か、それとも見張りか。
「人ですか」
「人です。動きました」
「弓を構えますか」
「いいえ。気づかれていない可能性があります。気づかれていないなら、近づかずに通過するのが正解」
「分かった」
俺たちはそのまま歩いた。岩棚の上の影は動かない。こちらを見ているのか、別のものを見ているのか分からない。だが弓を引かなかった。アドニスの判断は正しかった。
谷を抜けた先に、屋敷があった。
屋敷というより、要塞だった。砂岩の壁。三階建て。窓は少なく、上の階は矢狭間のようになっている。周りを高い柵が囲んでいて、出入り口は一つだけ。
* * *
俺たちは岩陰に身を伏せて、屋敷を観察した。
昼過ぎだった。屋敷の門から人が出入りする。荷物を積んだ馬車が二台、屋敷から出て、北の方角に去っていった。中の人数は外から数えるしかない。庭で訓練している兵士が見える範囲で十二人。窓の動きから推測して、屋敷内に二十人は下らない。
アドニスは記録用の小さな板に何かを書いていた。木の板に蝋を塗って、針で引っ掻く形式。村でも見たことがある。
「あなたも観察を」
アドニスが言った。
「俺は字が書けない」
「数えるだけでいい。私が書きます」
「分かった」
屋敷をじっと見続けた。
兵士の人数、装備、訓練の様子、出入りの頻度、馬車の積荷、屋敷の構造。見ていればいるほど、村との距離を感じた。村の井戸が枯れている時、こいつらは屋敷で飯を食っている。村の女子供が水を奪い合っている時、こいつらは庭で訓練している。
腹の底が熱くなった。
手が剣の柄に伸びそうになって、慌てて引っ込めた。
「アッシュ」
「分かってる」
「分かっているなら、息を整えてください」
アドニスは俺を見ずに言った。フードの下で、書く手は止まらない。
息を吐いた。
吐いて、もう一度吐いた。
手が落ち着くまで、しばらくかかった。
* * *
観察を終えて、岩陰を離れた頃には日が傾いていた。
帰路は別ルートを取った。同じ道を戻ると待ち伏せされる可能性がある。アドニスはそう言って、谷を迂回する経路を選んだ。
迂回路は遠かった。岩盤地帯を抜けて、砂漠の縁に入った頃、低い唸り声が聞こえた。
剣の柄に手を置いた。
「砂狼だ」
アドニスが小声で言った。
「群れですか」
「そうだろう」
砂漠の砂狼は、群れ狩りをする獣だった。砂漠の縁を群れで動き、隊列を組んで獲物を追う。一頭ずつでは大したことはないが、群れで来ると数で押される。
岩陰から、四頭が出てきた。
茶色の毛並み、長い脚、耳が立っていた。先頭の一頭がこちらを威嚇する。低く構えて、後ろの三頭が左右に広がろうとした。包囲しようとしている。
「アドニス、後ろに下がれ」
「いえ、私が射ます」
アドニスが弓を引いた。
矢が放たれた。先頭の砂狼の喉に刺さった。砂狼が悲鳴を上げて崩れた。
残った三頭が散開した。一頭が俺に向かって跳んだ。剣を抜いて、跳んできた砂狼の脇腹を斬る。砂狼が地面に転がった。
もう一頭が左から来た。アドニスの二本目の矢が、その砂狼の脚を貫いた。砂狼が悲鳴を上げて、もう一頭と共に砂漠の方へ逃げ去った。
残ったのは、二頭の死骸と、地面に染みた血だけだった。
剣を布で拭いて、鞘に収めた。
「取りますか」
アドニスが訊いた。
「取る。良い値がつく」
腰の小さな短刀を抜いて、先頭で倒した砂狼の頭を割った。脳の位置に、小さな石が一つ収まっていた。
――砂狼の魔石であった。
石は、茶褐色に近い、深く濁った色をしていた。
手のひらに乗せると、見た目より少し重い。獣の魔石は色が濃く、濁りが強い、と村のじいさんに教わったことがあった。脳の働きの規模が小さい獣ほど、魔石の色は深く沈むのだという。
もう一頭の砂狼からも魔石を取った。同じく茶褐色の濁った石だった。
二つを腰の革袋に入れた。袋が、わずかに重くなった。
「これで二つ。野営地に戻ったら、ダンテさんに渡す」
「反乱軍の物資の足しに、ですか」
「そう。獣の魔石は値が安いが、何頭分かまとめれば、村の市で塩か干し肉になる」
アドニスは頷いた。
頷いて、空を見上げた。
西の空が、黄色く濁っていた。
「砂嵐」
「来ます。あと半時間ほどで」
「野営地まで戻れない」
「無理です。岩陰を探して、やり過ごします」
アドニスは周囲を見渡した。岩盤地帯の縁。大きな岩はある。岩と岩の隙間に、ちょうど人二人が入れる空間が見えた。
「あそこへ」
「了解」
俺たちは走った。
* * *
岩の隙間に体を押し込んだ瞬間、砂嵐が来た。
風が岩に当たって、轟音を立てる。砂が宙を舞って、視界が黄色く埋まる。岩の隙間にも砂が吹き込んできて、外套の端を捲り上げる。
俺たちは岩の奥まで詰めて、しゃがみ込んだ。
二人ぶんの空間しかなかった。膝と膝が触れていた。アドニスが顔を伏せて、フードを深く被り直す。俺も顔を伏せた。
「長いですか、これ」
「半時間か、一時間か。砂漠の砂嵐は短い方です。北の山岳地帯の方がもっと長く荒れる」
「詳しいな」
「経験です」
経験。さっきも言っていた言葉だ。
風の音が止まなかった。岩の隙間に閉じ込められて、外を見ることもできない。話すか、黙っているかしか選べない。
話すことにした。話さないと、村のことを考え始める。今は考えたくなかった。
「アドニス」
「はい」
「お前、なんで反乱軍に来た」
「あなたに関係ありません」
予想通りの返事だった。
「あるよ」
「どうして」
「これから一緒に戦うんだろ。相棒のことぐらい知りたい」
「相棒、ですか」
アドニスはフードの下で少し笑った気がした。声の温度が変わった。
「ご自身のことを先に聞かせてください」
順番が逆になった。
まあいい、と思った。話す方が楽な性分だ。
「俺、ドゥナ村の出だ」
「第一領の」
「そう。配水路の末端の村だ。先月から水が来なくなった。井戸も枯れた」
「先月から」
「そう。代官所に村の代表団が抗議に行ったが、まともな返事はなかった。隣の家のじいさんが、代表の中で一番口の悪いのが残らされて、二日後に骨を折られて帰ってきた」
アドニスは黙っていた。
「俺は怒った。今すぐ代官所に行って、じいさんを蹴った奴を殴りたかった。父さんに止められた。お前が殴られても何も変わらない、と言われた」
「お父さんは正しい」
「分かってる」
「分かっているなら、なぜ反乱軍に」
「順番にやればいい、と思った。代官所の見張りを殴っても何も変わらないなら、代官所そのものを潰すしかない。代官所を潰すには、その上にいる領主を倒すしかない。領主を倒すには、軍が要る。だから来た」
「単純ですね」
「単純だ」
「ご家族は」
「両親と妹。村に残してきた。父さんに『お前はお前のことをやれ』と言われた。母さんは何も言わなかった。妹は『戻ってきてね』と言った」
「戻る予定で」
「そりゃ戻る。鶏の世話があるからな」
アドニスはそこで、声を出して少し笑った。
声を出して笑ったのは、初めて聞いた気がした。
* * *
岩の外で、風の音が一段強くなった。
砂が岩の隙間に吹き込んできて、俺もアドニスも顔を伏せ直した。フードがアドニスの額にくっつくほど深く下りた。
「で」
俺は続けた。
「お前は」
アドニスはしばらく答えなかった。
風の音だけが続いた。
答える気がないのかと思った頃、ようやく口が動いた。
「私は貴族の家を出てきました。それだけです」
「それだけ」
「それだけです」
「家を出る理由があったんだろ」
「あなたに話す必要はありません」
「相棒だぞ」
「相棒の定義を、私は厳密に決めていません」
アドニスはそこで一度言葉を止めた。
「ただ、あなたが昨日、ダンテさんに正直に答えていたのは聞きました。立ち合いの後、椀を持って粥を食った時の口の動き方も覚えています。あなたが嘘をつく人間ではないことは、観察の範囲では分かりました」
「で」
「でも私は、まだ自分のことを話す段階にいません。話すべき時が来たら話します」
「話すべき時って」
「私が判断します」
「判断するのはお前だけか」
「私だけです」
その答え方は冷たかったが、嫌な感じはしなかった。
冷たい言い方の中に、決めている、という感触があった。話さないと決めている。決めて、それを実行している。
息を吐いた。
「分かった」
「お怒りですか」
「怒ってない」
「本当に」
「本当だ。お前が話さないなら、聞かないで待つ。それが相棒のすることだ」
アドニスは俺の顔を見た。フードの隙間から、目だけが見えた。長いまつ毛と、冷たそうな目。だが目の奥のどこかに、何かが揺れていた。
「あなたは……」
言いかけて、止めた。
「いえ。何でもありません」
アドニスは顔を伏せた。
砂嵐の音が続いた。
* * *
風が弱まったのは、それから三十分後だった。
俺たちは岩の隙間から這い出した。砂を払って、立ち上がった。空はまだ濁っていたが、視界は戻った。
「行きましょう」
「ああ」
歩き出して、しばらく経った頃、アドニスが口を開いた。
「アッシュ」
「なんだ」
「先ほどは、ありがとうございました」
「何が」
「待つ、と言ってくれたこと」
アドニスはそれだけ言って、また口を閉じた。
何も返さなかった。返す必要を感じなかった。
* * *
野営地に戻ったのは、夜になる少し前だった。
ダンテさんに偵察報告を済ませた。アドニスが書いた板を渡して、俺が補足した。ダンテさんは無言で目を通して、最後に頷いた。
「ご苦労」
「他に」
「今日はもうない。休め」
天幕に戻った。
エルクが居て、一日の出来事を訊いてきた。砂嵐に巻き込まれた、と言ったら笑われた。新兵あるあるらしい。
「で、アドニスとはどうだった」
「悪くなかった」
「悪くなかった、で済むのか」
「済む」
エルクは肩をすくめた。
「お前、変な奴だな」
「お互い様だ」
夕飯を済ませて、装備の手入れをした。剣の刃を布で拭き、砂を落とす。砂漠で剣を抜くと、刃の隙間に砂が入る。手入れを怠るとすぐに錆びる。
手入れを終えて、天幕の外に出た。
岩陰の方に、アドニスがいた。
昨日と同じ岩の上に座って、何かを書いている。月明かりの下で。今日は書くものが昼間と同じ蝋板ではなく、巻物だった。何か長いものを書いている。
近づこうとして、止めた。
近づいたら、また何か喋ることになる。今日は喋りすぎた。これ以上は、お互いに過剰だ。
ただ、俺は遠くからアドニスを見ていた。
月の光に外套の輪郭だけが浮かんでいた。フードの下から、白い顎が見えた。今日、岩陰で見たまつ毛の長さを思い出した。
話すべき時が来たら話します、と言った。
その時を、待つことにした。
天幕に戻った。
戻る前に、もう一度だけ岩の方を見た。
アドニスはまだそこにいた。




