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第十八章 玉座

 白銀の馬は、王城の正門に着いた。

 レイヴンは片手で手綱を引いて、馬を止めた。馬から下りる時、傷ついた方の脚に体重をかけられなかった。彼は鞍に手をついて、片足で地面に降り立った。

 降り立った瞬間、太腿の傷から血が地面に滴った。

 近衛兵の若い男が、駆け寄ってきた。

「レイヴン様、お運びを」

「いらん」

「ですが、お脚が」

「歩ける」

 レイヴンはそう言って、片手で剣を支えに、王城の中に入った。

 歩く動作は、片足を引きずりながらも、止まらなかった。彼は王城の廊下を、自分の足で歩いた。


 * * *


 玉座の間の扉は、開いていた。

 レイヴンが入ってきた時、ゼファーは机の前に立っていた。

 机の上には、地方領からの嘆願書がまだ積まれていた。ゼファーは読んでいた、らしかった。一枚を手に持ったまま、振り返った。

 レイヴンの姿を見た。

 白銀の鎧、宝剣、腰の短剣、懐の魔石。装備のすべては揃っていた。だが、彼の太腿から血が滴っていた。

 ゼファーはしばらく、レイヴンを見ていた。

「戻ってきたな」

「陛下」

 レイヴンは膝をついた。

 膝をついた瞬間、傷ついた脚が痺れた。痺れたが、痛みは感じなかった。痛みを感じる時間が、もう、彼には残っていなかった。

「外周は」

「破られました」

「反乱軍は」

「もうじき、ここに来ます」

 ゼファーは、嘆願書を机の上に戻した。

 戻して、机から離れた。

 玉座の方へは歩かなかった。レイヴンの方へ歩いた。

 レイヴンの前に立った。

 立って、しばらく、何も言わなかった。


 * * *


「お前は、生きて戻ってこい、と言ったはずだ」

 ゼファーは静かに言った。

「陛下」

「命令だった」

「はい」

「なぜ、戻ってきた。お前は、生きてここまで戻ってきた。生きていれば、私の命令は守られた。だが、お前の目を見れば、お前が次に何をするか、私には分かる」

 レイヴンは頭を上げた。

 ゼファーの目を見た。

 ゼファーの目は、いつもの穏やかさだった。穏やかさの下に、深いものがあった。レイヴンには分かっていた。

 二十年近く、その目を見てきた。

「陛下、私は」

「言うな」

「申し訳……ありませんでした」

「言うなと、命じた」

 ゼファーは少し笑った。

 笑ったが、笑いではなかった。

「お前は、私の命令を、最後まで守らなかった」

「申し訳ありません」

「いや、構わない」

 ゼファーは膝をついた。

 レイヴンの前で、ゼファー・アルジャール十三世が、膝をついた。

 二十年近く、それは絶対になかった構図だった。


 * * *


「陛下、お立ちください」

「立たない」

「陛下」

「私が立つ理由は、もうない」

 ゼファーはレイヴンの肩に、両手を置いた。

「お前は、よく戦った」

「私の役目です」

「役目以上のことを、お前はしてきた。私はそれを、最後まで言わなかった。今、言う」

「陛下」

「私は、お前を頼りにしていた。お前が剣を捧げてくれた日から、今日まで、ずっと頼りにしていた。お前がいなければ、私はここまで来られなかった。私の理念は、お前の剣の上に立っていた」

 ゼファーの声が、わずかに揺れた。

 揺れたが、ゼファーはその揺れを止めなかった。

 止める時間が、もう、彼にもなかった。

「お前を、頼りすぎた」

 ゼファーは静かに言った。

 その言葉は、前夜の対話で、彼が一度言いかけて、別の言葉に変えた言葉だった。今、彼はその言葉を、最後まで言った。

「私は、お前を一人の男として、見ていなかった。剣として、見ていた。お前がコーデリアを失った時、お前自身がどう感じているか、私は最後まで訊かなかった。訊くべきだった。訊かなかったのは、私の傲慢だった」

「陛下、それは」

「言葉を返すな」

「はい」

「私は、お前に詫びる」

 ゼファーは深く頭を下げた。

 王が、騎士の前で、頭を下げた。

 レイヴンは、自分の心臓の音だけを聞いていた。

 他の音が、彼の中で、すべて止まっていた。


 * * *


「陛下、頭をお上げください」

「上げない」

「私は、剣として、誇りを持って、お側におりました」

「お前」

「陛下にお仕えしてきた日々を、私は、私の人生の最も豊かな日々と、思っております」

 レイヴンの声は、震えていなかった。

 震えるべきだったかもしれない。だが震えなかった。彼は最後まで、武人としての声を保った。

「陛下、私を、見ていてくださいませ」

「レイヴン」

「私の最後を」

 レイヴンは腰の短剣を抜いた。

 簡素な作り。装飾はほとんどない。短すぎて武器としては役に立たない、お守り程度の短剣。彼自身が十六歳の時に打って、ゼファーに贈ったもの。

 ゼファーがレイヴンに返したもの。

 レイヴンは、その短剣を両手で握った。

 ゼファーは何も言わなかった。

 止めようとしなかった。

 止めるべきだ、と分かっていた。だが、止めることが、もう、彼の役割ではなかった。

 彼は、レイヴンの最後を、見ていた。

 見届けることが、彼の最後の役割だった。


 * * *


 レイヴンは短剣を、自分の喉に当てた。

 深く突き込んだ。

 短剣の刃は、彼の喉を貫いた。

 血が、白銀の鎧の上に流れた。

 彼はゼファーの目を、最後まで見ていた。

 最後の瞬間、彼の唇が、わずかに動いた。

 声は出なかった。

 だが、ゼファーには、その唇の形が読めた。

 ありがとうございました。

 彼の体が、前に倒れた。

 ゼファーの膝の前に、白銀の鎧が崩れた。


 * * *


 ゼファーは、レイヴンの体を、両手で受け止めた。

 受け止めて、しばらく動かなかった。

 彼の体温が、まだ温かかった。彼の心臓が、もう、動いていなかった。動いていない心臓の温かさを、ゼファーは長い時間、感じていた。

 長い時間、というのは、実際には短かったかもしれない。だが、彼の中では、長かった。

 彼は、レイヴンの胸に手を置いた。

 手を置いて、彼の喉に刺さった短剣を、ゆっくりと抜いた。

 抜いた短剣は、レイヴンの血で濡れていた。

 ゼファーはその短剣を、両手で握った。

 握った手が、震えなかった。

 震えるべきだったかもしれない。だが、震えなかった。

 彼も最後まで、王としての姿を、保とうとしていた。


 * * *


 ゼファー・アルジャール十三世は、玉座を見た。

 二十年近く、彼が座ってきた場所。

 その玉座には、もう座らなかった。彼が次に座るべき場所は、玉座ではなかった。

 彼は、レイヴンの傍に腰を下ろした。

 石床の上に、王が腰を下ろした。

 短剣を、自分の胸に当てた。

 刃の角度を、ゆっくりと調整した。

 調整しながら、彼は思った。

 私は、お前のところへ行く。

 お前が二十年近く、私の傍にあった。今度は、私が、お前の傍へ行く。

 彼は短剣を、自分の胸に突き込んだ。

 刃が、心臓に達した。

 短い痛みがあった。

 痛みは、すぐに引いた。

 彼の体が、レイヴンの体の上に、ゆっくりと崩れた。

 二人の亡骸が、玉座の間の床の上に、折り重なった。


 * * *


 俺たちが扉を開けた時、玉座の間は、静かだった。

 扉を押した瞬間、空気の重さが変わった。生きている人間がいる場所の空気と、そうでない場所の空気は、違っていた。

 俺は息を呑んだ。

 玉座の間の中央に、二人が倒れていた。

 白銀の鎧の上に、ゼファーの体が崩れていた。ゼファーの胸には、銀色の短剣が刺さっていた。レイヴンの喉からは、血がまだ滴っていた。

 二人の体は、折り重なっていた。

 ゼファーの腕が、レイヴンの肩を抱いている形に見えた。あるいは、レイヴンの体に、ゼファーが寄りかかっている形にも見えた。どちらでも、間違っていなかった。

 俺は剣を握ったまま、立ち止まっていた。


 * * *


「アッシュ」

 アドニスの声がした。

 アドニスも俺の隣で、立ち止まっていた。

 彼の銀髪が、玉座の間の窓から差し込む光に染まっていた。

「彼らは、自害しています」

「分かる」

「レイヴン殿が、先に。ゼファー王が、後に」

「分かる」

 俺は何も言えなかった。

 言うべき言葉が、なかった。

 俺はあの男に、届きたかった。倒したかった、ではなく、届きたかった。最後は、見届けたかった。

 届かなかった。

 見届けることも、できなかった。

 あいつは、俺の前で死ななかった。あいつは、俺の前で死ぬことを選ばなかった。あいつが選んだのは、ゼファーの前で死ぬことだった。

 俺は、あいつにとって、最後の場所ではなかった。

 それは、当たり前だった。

 当たり前だ、と分かっていても、俺の中で、何かが動いた。

 動いたが、それが何かは、分からなかった。


 * * *


 アドニスがレイヴンとゼファーの傍に膝をついた。

 ゼファーの胸の短剣を見た。

 次に、レイヴンの喉から滴る血を見た。

 短剣の柄を、しばらく見ていた。

「これは」

 アドニスが呟いた。

「これは、レイヴン殿が打った短剣です」

「分かるのか」

「ええ。鞘の意匠が、王朝騎士団の意匠と違います。これは個人で打った剣の特徴です。十代の頃に打ったもの、と推測できます」

 アドニスは続けた。

「レイヴン殿が、これでゼファー王を刺したのではない。レイヴン殿がご自身を刺し、ゼファー王が拾って、ご自身を刺された。そういう順序です」

「お前、なんでそこまで分かる」

「血の流れ方です。レイヴン殿の喉から、ゼファー王の胸の短剣には、血が伝わっていません。短剣は、レイヴン殿の血で濡れた後、別の場所で握られて、ゼファー王の胸に刺さっている」

 アドニスは静かに言った。

 政治家の目だった。冷たい観察。だが、彼の声は、わずかに揺れていた。

「彼らは、二人で逝かれた」

 アドニスはそう結んだ。

 俺は何も言わなかった。

 二人の亡骸の前で、しばらく立ち尽くしていた。


 * * *


 ダンテさんが玉座の間に入ってきた。

 入ってきた瞬間、立ち止まった。

 立ち止まって、しばらく動かなかった。

「ゼファー王と、レイヴンか」

「はい」

「自害か」

「はい」

 ダンテさんは深く息を吐いた。

 吐いた息は、長かった。

「俺たちが踏み込む前に、二人で逝ったか」

「そうです」

「アッシュ、お前たちが追いつめたわけじゃない、ということだな」

「違います」

 俺は答えた。

「あいつらは、自分で逝きました」

 ダンテさんは頷いた。

 頷いて、玉座の間の窓を見た。窓の外は、王都の市街地が広がっていた。

「分かった。これで王朝は終わりだ」

 ダンテさんはそう言って、サイラスさんを呼んだ。

 サイラスさんが入ってきた。眼鏡を押し上げて、二人の亡骸を見た。

「葬儀の手配を、私が」

「頼む」

 サイラスさんは深く頭を下げた。


 * * *


 ダンテさんは、玉座の方に歩いた。

 玉座の前で立ち止まった。

 しばらく玉座を見ていた。

 見ていたが、座らなかった。

「これからは、議会だ」

 ダンテさんは静かに言った。

「玉座は、博物館に移す。新しい統治機構を、議事堂に置く。これは、決まっていたことだ」

「はい」

 サイラスさんが答えた。

「アドニス、お前が議長だ」

 ダンテさんはアドニスを見た。

「私は」

「異論はあるか」

「いいえ、ありません」

「お前が議長になるのが、最も自然だ。貴族の出で、戦争の中心を担い、政治の整理を続けてきた。誰もが納得する」

「はい」

「アッシュは、議長の傍で剣を持て」

 ダンテさんは俺を見た。

「お前は剣士だ。政治はやらん。だが、議長を守れる剣が、議会には必要だ」

「分かりました」

「それで、いいか」

「いいです」

 俺は短く答えた。

 答えながら、自分の腹の傷をまだ片手で押さえていた。


 * * *


 二人の亡骸の処理が、始まった。

 近衛兵の生き残りが、サイラスさんの指示で動いていた。葬儀の準備、王朝崩壊の通達、各領への使者派遣。実務が動き始めていた。

 俺はアドニスと一緒に、玉座の間を出た。

 廊下を歩いた。

 歩きながら、俺は王城の各所を見ていた。長い廊下、彫刻の施された柱、絨毯、絵画。すべてが、王朝の二十年の蓄積だった。それが、これから、変わる。

「アッシュ」

 アドニスが歩きながら言った。

「あなたは、彼に届きませんでした」

「届かなかった」

「私も、彼に届きませんでした」

「お前も」

「ええ。私は、彼を倒すべきでした。倒すために剣を取った。ですが、倒せなかった。横槍が決定打になり、彼自身が逝く場所を選んだ」

 アドニスは俺の方を見た。

「アッシュ、私は」

「言わなくていい」

「言わせてください」

 アドニスは立ち止まった。

 俺も立ち止まった。

 廊下の真ん中で、二人で向かい合った。

「私は、あなたに、勝利を捧げきれませんでした」

 アドニスは静かに言った。

「私が剣を取って、あなたの隣を走ったのは、あなたにレイヴン殿を仕留めさせるためでした。あなたが何度も挑んできた相手を、ようやく倒す瞬間を、あなたに渡したかった」

「アドニス」

「渡せませんでした。横槍が入った。私は、あなたに渡しきれなかった。申し訳ありません」

 アドニスは深く頭を下げた。

 俺は、しばらくアドニスを見ていた。

 見ていて、頭の中で、何かが沸いた。


 * * *


「お前」

「はい」

「何言ってんだ」

「アッシュ」

「お前は、俺に勝利を渡そうとしてた、って言うのか」

「ええ」

「俺はお前に守られるほど弱くねえ!」

 俺の声が、廊下に響いた。

 響いた声に、俺自身が驚いた。

 驚いたが、止まらなかった。

「俺たちは、仲間だろうが! お前は俺の隣で戦う仲間だ! お前が俺に何かを渡すとか、そういう話じゃねえ! 俺は俺で勝ちにいく! お前と並んで、勝ちにいく!」

「アッシュ、それは――」

「『勝利をあなたに渡す』って何だ! 俺はお前から渡してもらう側じゃねえ! 俺は俺の剣で、あいつに届きたかった! 届かなかったが、それは俺の問題だ! お前が責任取る話じゃねえ!」

 俺は息を切らしていた。

 切らしながら、続けた。

「お前、なんでそんな小さくまとまった姿勢で来るんだ。お前は俺の隣にいる仲間なんだよ。俺はお前を頼ってる。お前も俺を頼れよ。お前一人で『渡す』『渡さない』なんて、勝手に決めるな」

 アドニスは黙っていた。

 俺の言葉を、聞いていた。

 聞いていたが、何も返さなかった。


 * * *


 長い沈黙があった。

 俺は息を整えた。

 整えながら、自分の言葉を反芻した。仲間、隣、頼れ。それらの言葉が、自分の中から自然に出たことに、俺自身が少し驚いていた。

 俺は、アドニスを仲間と思っていた。

 それは知っていた。だが、今日、それを言葉にしたのは、初めてだった。

「アドニス」

「はい」

「悪い、声を荒げた」

「いえ、構いません」

「お前が謝ること、これじゃないだろ」

「アッシュ」

「お前が謝るべきは、俺に何も渡さなかったことじゃねえ。お前が俺の隣で戦ってくれたことに、俺は感謝してる。お前は俺の仲間として、隣で戦った。それで十分だ」

 アドニスはしばらく黙っていた。

 黙ってから、深く頭を下げた。

「申し訳ありませんでした」

「だから謝るな」

「これは、別の謝罪です」

 アドニスは頭を下げたまま、続けた。

「私が、あなたを仲間として見ていなかったかもしれない、ということについて、謝罪します」

「アドニス」

「私は、あなたを、もっと別の何かとして見ていた可能性があります。仲間ではなく、捧げる対象として。それは、あなたへの侮辱でした」

 アドニスは頭を上げた。

 俺の目を見た。

「これからは、仲間として、あなたの隣に立ちます」

「ああ」

「並んで、立ちます」

「そうしろ」

 アドニスは小さく頷いた。

 頷いたが、その目の奥で、何かが、まだ動いていた。

 動いていたものが何か、俺には分からなかった。

 分からなかったが、それで良いと、俺は思った。


 * * *


 俺たちは廊下を歩き続けた。

 窓の外で、王都の鐘が鳴り始めた。

 誰かが鳴らしているのか、自然に鳴っているのか、俺には分からない。だが、鐘は鳴っていた。

 王朝が終わった。

 新しい何かが、始まる。

 俺は腹の傷を片手で押さえて、アドニスの隣を歩いた。

 二人で、廊下を歩いた。

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