終章 砂漠の風
王朝が終わって、半年が過ぎた。
俺は王城の裏手の訓練場で、剣を振っていた。
訓練場は、近衛騎士団が使っていた場所だった。今は議会直属の警備隊が使っている。広い砂地、的、藁人形、剣の架台。何も変わっていない。変わったのは、ここを使う人間と、その目的だけだった。
俺は朝から剣を振っていた。
千回、二千回、三千回。数を数えなくなってからも、ずっと振っていた。
腹の傷は、もう塞がっていた。アドニスが手配した医師が、半年かけて治した。傷跡は残った。残ったが、剣を振る動作には支障がない。
俺は剣を振り続けた。
振りながら、頭の中で、白銀の鎧が動いていた。
* * *
「あいつは、もっと、つよかった」
俺は声に出して言った。
訓練場には、誰もいなかった。早朝の鍛錬は、いつも一人だった。誰にも聞かれない場所で、俺は声に出して言った。
「あいつは、もっと、はやかった」
もう一度、剣を振った。
「あいつは、もっと、つよかった!」
声が、訓練場の砂地に吸い込まれていった。
俺はまだ、あいつに届いていない。
あいつは、もういない。死んだ。玉座の間で、自分の喉に短剣を突き入れて、ゼファーの前で逝った。俺はあいつに届く前に、あいつが逝った。
届かなかった。
届かなかったが、俺はまだ、剣を振っていた。
振っている理由を、俺はうまく言葉にできなかった。
あいつに届くため、ではなかった。あいつはもういない。
あいつに届かなかった俺自身を、超えるため、でもなかった。それも違う気がした。
ただ、剣を振っていた。
振っていることが、あいつへの返事だった。
俺は、あいつにまだ何かを返せている、と思いたかった。
* * *
昼前に、エルクが訓練場に来た。
「アッシュ、議事堂に呼ばれてる」
「ああ」
「議長の警護、今日もか」
「ああ」
「お前、半年経ってもずっと議長に張り付いてるな」
「俺の役目だ」
「政治、覚える気は」
「ない」
エルクは笑った。
「お前らしい」
俺は剣を布で拭って、鞘に収めた。腹の傷を片手で押さえる癖は、もうなくなっていた。傷は塞がった。だが、剣を鞘に収める時、わずかに腹に手が動くのは、癖として残っていた。
俺は議事堂に向かった。
* * *
議事堂は、王朝時代の宮廷だった建物を改装したものだった。
玉座は、博物館に移されていた。玉座の間は、議事堂の中央議場として使われていた。長い円卓が中央に置かれ、その周りに各領の代表が座る。代表は元貴族と、元平民から選ばれた者が混在していた。サイラスさんが選挙制度を整備して、初の議員選挙が行われたのが三ヶ月前。
議長席に、アドニスが座っていた。
銀髪は短く整えられていた。戦時のフードは、もう被っていなかった。普段着のような落ち着いた衣装に、議長の徽章だけを胸に付けていた。
俺は議長席の横に立った。
剣を腰に下げて、無言で立っていた。
政治の話は、俺には分からない。各領の予算配分、貴族の処遇、土地の再分配、軍の縮小。サイラスさんが資料を読み、各領の代表が意見を述べ、アドニスが裁定する。俺は何も言わなかった。
ただ、立っていた。
立っていることが、俺の役目だった。
* * *
議論が長引いた。第三領の代表と、第五領の代表が、土地の境界線で揉めていた。
俺は議論を聞いていた。
聞いていたが、内容は半分も理解できなかった。土地の名前、過去の協定、王朝時代の判例。耳に入るが、頭の中で整理されなかった。
だが、議長席に座るアドニスを見ていた。
アドニスは静かに議論を聞いていた。両側の意見を最後まで聞いてから、自分の判断を述べた。判断は冷たかった。冷たいが、両側を完全に否定はしなかった。それぞれの主張の核を取り出して、新しい線を引いた。
冷たい判断を、両側が受け入れた。
彼の判断には、揺るがない何かがあった。
俺はそれを、議長席の横で、見ていた。
* * *
昼の議論が終わって、休憩に入った。
各領の代表が議事堂を出て、食事に向かった。サイラスさんは資料を整理していた。アドニスは議長席に座ったまま、目を閉じていた。
俺はアドニスの隣で、立ったまま剣の柄に手を置いていた。
「アッシュ」
アドニスが目を閉じたまま言った。
「はい」
「腹の傷、痛むか」
「いや」
「医師に診せてください、今夜」
「分かった」
「あなたが立ったまま動かないでいると、傷に悪いです」
「分かった」
短いやり取りだった。
アドニスは目を開けて、俺を見た。
目が、いつもとは少し違っていた。柔らかかった。戦時の彼の目は、いつも何かを計算していた。今の彼の目は、計算を一瞬、止めていた。
「あなた、今朝も剣を振っていましたね」
「振った」
「訓練場の窓から見えました」
「お前、見てたのか」
「ええ。議事堂の二階の窓から、訓練場が見えます」
「そうか」
俺は知らなかった。議事堂の窓から訓練場が見える、ということを。半年、俺は朝の鍛錬を続けてきたが、見られていることを、意識したことがなかった。
アドニスは、俺の方を見ていた。
見ていたが、それ以上、何も言わなかった。
「アッシュ、午後の議論も、傍にいてください」
「ああ」
「お願いします」
「分かった」
俺はそれだけ答えて、議事堂の廊下に出た。
休憩の間、俺は廊下で立っていた。
廊下の窓から、外の風が入っていた。砂漠の方角からの風だった。
* * *
その頃、議長席のアドニス・イグナティアは、目を開けて、議事堂の二階の窓を見ていた。
窓の外には、王城の裏手の訓練場が見えた。
訓練場は、午前中の鍛錬の時間帯ではなかった。アッシュの姿はなかった。今、アッシュは廊下に出ている。だがアドニスは、窓の外を見ていた。
訓練場の砂地に、午前の鍛錬の跡が残っていた。
剣を振った跡、足を踏み込んだ跡、汗が落ちた跡。それらが砂地に刻まれていた。
アドニスはそれを、議事堂の窓から、毎朝見ていた。
毎朝、彼は議事堂の二階に来て、窓辺に立った。アッシュが訓練場で剣を振っているのを、しばらく見てから、議長席に戻った。それを、半年、続けていた。
アッシュは知らない。
アドニスは、それで良いと思っていた。
* * *
彼は、戦時のことを、よく思い出した。
最終決戦の後、廊下でアッシュにキレられた。「お前は俺の隣で戦う仲間だ!」「俺は俺で勝ちにいく!」「お前一人で『渡す』『渡さない』なんて、勝手に決めるな!」
あの言葉を、彼は半年かけて、咀嚼してきた。
彼はアッシュに勝利を捧げたかった。捧げきれなかったことを、申し訳ないと思った。だがアッシュは、捧げてもらう側に立つことを、拒絶した。
拒絶された時、彼は気づいた。
自分が、アッシュを、自分の隣に並ぶ仲間として見ていなかったことを。
彼は、アッシュを高い場所に置いていた。憧憬の対象として。捧げるべき対象として。それは、アッシュを上に置いているように見えて、実は、アドニス自身が捧げる側に立つための位置取りだった。
彼は、捧げる側でいたかった。
捧げる側にいることで、アッシュへの自分の感情を、純粋なものに保てた。差し出す側、応える側、控える側。それらの立場に自分を置くことで、彼は自分の冷たさを、アッシュへの感情において、否定できた。
だが、アッシュはそれを、拒絶した。
拒絶されて、彼は、自分の歪みを認識した。
歪みを認識した上で、彼はアッシュに「これからは仲間として隣に立ちます」と頭を下げた。
頭を下げて、半年が経った。
* * *
仲間として、隣に立てているか。
アドニスは、自分に問うた。
答えは、半分だった。
彼は、議長席に座っている。アッシュは、議長席の横に立っている。物理的には、彼らは隣にいる。アッシュは「議長の剣」として、アドニスの傍らで剣を握っている。
だが、アドニスはアッシュを、まだ、完全には仲間として見られていなかった。
彼は、アッシュを傍らに置けたことに、安堵していた。
戦争中、アッシュは反乱軍の前衛として、いつも前線にいた。アドニスは政治家として、後方にいた。二人の物理的な距離は、いつも遠かった。今、議長と議長の剣として、二人は同じ場所にいる。同じ場所にいることが、アドニスを安堵させていた。
安堵することは、健全な感情ではないかもしれない、と彼は知っていた。
彼は、アッシュを傍らに置きたかった。それが、政治的な必要性であったとしても、彼自身の感情として、彼はそれを望んでいた。アッシュが彼の傍らから離れないことを、彼は望んでいた。
これは、仲間への感情だろうか。
それとも、別の何かだろうか。
彼は、答えを出さなかった。
答えを出すと、自分の歪みが明らかになる。明らかになれば、彼はそれを正そうとする。正そうとすれば、アッシュとの距離を、自分から遠ざけねばならない。
遠ざけたくなかった。
だから、彼は、答えを出さなかった。
出さないまま、アッシュを、隣に置いた。
* * *
窓から、風が入った。
砂漠の方角からの風だった。
風は議事堂の二階の窓を抜けて、議長席のあるホールへと流れ込んだ。アドニスの銀髪が、わずかに揺れた。彼は目を閉じて、風を受けた。
風は、王朝の時代を吹き払った風だった。
王朝が終わり、議会が始まり、新しい時代が動き始めていた。
風は新しいものを運び、古いものを飛ばす、と誰かが言っていた。彼自身が、半年前、議会発足の日に、そう言ったかもしれない。あるいは、ダンテさんが言ったかもしれない。誰が言ったかは、忘れた。
だが、彼の中で、その言葉は、繰り返されていた。
古いもの。
彼の中の歪みは、古いものだろうか。それとも、新しいものとして、彼に残り続けるものだろうか。
風は、それを答えてくれなかった。
* * *
彼は、訓練場の跡を、もう一度見た。
砂地に、午前の鍛錬の跡が刻まれていた。
アッシュは、もういない。今、彼は廊下に出ている。だが、訓練場の跡は、彼の存在の物理的な証拠として残っていた。
彼が今朝、ここで剣を振った。それは事実だった。
半年前、彼が「俺は俺で勝ちにいく」と言った。それも事実だった。
その二つの事実の間に、何があるか、アドニスはまだ、完全には捉えきれていなかった。
捉えきれないまま、彼はアッシュを、傍らに置いていた。
彼の傍らに、アッシュがいる。
戦時、彼が捧げようとした男。捧げきれなかった男。その男が、今、彼の議長席の隣に立っている。
やっと、隣に――。
アドニスは、その言葉を、口に出さなかった。
声に出して言うと、何かが、形になってしまう。形になれば、それを、アッシュが聞くかもしれない。聞かせたくなかった。
彼は、その言葉を、内側に留めた。
留めて、目を閉じた。
風が、もう一度、彼の銀髪を揺らした。
* * *
午後の議会が始まった。
俺は議長席の隣に立った。
アドニスは議長席に戻っていた。彼の目は、いつもの彼の目に戻っていた。冷たい計算と、揺るがない判断の目。
各領の代表が、午後の議題を出した。
俺はそれを、議長席の隣で、聞いていた。
聞いていたが、内容は、また半分しか理解できなかった。
俺は政治を覚える気がなかった。覚える必要も感じなかった。俺の役目は、議長の傍で剣を持つことだった。それだけ。
だが、俺はアドニスの隣に立っていた。
立っていることが、たぶん、俺がアドニスに返せている、唯一のものだった。
戦時、彼は俺の隣を走った。剣を持って。傷を負って。私を頼ってください、と言って。
今、俺は彼の隣に立っている。
俺の役目だ。
それで、いい。
* * *
議会が長引いた。
窓の外で、砂漠の方角から風が吹き続けていた。
風は議事堂の窓を抜けて、議長席のホールへ入り、廊下を抜け、訓練場の砂地に流れていった。
砂地の鍛錬の跡を、風が、少しずつ、平らに均していった。
明日の朝、また俺はそこで剣を振る。
振ることが、俺がまだ続けている、ただ一つのことだった。




