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序章 砂漠の一滴

 汲み口の石組みを覗き込んでも、水は出ていなかった。

 予想はしていた。それでも一応試した自分が馬鹿だった。

 石組みの脇に座り込んで、乾いた窪みを見上げる。半月前まではここから細い水が流れていた。一週間前には滴になった。三日前から完全に止まった。

 ドゥナ村の朝はいつもこうだ。

 近頃はもう、と言うべきか。

「兄ちゃん、無理だって」

 背中に妹の声がする。アネットが空の水瓶を抱えて立っていた。十八になったばかりにしては小柄で、肩のあたりが薄い。痩せたな、と思う。最近ずっとそう思っている。

「井戸は」

「並んでる。一番手で来た人がもう三時間待ち」

 立ち上がって脚の砂を払った。

「行ってくる」

「あたしが行くよ」

「お前が行ってどうすんだ。横から押されて終わりだ」

 アネットは口を尖らせた。それでも瓶は俺に渡さなかった。

「兄ちゃんが代わりに並んでくれたら、その間にあたし、母さんと洗濯やる。水なくても出来ることだけ」

 水なくても出来ることだけ。

 その言い回しが嫌だった。三ヶ月前まで、こんな言葉が妹の口から出ることはなかった。

「分かった」

 瓶を受け取った。


 * * *


 井戸の前は十数人が並んでいた。皆顔見知りだ。村は狭い。

「アッシュか」

 先頭近くに立っていたのは隣家のヨナスだった。六十を過ぎたじいさんで、村の長老格の一人。両親が代官所に通っていた頃、よく一緒に行ってくれていた。

「並ぶか」

「ああ」

「最後尾じゃ夕方になるぞ」

 じいさんは振り返って列を見渡した。誰も口を開かない。順番を譲る話ではない。譲ったところで自分の家の水が減るだけだ。

 黙って列の最後についた。

 日が高くなっていく。砂漠の太陽は容赦がない。村の白壁が眩しい。井戸の縁に座って水を汲み上げているのはルナのばあさんで、滑車の音がきりきりと耳に刺さった。あの音を聞くと、水が出ない井戸を必死で汲んでいる感じがして、聞きたくなくなる。

「先月の値上げな」

 ヨナスじいさんが俺の隣でぼそりと言った。

「あれ、まだ続いてる。代官所、取り立てに来てる」

「払えるのか」

「払えるわけねえだろ」

 じいさんは砂を蹴った。

「代表団でまた行く。来週だ。お前の親父も来るって言ってる」

「俺も行く」

「お前は来るな」

 即答だった。

「お前みたいな血の気の多いのが行ったら、代官に殴りかかるだろ。そしたら一発で済まなくなる」

 黙った。否定できない。

 代官の顔を思い浮かべると、今でも腹の底が熱くなる。先月、母さんが配給所で水の量を減らされて、抗議したら頬を張られた。その場には居合わせなかった。聞いた時、鶏小屋の柵を素手で蹴り壊した。後で父さんに叱られた。

「お前は若い」

 ヨナスじいさんは続けた。

「若いってのは、じいさんどもには使い道があるんだ。村に残ってろ」

 使い道、と反芻した。


 * * *


 水を汲んで戻ったのは昼過ぎだった。瓶の半分しか入れさせてもらえなかった。一人当たりの汲み上げ量に制限がついている。

 家に帰ると、母さんが井戸ではない別の場所で布を絞っていた。

「鶏の水場の溜まり水」

 俺の視線に気づいて先に言った。

「飲まないわよ。床を拭くの」

 何も言わずに瓶を置いた。

 父さんは庭で何かを叩いている。古い農具の柄を直しているらしい。直しているというより、折れた木を別の折れた木に縛り付けている。新しい柄を買う金はもうない。

「父さん」

「おう」

「来週、代官所に行くって」

 父さんは手を止めた。木屑を払って、こっちを見る。日に焼けた顔の皺が深い。

「ヨナスから聞いたか」

「うん」

「行くぞ。前回から二週間だ。話を続けないと、あちらは忘れたふりをする」

「俺も連れてって」

 父さんは黙った。

 しばらくして、また木屑を払った。

「お前は」

「行く」

「アッシュ」

 父さんは穏やかな声で言った。穏やかな時の父さんが一番怖い。

「お前を連れていったら、向こうの兵士はまずお前を見る。若くて体格のいい男が立ってると、それだけで挑発と取られる。話の前に喧嘩になる」

「黙ってる」

「お前が黙ってるところを見たことがない」

 反論しようとして、口を閉じた。

「それに」

 父さんは木の柄を地面に置いた。

「俺たちが代官所にいる間、村の家を見てるのは誰だ。アネットと母さんだけにさせる気か」

 その言い方は卑怯だ、と思った。

 卑怯だと分かっていて言っている顔だった。

 庭の隅まで歩いて、井戸の方を睨みつけて、それから戻ってきた。

「分かった」

「分かったか」

「分かった」

 父さんは少し笑った。


 * * *


 夜になると、家族で乾いたパンと干し肉を食べた。スープはなかった。スープを作るには水がいる。

 アネットが食べながら言った。

「兄ちゃん、今日ヨナスさんとこの孫が出ていったって」

「孫って、トマスか」

「うん。東の方に行くって」

 東。砂漠の縁に反乱軍がいるという噂は、村でも知らない者がいない。代官所が「噂だ」「賊だ」と言いふらしているが、村の若い男は誰もそれを信じていない。本物の軍がいる。腐敗貴族と戦っている。

「そうか」

 短く返した。

 父さんが黙って俺を見ていた。母さんも。アネットだけが何も気づかずに干し肉を齧っていた。

 その夜、眠れなかった。


 * * *


 翌朝、両親が代官所に向かった日だった。

 ヨナスじいさんと父さんと、他に三人。村の代表団五人。母さんは見送りに出ず、家の中で皿を磨いていた。皿を磨いて綺麗になっても水で流せないので意味がないのだが、母さんは磨いていた。

 夕方、四人だけが戻ってきた。

 ヨナスじいさんがいなかった。

「じいさんは」

 父さんに駆け寄って訊いた。

「足止めだ」

 父さんは普段より目が暗かった。

「代官が、代表者の中で一番口の悪いのを残らせた。話の続きをしたいと。じいさんだ」

「足止めって」

「そういう言い方をすれば、向こうは『じいさんも納得した』って意味になる。実際には拘束だ」

「何日」

「分からん」

 地面を見た。

「殴られてるのか」

「殴ってはいない、と言っていた」

「信じるのか」

「信じない」

 父さんはそれだけ言って家に入った。

 その夜、剣を取り出した。村にいる間は使わない、と父さんに約束した剣だ。モンスター討伐で使う安物だが、それでも刃はある。柄を握って、手の感触を確かめた。


 * * *


 二日後、ヨナスじいさんが帰ってきた。

 日が傾く頃だった。村の入り口に荷馬車が一台止まって、御者は降りもせずに荷台の麻袋を一つ放り出して、すぐに鞭を振って戻っていった。

 最初、誰もそれが人だとは思わなかった。

 麻袋が動いた。

 女たちが叫んだ。

 俺は走った。

 じいさんは麻袋ではなく、麻袋を被せられていた。砂で汚れた布を引き剥がすと、顔があった。顔の半分が腫れ上がっていて、左目が完全に塞がっている。唇が裂けていて、血が乾いて固まっていた。右腕が、あるはずのない方向に曲がっていた。

 立っていたわけではなかった。立てなかったから、麻袋に詰めて運ばれてきたのだ。

「じいさん」

 じいさんの肩に触れた。じいさんはうっすらと右目を開けた。俺を見た。それから、何か言おうとして、唇が動いた。声は出なかった。

 村の女たちが布と水を持ってきた。男たちが板を運んできて、じいさんを乗せて家まで運んだ。途中、じいさんは一度だけ呻いた。骨が動いた音がした。

 その音を聞いた。

 聞いてしまった。

 じいさんが家に運び込まれてから、村の前の砂地には血の跡が点々と残っていた。誰かが砂を蹴って消そうとしたが、染みは消えなかった。砂に染みた血は、上から砂をかけても下に残る。

 父さんが俺の肩を掴んだ。

「アッシュ」

「行く」

「待て」

「待てない」

「待てと言っている」

 父さんの手は強かった。

「お前が今行ったら、ヨナスのじいさんが受けたのと同じことを受ける。それで何が変わる」

「何かは変わる」

「何も変わらん」

 父さんは俺の正面に回り込んだ。背は俺の方が高い。それでも父さんの目は俺を上から見ているように感じた。

「水は来ない。値上げは止まらん。代官は次の代表団を待つだけだ。お前が殴られても何も変わらん」

「じゃあどうしろっていうんだよ」

 声が大きくなった。家の中で母さんが息を呑む音がした。

「父さん、俺たちはどうしたらいいんだ。じいさんがあれだ。次は誰だ。父さんか。母さんか。アネットか」

 父さんは答えなかった。

 答えられなかった、というほうが正しい。

「俺たちは、ただここで待って、順番に潰されるのを見てるのか」

 父さんは長く息を吐いた。

「家に入れ」

「父さん」

「入れ」

 入った。

 家の戸を閉める時、振り返って一度だけ砂地の血の跡を見た。誰かが上から砂をかけている。それでも黒く残って見えた。


 * * *


 その夜、決めた。

 決めた、というほど大層なものじゃない。腹の底に転がっていた石を、ようやく手に取って見た、という感じだった。

 東に行く。反乱軍に入る。

 ヨナスじいさんを蹴り飛ばした奴を殴る。それで足りなければ、その上にいる奴も殴る。代官だろうが領主だろうが構わない。腐敗貴族のゲイル・イグナティアが反乱軍の最終目標だと、トマスが村を出る前に言っていた。なら、そいつまで行く。

 行って、俺の村に水が戻るところまで見届ける。

 戻ってきたら、また鶏の世話をする。

 簡単な話だ。

 寝床で目を閉じても眠れなかったので、外に出た。庭の井戸の縁に座って、星を見上げる。星は綺麗だった。水がなくても星は綺麗だ。星は腹の足しにならない。

 足音がした。

 父さんだった。

「眠れんのか」

「うん」

 父さんは隣に座った。しばらく二人とも黙っていた。

「行くのか」

 訊かれた。

 父さんの顔を見た。父さんは星を見ていた。答えなかった。答えなくても伝わっている気がした。

「止めてくれ、って言ったら、止めるか」

「無理だ」

「だろうな」

 父さんは少し笑った。

「俺がお前の歳の頃、この村は今より水が来てた。配水路の汲み口は朝から夜まで水が出てた。井戸も枯れてなかった。それが当たり前だと思ってた」

 父さんはそこで言葉を切った。

「お前の歳でこれが当たり前になるのは、俺が悪い」

「父さんのせいじゃない」

「俺のせいでもある。村に残って、代官に頭を下げて、それで何とかなると思っていた俺の世代のせいでもある」

 父さんはそれから井戸の縁を指で叩いた。

「アネットは俺と母さんで何とかする。家のことも村のことも俺たちでやる。お前はお前のことをやれ」

「うん」

「死ぬな」

「うん」

「殴られても殴り返すな、とは言わん。お前にそれは無理だ。だが、殴り返すなら確実に勝てる相手だけにしろ。負ける喧嘩はするな」

「うん」

 父さんはそれだけ言って家に入った。


 * * *


 翌朝、旅支度を済ませた。

 母さんは何も言わなかった。ただ俺の荷袋に干し肉と硬パンを詰めて、それから水袋を二つ持たせた。一つ分は自分の家の今日の水だったはずだが、指摘しなかった。指摘したら受け取れなくなる。

「母さん」

「うん」

「行ってくる」

「うん」

 母さんは俺の頬に手を当てた。手が乾いていた。普段はもっとしっとりしていたはずの手が、砂漠の砂みたいに乾いていた。それを覚えておこう、と思った。

 外に出ると、アネットが井戸の縁に座っていた。泣いていなかった。

「兄ちゃん」

「ああ」

「ちゃんと戻ってきてね。あたしたち、待ってるから」

 妹の頭に手を置いた。短い髪が指の間で跳ねた。

「戻る」

「うん」

「お前、母さんと父さんを頼んだ」

「うん」

 それ以上の言葉は出てこなかった。出てきたら泣きそうだったので、背を向けた。

 歩き出した。

 村の白壁を抜けて、配水路の脇を進んでいく。途中、止まっているはずの汲み口の一つから、ぽたりと一滴だけ水が落ちた。汲み口の根本の石組みに細いひびが入っていて、そこから滲んでいた。誰かが直そうと思って直せなかった、その痕跡だった。

 一滴だけ落ちて、それで終わりだった。

 それでも一滴は落ちた。

 その汲み口を一度だけ振り返って、また歩き出した。


 * * *


 村が小さくなる。

 白壁は砂漠の中で次第に色を失って、砂と同じ色になっていく。井戸の滑車の音はもう聞こえない。アネットの背中も見えない。

 砂漠の地平線は遠かった。風が砂を運んできて、足元に積もって、足跡を消していった。

 東に行けばいい。砂漠の縁に反乱軍がいる。三日歩けば着くと、トマスが言っていた。三日ぶんの水と食料は持っている。歩けない理由はない。

 俺はなんとかする。

 なんとかしないといけない。

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