第一章 夜空
砂漠を三日歩いた。
水袋は二日目の夕方に空になった。三日目は夜中に歩いて昼間は岩陰で寝た。砂漠の昼の暑さは人を殺す。村でも分かっていたことだが、自分の身一つで歩いてみるとよく分かった。
三日目の明け方、地平線に明かりが見えた。
反乱軍の野営地だった。
「止まれ」
いきなり横から声がした。岩陰だ。見張りが一人、弓を構えてこっちを向いていた。
両手を上げた。
「武器を捨てろ」
「腰の剣だけだ。投げる」
「ゆっくり」
ゆっくり剣を鞘ごと抜いて、地面に置いた。見張りはまだ弓を下ろさない。三十前後の男で、髭が砂で白くなっていた。
「どこから来た」
「ドゥナ村」
「第一領か」
「そうだ」
「目的は」
「腐敗貴族を倒したい。反乱軍に入りに来た」
見張りは少し黙った。それから後ろの岩を蹴った。岩の向こうから別の男が出てきて、無言で頷いて、また奥に消えた。
「歩け。剣は持っていけ。妙な動きをしたら撃つ」
「分かった」
* * *
野営地は思っていたより広かった。
天幕が二十ほど。中央に大きいのが一つ、周りに小さいのが並んでいる。煮炊きの煙が三つ四つ、空に細く伸びていた。武器の手入れをしている男たちがいる。傷を診てもらっている男もいる。女もいた。武器を持って歩いている女が二、三人いる。
見張りは俺を中央の天幕まで連れていった。
「ダンテさん。新入りです」
天幕の中から低い声が返った。
「入れろ」
天幕に入った。
中は思ったよりも明るかった。天井の一部が開いていて、そこから光が落ちてくる。机が一つ、椅子が二つ、地図が広げられていて、その地図の前に男が立っていた。
三十代後半。隻眼。右目に黒い帯。剛腕。腕の太さが俺の倍くらいある。
「ダンテだ」
「アッシュです」
「座れ」
椅子に腰を下ろした。ダンテさんは机の向こうで腕を組んだ。
「どこから来た」
「ドゥナ村。第一領の末端です」
「歳は」
「二十二」
「家族は」
「両親と妹」
「家族はどうした」
「村に残してきました。両親が残れと言ったので」
ダンテさんは少し黙った。
「腕は立つか」
「人並みより少し上だと思います。モンスター討伐の経験はあります。猪と砂蜥蜴と、たまに大型の」
「剣の流派は」
「流派ってほどのものはないです。村の年寄りに教わって、あとはモンスターと戦って覚えた」
「正直だな」
ダンテさんは少し笑った。笑うと隻眼の方が皺になって、ますます怖い顔になった。
「立ち合ってもらう。新入りは全員そうだ。お前の腕を見て、配置を決める」
「分かりました」
* * *
立ち合いの相手は、ダンテさんが指で指した男だった。
俺と同じくらいの歳の男で、左腕に古い傷がある。名前はノルベルトと言った。木剣を持ってきて、俺にも一本渡してきた。
「軽くやろうぜ」
ノルベルトは笑った。
頷いた。
砂地に円が描かれた。周りに兵士が十人ほど集まってきた。賭けでもしているのか、何人かが指を立てて数を言い合っている。
「始め」
ダンテさんが声を出した。
ノルベルトが先に踏み込んできた。速い。村のじいさんよりは確実に速い。だが、踏み込みの足が一瞬流れる癖がある。砂地に慣れていない。
半歩下がってかわした。
ノルベルトの木剣が空を切る。
そのまま懐に入って、木剣の腹をノルベルトの脇腹に当てた。
「一本」
ダンテさんの声がした。
ノルベルトは目を丸くしたまま動かなかった。
周りの兵士たちが声を上げた。賭けに勝った奴と負けた奴がいたらしい。
「もう一本やるか」
ノルベルトが構え直した。今度は表情が真剣だった。
応じた。
二本目はノルベルトが慎重に来た。砂地の足の流れに気をつけている。だが慎重になった分、踏み込みが浅い。届かない。届かない剣を振っているうちに息が上がる。
一度大きく後ろに下がった。
ノルベルトが追ってきた。追ってきた瞬間、止まって、踏み込んだ。
木剣がノルベルトの首筋の手前で止まった。
「二本目」
ダンテさんが頷いた。
「もういい。ノルベルト、下がれ」
ノルベルトは木剣を下ろして、それから笑った。
「お前、強いな」
「砂地の戦い方を知ってるかどうかの差ですよ」
「謙遜するな。腹が立つ」
俺は笑った。ノルベルトも笑った。それで済んだ。
ダンテさんは腕を組んだまま俺を見ていた。
「いいだろう。お前を新兵として受け入れる。前衛だ。明日から訓練に加わってもらう」
「分かりました」
「天幕は東の三番目だ。新兵が三人入ってる。お前で四人目だ。荷物を置いたら炊き出しに来い。腹減ってるだろう」
「減ってます」
「そうだろうな」
ダンテさんはそれだけ言って、俺を天幕の外に追い出した。
* * *
炊き出しは野営地の中央で行われていた。
大鍋が二つ。一つは雑穀の粥、もう一つは塩漬けの肉と豆を煮たもの。木の椀に粥を盛ってもらって、肉を一切れ載せてもらう。三日ぶりにまともなものを食った。
「うまい」
声に出ていたらしい。隣で食っていた中年の男が笑った。
「明日になれば不味くなる。毎日同じものだからな」
「今日のうまさは今日のものだ」
「いいこと言うな、新入り」
男はそう言って、自分の椀を空にした。
椀を持って周りを見回した。
兵士たちは三、四人ずつ集まって食っている。話に加わっている。笑っている奴、真面目に話してる奴、無言で口に運ぶだけの奴、いろいろだ。
その中に、一人だけ離れて食っている男がいた。
離れた場所の岩に腰掛けて、椀を片手に持って、もう片方の手でゆっくり匙を運んでいる。外套のフードを目深に被っていて、顔がほとんど見えない。フードの下から見えるのは、口元と、白い顎だった。
白い、と思った。
砂漠を歩いていれば日に焼ける。野営地にいる男たちは皆、肌が褐色だ。あの男だけが白い。
中年の男に訊いた。
「あの人、誰ですか」
中年の男は俺の視線を追って、それから少し顔をしかめた。
「アドニスだ」
「アドニス」
「そうだ」
「貴族の出だって聞きました」
「誰から聞いた」
「いや、見張りに連れられてくる時に、横で誰かが」
「ふん」
中年の男は粥をすすった。
「貴族の出だ。それ以上は知らん。本人が話さない。誰も知らない」
「話しかけて大丈夫ですか」
「やめとけ」
「やめとけって」
「無駄だってことだ。何度かみんな試した。返事はする。でも会話にならん。一言で終わる。それが何度か続けば、誰も話しかけなくなる」
中年の男は椀を置いた。
「お前は新入りだ。話したきゃ話してみろ。経験するのも勉強だ」
頷いた。
椀を空にして、立ち上がった。
* * *
アドニスは俺が近づいてきても顔を上げなかった。
匙を運ぶ手は止まらない。フードの中で目だけが動いた、ような気がした。気のせいかもしれない。
「お疲れさまです」
声をかけた。
「俺、新入りのアッシュです」
「アドニスです」
短い返事だった。それきり、また匙を運んだ。
「隣、いいですか」
「お好きにどうぞ」
お好きにどうぞ。
岩に腰掛けた。少し離れて。
アドニスは俺の方を見ない。匙を運ぶ。粥を食う。それだけ。
何か喋った方がいいのか、それとも黙っていた方がいいのか分からなくなった。村にいる時は、こういう場合に何を喋るかは決まっていた。天気か、作物か、村の誰それの話か。だがここは砂漠の真ん中の野営地で、知らない男の隣だった。
「立ち合い、見てましたか」
訊いてみた。
「見ていません」
「あ、そうですか」
「忙しかったので」
忙しかった。野営地で何が忙しいんだろう、と思ったが訊かなかった。訊いたら本当に終わる気がした。
しばらく黙って二人で粥を食った。
アドニスは俺より先に食い終わって、椀を岩の上に置いた。立ち上がろうとして、それから一瞬止まった。
「ご出身は」
訊かれた。
驚いて顔を上げた。
「ドゥナ村です。第一領」
「第一領」
アドニスは小さく繰り返した。フードの下の口元が、わずかに動いた。
「そうですか」
それだけ言って、立ち上がった。
歩き去る背中を、黙って見送った。
* * *
午後は天幕の片付けと、装備の確認をした。
新兵用の天幕には三人の先輩がいた。エルクという男が一番話しやすかった。俺と同じ二十代前半で、第三領の出身。家族が病気の薬代を払えなくなって、税の取り立てに来た代官の使いを殴って、村にいられなくなったのでここに来た。
「お前は」
「水。村に水が来なくなった」
「同じだな」
「同じだ」
俺たちは笑った。笑える話じゃないのに笑った。野営地ではこういう笑い方が普通らしい。
エルクは野営地の人物紹介をしてくれた。
「ダンテさんは元騎士だ。どこの所属かは言わない。十年前に何かあって、騎士団を抜けた。それから流れて、ここで反乱軍を立ち上げた」
「立ち上げたのはダンテさん」
「最初の三人の一人だ。あとの二人は最初の戦闘で死んだ。だから今はダンテさんが事実上の頭だ」
「副官は」
「副官って肩書きはない。だが実質、参謀みたいなことをやってるのが二人いる。一人はサイラス。あっちで地図見てる眼鏡の男。もう一人は、まあ、お前も気づくと思うけど」
エルクはそこで言葉を切って、外を見た。
外には、アドニスがいた。岩の上に座って、何か書いている。
「あいつだよ」
「アドニス」
「そうだ。あいつは戦う方じゃない。頭の方だ。ダンテさんが地図を広げて作戦を立てる時、あいつが横でずっと黙ってる。黙って聞いて、たまに一言だけ言う。その一言で作戦が変わる」
「強いんですか」
「強いって意味なら、戦闘ではノルベルトくらいの腕。お前より弱いかもしれん。でも、頭の中身は別格だ」
「貴族の出って聞きました」
「ああ。それも、第一領の出だ」
俺は耳を疑った。
「第一領」
「そうだ。お前と同郷だ」
外のアドニスを見た。
第一領。同じ領地の出。なのに、白い顎をしていて、フードを被っていて、誰とも話さない。
貴族の出。第一領の貴族。
第一領の貴族と言えば、領主のゲイル・イグナティアと、その腹心たちだ。腐敗貴族の中枢。俺の村を干上がらせている張本人たち。
その血筋の人間が、なぜ反乱軍にいる。
「事情は」
「知らん。本人が話さない。だがダンテさんは知ってるはずだ。あいつを参謀格に入れた時、ダンテさんが村の頭たちに言ったのは『あいつの過去は問わん。働きで判断する』それだけだ」
エルクは肩をすくめた。
「触れない方がいい話だ」
頷いた。
頷いたが、心の中では別のことを考えていた。
* * *
夜になった。
砂漠の夜は冷える。昼の暑さが嘘のように、空気が冷たくなる。星が出る。村で見る星と同じ星のはずなのに、ここで見る星は数が多く感じた。空を遮る建物がないからだろう。
天幕の外に出て、一人で星を見ていた。
他の新兵たちは天幕の中で寝ている。エルクは「最初の夜は眠れんから、無理して寝なくていい」と言った。実際、目は冴えていた。
砂漠の地平線。
ドゥナ村の方角は、こっちだ、と思って西を見た。三日歩いた距離は、目には見えない。だが村はそこにある。両親も、アネットも、ヨナスじいさんも。
兄ちゃん、ちゃんと戻ってきてね。
アネットの声が頭の中で鳴った。
戻る。必ず戻る。だがその前に、やることがある。腐敗貴族を倒す。ゲイル・イグナティアまで届かせる。そこまでやって、村に水を戻す。
簡単じゃない。
簡単じゃないが、できないと決まったわけでもない。
星を見上げた。
砂漠の夜空は、深い。井戸の底を逆さにしたような深さだ。井戸の底は黒くて、水が見えない。夜空は黒くて、星が見える。同じ黒なのに、向きが違うだけで全然違う。
ふと、視界の端に何かが映った。
岩のところに、誰かが座っていた。
アドニスだった。
フードを被ったまま、岩の上で何か書いている。月明かりだけが頼りで、よくあんなところで字が書けるものだと思った。手元に小さな板と、何かを動かす指先が見えた。
近づこうとして、止めた。
話しかけても、また「お好きにどうぞ」だ。あの男は今、自分の世界の中にいる。
ただ、俺は遠くからアドニスを見ていた。
第一領の貴族。同郷。なのに知らない男。フードの下で何を考え、何を書いているのか、誰も知らない男。
アドニスは一度も顔を上げなかった。
俺がそこにいることに気づいているのかどうかも分からなかった。気づいていても、関心を持たない、という選択をしている可能性もある。
星をもう一度見上げて、それから天幕に戻った。
戻る前に、もう一度だけ岩の方を見た。
アドニスはまだそこにいた。月の光に外套の輪郭だけが浮かんでいた。
あの男は、何者だ。
その問いだけが、頭の中に残った。




