表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/20

第二章 岩陰

 翌朝、ダンテさんに呼ばれた。

 中央の天幕に入ると、ダンテさんと、眼鏡の男が地図を覗き込んでいた。眼鏡の男は昨日エルクが教えてくれたサイラスだ。三十代半ば、痩せていて、眼鏡の奥の目が鋭い。

「アッシュ、来たか」

 ダンテさんが顔を上げた。

「偵察に行ってもらう」

「了解です」

「相棒はもう一人。お前と組ませる」

 ダンテさんが目で天幕の入り口を示した。

 外で待っていたのは、アドニスだった。

 フードを被って、外套を羽織って、片手に弓を持っている。背中に矢筒。腰に短剣。剣ではなく弓と短剣の構成。

 一瞬、目を泳がせた。

 ダンテさんが少し笑った。

「不満か」

「いや」

「じゃあ行け」

 天幕を出た。アドニスは何も言わずに歩き出した。俺はその後ろを追った。

 野営地を出る前、エルクが見送りに来た。

「気をつけろよ」

「ああ」

「アドニスとは慣れろ」

 エルクは小声で付け足した。

「あいつ、悪い奴じゃない。ただ近づきにくいだけだ」

 頷いた。アドニスは聞こえたのか聞こえなかったのか、振り返らずに先へ歩いていく。


 * * *


 偵察対象はバルディオ卿の屋敷だった。

 ダンテさんから渡された情報書類によれば、バルディオ卿は領主ゲイル・イグナティアの腹心の一人で、第一領の中央部に屋敷を構えている。屋敷の警備状況、出入りする人数、周辺の地形を確認するのが俺たちの仕事だ。

 野営地から半日歩く。砂漠を抜けて、岩盤の多い地帯に入る。バルディオ卿の屋敷は岩盤の谷を抜けた先にあるらしい。

 歩き始めて一時間、アドニスに声をかけた。

「アドニスさん」

「アドニスでいいですよ」

 即答だった。

「アドニスさん、と呼ぶと距離を感じます」

 はあ、と思った。

 呼び名を「アドニス」に切り替えた。

「アドニス」

「はい」

「ダンテさん、これ、わざとだろ」

「と言うと」

「俺たちを組ませた」

 アドニスは少し黙った。歩く速度は変わらない。

「同意します」

 短い返事だった。

「やっぱりか」

「ダンテさんは新兵を見極める時、必ず誰かと組ませます。組み合わせは適当ではない。意図があります」

「意図」

「私とあなたを組ませる意図は、おそらく二つ」

 アドニスは指を二本立てた。フードの下で。

「一つは、私の偏屈さに耐えられる人間かどうかの試験。耐えられない新兵は、長く反乱軍にいられません」

「俺、試されてるってことか」

「そうですね」

「もう一つは」

「あなたの素性の確認。新兵は最初の任務で観察される。砂漠を歩いている時、岩陰に隠れている時、休憩している時、人は本性が出ます。それを観察できる相手として、私が選ばれた」

 アドニスの後ろ姿を見た。

 白い顎、黒い外套、背中の矢筒、片手の弓。ダンテさんが「観察できる相手」として選ぶだけのことはある。

「お前、頭良いな」

「これは頭の良し悪しの問題ではありません。経験です」

「経験」

「私は反乱軍に来てから、もう何度もこの観察役をやっています」

 アドニスはそこで初めて少し肩をすくめた。

「飽きました」

 俺は笑った。

 飽きました、と言うアドニスの声には、わずかに人間味があった。フードの下で何を考えているか分からない男ではなく、毎日同じ仕事を押し付けられて愚痴を漏らす男だった。

「お疲れ」

「あなたも」


 * * *


 岩盤の谷に入った。

 左右に切り立った岩。日が陰って、急に空気が冷たくなる。風が谷を抜けて、砂を巻き上げる。

 アドニスは地形を覚えるように、頭をゆっくり動かして左右を見ていた。俺も真似した。岩の出っ張り、影になる場所、足音が反響する位置。覚えておくべきことは多い。

「アッシュ」

 アドニスが小声で呼んだ。

「はい」

「右の岩棚、上に何かいます」

 右を見た。岩棚の上に、影。鳥か、それとも見張りか。

「人ですか」

「人です。動きました」

「弓を構えますか」

「いいえ。気づかれていない可能性があります。気づかれていないなら、近づかずに通過するのが正解」

「分かった」

 俺たちはそのまま歩いた。岩棚の上の影は動かない。こちらを見ているのか、別のものを見ているのか分からない。だが弓を引かなかった。アドニスの判断は正しかった。

 谷を抜けた先に、屋敷があった。

 屋敷というより、要塞だった。砂岩の壁。三階建て。窓は少なく、上の階は矢狭間のようになっている。周りを高い柵が囲んでいて、出入り口は一つだけ。


 * * *


 俺たちは岩陰に身を伏せて、屋敷を観察した。

 昼過ぎだった。屋敷の門から人が出入りする。荷物を積んだ馬車が二台、屋敷から出て、北の方角に去っていった。中の人数は外から数えるしかない。庭で訓練している兵士が見える範囲で十二人。窓の動きから推測して、屋敷内に二十人は下らない。

 アドニスは記録用の小さな板に何かを書いていた。木の板に蝋を塗って、針で引っ掻く形式。村でも見たことがある。

「あなたも観察を」

 アドニスが言った。

「俺は字が書けない」

「数えるだけでいい。私が書きます」

「分かった」

 屋敷をじっと見続けた。

 兵士の人数、装備、訓練の様子、出入りの頻度、馬車の積荷、屋敷の構造。見ていればいるほど、村との距離を感じた。村の井戸が枯れている時、こいつらは屋敷で飯を食っている。村の女子供が水を奪い合っている時、こいつらは庭で訓練している。

 腹の底が熱くなった。

 手が剣の柄に伸びそうになって、慌てて引っ込めた。

「アッシュ」

「分かってる」

「分かっているなら、息を整えてください」

 アドニスは俺を見ずに言った。フードの下で、書く手は止まらない。

 息を吐いた。

 吐いて、もう一度吐いた。

 手が落ち着くまで、しばらくかかった。


 * * *


 観察を終えて、岩陰を離れた頃には日が傾いていた。

 帰路は別ルートを取った。同じ道を戻ると待ち伏せされる可能性がある。アドニスはそう言って、谷を迂回する経路を選んだ。

 迂回路は遠かった。岩盤地帯を抜けて、砂漠の縁に入った頃、低い唸り声が聞こえた。

 剣の柄に手を置いた。

「砂狼だ」

 アドニスが小声で言った。

「群れですか」

「そうだろう」

 砂漠の砂狼は、群れ狩りをする獣だった。砂漠の縁を群れで動き、隊列を組んで獲物を追う。一頭ずつでは大したことはないが、群れで来ると数で押される。

 岩陰から、四頭が出てきた。

 茶色の毛並み、長い脚、耳が立っていた。先頭の一頭がこちらを威嚇する。低く構えて、後ろの三頭が左右に広がろうとした。包囲しようとしている。

「アドニス、後ろに下がれ」

「いえ、私が射ます」

 アドニスが弓を引いた。

 矢が放たれた。先頭の砂狼の喉に刺さった。砂狼が悲鳴を上げて崩れた。

 残った三頭が散開した。一頭が俺に向かって跳んだ。剣を抜いて、跳んできた砂狼の脇腹を斬る。砂狼が地面に転がった。

 もう一頭が左から来た。アドニスの二本目の矢が、その砂狼の脚を貫いた。砂狼が悲鳴を上げて、もう一頭と共に砂漠の方へ逃げ去った。

 残ったのは、二頭の死骸と、地面に染みた血だけだった。

 剣を布で拭いて、鞘に収めた。

「取りますか」

 アドニスが訊いた。

「取る。良い値がつく」

 腰の小さな短刀を抜いて、先頭で倒した砂狼の頭を割った。脳の位置に、小さな石が一つ収まっていた。

 ――砂狼の魔石であった。

 石は、茶褐色に近い、深く濁った色をしていた。

 手のひらに乗せると、見た目より少し重い。獣の魔石は色が濃く、濁りが強い、と村のじいさんに教わったことがあった。脳の働きの規模が小さい獣ほど、魔石の色は深く沈むのだという。

 もう一頭の砂狼からも魔石を取った。同じく茶褐色の濁った石だった。

 二つを腰の革袋に入れた。袋が、わずかに重くなった。

「これで二つ。野営地に戻ったら、ダンテさんに渡す」

「反乱軍の物資の足しに、ですか」

「そう。獣の魔石は値が安いが、何頭分かまとめれば、村の市で塩か干し肉になる」

 アドニスは頷いた。

 頷いて、空を見上げた。

 西の空が、黄色く濁っていた。

「砂嵐」

「来ます。あと半時間ほどで」

「野営地まで戻れない」

「無理です。岩陰を探して、やり過ごします」

 アドニスは周囲を見渡した。岩盤地帯の縁。大きな岩はある。岩と岩の隙間に、ちょうど人二人が入れる空間が見えた。

「あそこへ」

「了解」

 俺たちは走った。


 * * *


 岩の隙間に体を押し込んだ瞬間、砂嵐が来た。

 風が岩に当たって、轟音を立てる。砂が宙を舞って、視界が黄色く埋まる。岩の隙間にも砂が吹き込んできて、外套の端を捲り上げる。

 俺たちは岩の奥まで詰めて、しゃがみ込んだ。

 二人ぶんの空間しかなかった。膝と膝が触れていた。アドニスが顔を伏せて、フードを深く被り直す。俺も顔を伏せた。

「長いですか、これ」

「半時間か、一時間か。砂漠の砂嵐は短い方です。北の山岳地帯の方がもっと長く荒れる」

「詳しいな」

「経験です」

 経験。さっきも言っていた言葉だ。

 風の音が止まなかった。岩の隙間に閉じ込められて、外を見ることもできない。話すか、黙っているかしか選べない。

 話すことにした。話さないと、村のことを考え始める。今は考えたくなかった。

「アドニス」

「はい」

「お前、なんで反乱軍に来た」

「あなたに関係ありません」

 予想通りの返事だった。

「あるよ」

「どうして」

「これから一緒に戦うんだろ。相棒のことぐらい知りたい」

「相棒、ですか」

 アドニスはフードの下で少し笑った気がした。声の温度が変わった。

「ご自身のことを先に聞かせてください」

 順番が逆になった。

 まあいい、と思った。話す方が楽な性分だ。

「俺、ドゥナ村の出だ」

「第一領の」

「そう。配水路の末端の村だ。先月から水が来なくなった。井戸も枯れた」

「先月から」

「そう。代官所に村の代表団が抗議に行ったが、まともな返事はなかった。隣の家のじいさんが、代表の中で一番口の悪いのが残らされて、二日後に骨を折られて帰ってきた」

 アドニスは黙っていた。

「俺は怒った。今すぐ代官所に行って、じいさんを蹴った奴を殴りたかった。父さんに止められた。お前が殴られても何も変わらない、と言われた」

「お父さんは正しい」

「分かってる」

「分かっているなら、なぜ反乱軍に」

「順番にやればいい、と思った。代官所の見張りを殴っても何も変わらないなら、代官所そのものを潰すしかない。代官所を潰すには、その上にいる領主を倒すしかない。領主を倒すには、軍が要る。だから来た」

「単純ですね」

「単純だ」

「ご家族は」

「両親と妹。村に残してきた。父さんに『お前はお前のことをやれ』と言われた。母さんは何も言わなかった。妹は『戻ってきてね』と言った」

「戻る予定で」

「そりゃ戻る。鶏の世話があるからな」

 アドニスはそこで、声を出して少し笑った。

 声を出して笑ったのは、初めて聞いた気がした。


 * * *


 岩の外で、風の音が一段強くなった。

 砂が岩の隙間に吹き込んできて、俺もアドニスも顔を伏せ直した。フードがアドニスの額にくっつくほど深く下りた。

「で」

 俺は続けた。

「お前は」

 アドニスはしばらく答えなかった。

 風の音だけが続いた。

 答える気がないのかと思った頃、ようやく口が動いた。

「私は貴族の家を出てきました。それだけです」

「それだけ」

「それだけです」

「家を出る理由があったんだろ」

「あなたに話す必要はありません」

「相棒だぞ」

「相棒の定義を、私は厳密に決めていません」

 アドニスはそこで一度言葉を止めた。

「ただ、あなたが昨日、ダンテさんに正直に答えていたのは聞きました。立ち合いの後、椀を持って粥を食った時の口の動き方も覚えています。あなたが嘘をつく人間ではないことは、観察の範囲では分かりました」

「で」

「でも私は、まだ自分のことを話す段階にいません。話すべき時が来たら話します」

「話すべき時って」

「私が判断します」

「判断するのはお前だけか」

「私だけです」

 その答え方は冷たかったが、嫌な感じはしなかった。

 冷たい言い方の中に、決めている、という感触があった。話さないと決めている。決めて、それを実行している。

 息を吐いた。

「分かった」

「お怒りですか」

「怒ってない」

「本当に」

「本当だ。お前が話さないなら、聞かないで待つ。それが相棒のすることだ」

 アドニスは俺の顔を見た。フードの隙間から、目だけが見えた。長いまつ毛と、冷たそうな目。だが目の奥のどこかに、何かが揺れていた。

「あなたは……」

 言いかけて、止めた。

「いえ。何でもありません」

 アドニスは顔を伏せた。

 砂嵐の音が続いた。


 * * *


 風が弱まったのは、それから三十分後だった。

 俺たちは岩の隙間から這い出した。砂を払って、立ち上がった。空はまだ濁っていたが、視界は戻った。

「行きましょう」

「ああ」

 歩き出して、しばらく経った頃、アドニスが口を開いた。

「アッシュ」

「なんだ」

「先ほどは、ありがとうございました」

「何が」

「待つ、と言ってくれたこと」

 アドニスはそれだけ言って、また口を閉じた。

 何も返さなかった。返す必要を感じなかった。


 * * *


 野営地に戻ったのは、夜になる少し前だった。

 ダンテさんに偵察報告を済ませた。アドニスが書いた板を渡して、俺が補足した。ダンテさんは無言で目を通して、最後に頷いた。

「ご苦労」

「他に」

「今日はもうない。休め」

 天幕に戻った。

 エルクが居て、一日の出来事を訊いてきた。砂嵐に巻き込まれた、と言ったら笑われた。新兵あるあるらしい。

「で、アドニスとはどうだった」

「悪くなかった」

「悪くなかった、で済むのか」

「済む」

 エルクは肩をすくめた。

「お前、変な奴だな」

「お互い様だ」

 夕飯を済ませて、装備の手入れをした。剣の刃を布で拭き、砂を落とす。砂漠で剣を抜くと、刃の隙間に砂が入る。手入れを怠るとすぐに錆びる。

 手入れを終えて、天幕の外に出た。

 岩陰の方に、アドニスがいた。

 昨日と同じ岩の上に座って、何かを書いている。月明かりの下で。今日は書くものが昼間と同じ蝋板ではなく、巻物だった。何か長いものを書いている。

 近づこうとして、止めた。

 近づいたら、また何か喋ることになる。今日は喋りすぎた。これ以上は、お互いに過剰だ。

 ただ、俺は遠くからアドニスを見ていた。

 月の光に外套の輪郭だけが浮かんでいた。フードの下から、白い顎が見えた。今日、岩陰で見たまつ毛の長さを思い出した。

 話すべき時が来たら話します、と言った。

 その時を、待つことにした。

 天幕に戻った。

 戻る前に、もう一度だけ岩の方を見た。

 アドニスはまだそこにいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ